第十一章 白百合は泥に沈む
王都中央広場には、王太子の婚礼を祝うための白い花が飾られていた。
磨き上げられた街灯には金色の旗が垂れ、広場を囲む建物の窓からは、王家の紋章を染め抜いた布が下がっている。
午後にはアレクシスとリリアーヌの婚礼が執り行われる予定だった。
本来ならば、人々は祝福のために集まるはずだったのである。
けれど今、広場を満たしているのは歓声ではない。
クラリッサが告げた二人の名が、群衆の間を波のように伝わっていく。
「リリアーヌ様が、公爵令嬢を陥れた」
「エレオノーラ様は生きているのか」
「王都を飢えさせたのは、その公爵令嬢だと言ったぞ」
「なら、誰が悪人なんだ」
戸惑いと怒りが絡み合い、広場の空気を重く濁らせる。
クラリッサは壇上から人々を見渡した。
ソフィを失ったミレイユの姿もある。
東方遠征で傷を負った兵士たちも、杖をつきながら集まっていた。
彼らは物語を聞きに来たのではない。
自分たちの人生を傷つけた者の名を、知るために来たのだ。
「静粛に」
クラリッサが拡声の魔石へ魔力を流す。
「これより、証拠と証言を一つずつ公開します」
「王家、貴族、商会のいずれにも、事実を隠させません」
王宮側の騎士団長が壇上へ近づいた。
「レインフォード侯爵令嬢」
「この集会は、国王陛下の許可を得ていない」
「直ちに中止していただきたい」
「諸侯会議を構成する五家のうち、三家の署名があります」
クラリッサは許可状を掲げた。
「王国裁判所の判事も立ち会っております」
「形式上の不備はありません」
「婚礼の日に、王太子殿下を侮辱するおつもりか」
「今日だからこそです」
クラリッサは白い花で飾られた王宮への道を見る。
「真実を隠したまま王太子が婚姻を結べば、リリアーヌ・ベルジェは次代の王妃となる」
「王妃になった後では、証言者も証拠も消されるでしょう」
「それは憶測だ」
「二年前、実際に消されました」
騎士団長が言葉を失う。
クラリッサはセドリックへ頷いた。
彼は緊張に顔を強張らせながら、壇上の中央へ立つ。
「僕は、セドリック・ヴァン・アルディスです」
名乗った瞬間、群衆がどよめいた。
「二年前、国家反逆罪によって爵位継承権を奪われ、北部辺境へ追放されました」
「ですが、父も姉も、王太子暗殺を企ててはいません」
「その証拠を、今日ここでお見せします」
クラリッサが合図すると、記録用の魔石が光を放つ。
広場の上空に、薬種商の老人の姿が浮かび上がった。
『二年前、夜眠草を買ったのは、ベルジェ伯爵家の侍女です』
『代金は伯爵家の小切手で支払われました』
『王太子殿下の毒殺未遂が起きた後、取引記録を処分するよう、ガストン子爵から命じられました』
映像が消え、次に王宮の元侍女が現れる。
『リリアーヌ様は、ご自身の指へ針を刺して血を出し、エレオノーラ様から贈られたハンカチへつけました』
『それを、嫌がらせの証拠だと殿下へお見せになったのです』
『私は真実を話そうとしました』
『ですが、家族を殺すと脅されました』
さらに、階段事件の偽証に加担したカトリーヌ男爵令嬢の証言。
慈善院の帳簿。
バルガスが保管していた命令書。
一つの証拠だけなら、誤りや捏造だと否定できる。
しかし独立した証言と記録が幾重にも重なれば、それは疑惑ではなく事実となる。
群衆の怒りは、次第に一つの方角へ向かい始めていた。
「白百合だと」
「公爵家の金を盗んで、慈善をしていたのか」
「子どもまで働かせて」
王宮へ通じる大扉が開く。
純白の婚礼衣装をまとったリリアーヌが、近衛騎士に囲まれて現れた。
頭には真珠の冠。
長い裾には、銀糸で白百合が刺繍されている。
その姿は美しかったが、顔には花嫁の幸福より、隠しきれない焦燥が浮かんでいた。
アレクシスも彼女の隣にいる。
「この茶番を止めろ」
王太子の一喝が、広場を揺らす。
「王家の許しもなく、偽りの証拠で余の婚約者を貶めるとは何事か」
クラリッサは壇上から彼を見下ろした。
「偽りとおっしゃるなら、契約魔法による審理をお受けください」
「余を罪人のように扱うつもりか」
「潔白であれば、恐れる理由はございません」
「無礼者」
アレクシスが騎士へ命じようとする。
しかし諸侯会議側の護衛が壇上を囲み、道を塞いだ。
王家の騎士たちは剣へ手をかけたものの、群衆の前で貴族同士の戦いを始めることまではできない。
「殿下」
リリアーヌが一歩進み出る。
「私に、説明させてくださいませ」
彼女の声は震えていた。
目には涙が浮かんでいる。
「皆様がお怒りになるのも当然です」
「ですが、私は何も存じませんでした」
「薬草の購入も、侍女が勝手に行ったことです」
「慈善院の帳簿も、院長を信じて署名しただけ」
「バルガス様への命令書は、私の筆跡を真似た偽物です」
「契約魔法の印が残っています」
クラリッサが告げる。
「当時、あなたが用いていた魔力紋とも一致しました」
「魔力紋だって、複製できるかもしれません」
「できません」
「少なくとも、現在の王国魔法では」
「なら、誰かが禁術を」
リリアーヌは周囲を見回す。
「エレオノーラ様です」
「すべて、あの方の復讐なのです」
「私が殿下に愛されたことを恨んで、証拠を作り上げたのですわ」
群衆の空気がわずかに揺れる。
エレオノーラが穀物不足へ関わっていることは、クラリッサ自身が告発した。
復讐のために民衆を利用した女なら、証拠を偽造しても不思議ではない。
リリアーヌは、その迷いを見逃さなかった。
「皆様も、苦しめられたのでしょう」
「王都からパンを奪ったのは、私ではございません」
「兵士の装備が粗悪だと知りながら、告発を遅らせたのも、あの方です」
「エレオノーラ様は、ご自分の罪を隠すため、私を悪女に仕立てようとしているのです」
「それは違います」
人々の後方から、女の声がした。
灰色の外套をまとった人物が、群衆の間を進んでくる。
人々は道を譲った。
その女が歩くたび、空気が冷えていくようだった。
壇上の前へ辿り着くと、女は顔を隠していたヴェールを外す。
次に、黒く染めていた髪へ魔法解除の薬を流した。
黒色が薄れ、その下から月光のような銀髪が現れる。
「エレオノーラ」
アレクシスが、息を呑む。
リリアーヌの顔から血の気が失われた。
二年前に死んだはずの令嬢。
祝賀会で罪人として連れ去られた女。
彼女が生きて、自分たちの前へ戻ってきた。
「お久しぶりでございます、王太子殿下」
エレオノーラは、かつて何千回も練習した王太子妃の礼を取った。
「そして、ご婚礼おめでとうございます」
「生きていたのか」
「残念でいらっしゃいますか」
「違う」
アレクシスは一歩踏み出した。
「余は、そなたが盗賊に殺されたと」
「その盗賊へ、私の容姿と護送経路を伝えたのはガストン子爵です」
「彼の帳簿には、ベルジェ伯爵家から支払われた金が記されております」
「リリアーヌ」
アレクシスが隣を見る。
「これは、どういうことだ」
「存じません」
リリアーヌは首を振った。
「エレオノーラ様の嘘です」
「ならば、これは」
エレオノーラが父への命令書を掲げる。
「そして、こちらは」
夜眠草の購入記録を示す。
「すべて嘘なのですね」
「そうです」
「では、契約魔法の下で、私を陥れていないと誓えますか」
リリアーヌの唇が止まる。
「誓ってくださいませ」
「あなたが階段から落ちた日、私は財務院にいました」
「毒が購入された日、あなたの侍女は伯爵家の馬車で薬種商を訪れた」
「父を殺すよう命じた書類には、あなたの魔力が残っている」
「それでもすべて、偶然なのですね」
「私は……」
「誓えないのですか」
エレオノーラが近づく。
リリアーヌは後ずさった。
長い婚礼衣装の裾を踏み、よろめく。
「殿下」
彼女はアレクシスの腕へ縋りついた。
「助けてください」
「私は殿下のために」
「余のために、何をした」
「二年前、エレオノーラが無実だと知っていたのか」
「違います」
「私は、ただ」
リリアーヌの瞳が激しく動く。
逃げ道を探している。
これまで何度も、涙と弱さで人々を味方にしてきた。
だが今回は、縋るべき王太子自身が疑いの目を向けていた。
「殿下が、お望みになったのです」
リリアーヌは不意に声を変えた。
「私を愛していると」
「エレオノーラ様が邪魔だと、殿下がおっしゃったのではありませんか」
「何を言う」
「いつも愚痴をこぼしておられました」
「婚約者が自分を見下している」
「何をしても否定される」
「彼女さえいなければ、自由になれると」
「だから私は、殿下のために」
「黙れ!」
アレクシスがリリアーヌの手を振り払う。
「余は、毒を盛れとも、公爵を殺せとも命じていない」
「私は殿下を愛していたから」
「余を騙したのだ」
「騙した」
リリアーヌの顔から、弱々しい令嬢の仮面が剥がれ落ちる。
「私がいなければ、あなたは何一つできなかったではありませんか」
「演説の言葉も、民衆へ見せる笑顔も、私が教えて差し上げた」
「戦から逃げ帰っても、私だけは立派だったと褒めて差し上げた」
「今さら、私だけを悪女にして逃げるおつもり」
「余は王太子だ」
「あなたは、王太子という衣装を着ていただけの子どもでしょう」
広場の誰もが、二人の争いを見ていた。
祝福されるはずだった花嫁と花婿が、互いの罪を暴き、相手を踏み台にしようとしている。
そこに愛などなかった。
自分を肯定してくれる者を求めた男と、愛されることで地位を得ようとした女。
二人が築いたものは、信頼ではなく、互いの欲望を映す鏡だった。
「リリアーヌ・ベルジェ」
王国裁判所の判事が進み出る。
「証拠捏造、偽証教唆、公金横領、殺人教唆の疑いにより、身柄を拘束します」
騎士がリリアーヌを囲む。
彼女は後退しながら、婚礼衣装の袖へ手を入れた。
銀色の光が走る。
隠し持っていた短剣を抜き、エレオノーラへ飛びかかった。
「あなたさえ」
エレオノーラは動かなかった。
刃が胸へ届く直前、クラリッサが剣の鞘でリリアーヌの手首を打つ。
短剣が石畳へ転がった。
騎士たちがリリアーヌを取り押さえる。
「離して!」
「私は未来の王妃よ」
「殿下、助けて」
アレクシスは目を逸らした。
リリアーヌは引きずられながら、エレオノーラを睨む。
「あなたも私と同じでしょう」
「欲しいもののためなら、誰を犠牲にしてもいい」
「違うわ」
エレオノーラは即座に否定した。
その瞬間、死者名簿の名が脳裏に浮かぶ。
ソフィ・ベルナール。
東方の村で死んだ十二人。
ガストン。
バルガス。
彼女の沈黙によって、戻らなかった命。
リリアーヌは、エレオノーラの一瞬の迷いを見た。
そして勝ち誇るように笑った。
「同じよ」
その声を残し、リリアーヌは連行されていく。
群衆の一部から、エレオノーラの名を呼ぶ声が上がった。
冤罪だった。
公爵令嬢は陥れられていた。
名誉を取り戻すべきだ。
その声は次第に広がり、歓声へ変わろうとする。
エレオノーラは目を閉じた。
二年間、望み続けてきた瞬間だった。
自分の名が、悪女ではなく被害者として呼ばれている。
父の言葉が正しかったと、ようやく証明されたのである。
「まだ、終わっていません」
クラリッサの声が、歓声を断ち切った。
彼女は一冊の帳簿を掲げる。
「エレオノーラ・フォン・アルディスが、二年前の事件について無実であることを、私は認めます」
「けれど無実の令嬢であることと、新たな罪を犯していないことは、同じではありません」
群衆が静まり返る。
「この帳簿には、王都への穀物流通を意図的に止めた契約が記録されています」
「王宮の配給が失敗するまで、備蓄小麦の放出を禁じた命令も」
「署名したのは、灰色の貴婦人」
クラリッサはエレオノーラを見た。
「エレオノーラ・フォン・アルディス、あなたです」
エレオノーラの名を呼んでいた人々の顔から、喜びが消える。
ミレイユが群衆の前へ出た。
「お母さんが死んだのは」
かすれた声だった。
「あの人が、小麦を出さなかったからなの」
エレオノーラは答えられない。
否定する言葉は、いくらでも思いついた。
暴動を起こしたのは王家の無策。
小麦を隠した商人。
群衆を制御できなかった騎士。
自分一人の責任ではない。
どれも事実だった。
そして、どの事実も彼女の罪を消しはしない。
「エレオノーラ」
クラリッサが壇上から手を差し伸べる。
「証拠を提出し、審理を受けて」
「あなたの無実も、罪も、同じ法の下で明らかにする」
「それが、あなたの望んだ正義でしょう」
エレオノーラは差し伸べられた手を見る。
二年前、同じ手が動きかけ、父親に止められた。
旧温室でも差し出された。
そして三度目の今、その手を取れば、復讐者としての自分は終わる。
アレクシスはまだ裁かれていない。
王家の責任も残っている。
ここで止まるわけにはいかなかった。
エレオノーラは懐から魔石を取り出し、石畳へ叩きつける。
灰色の煙が広場を覆った。
「エレオノーラ!」
クラリッサが叫ぶ。
煙が晴れたとき、彼女の姿は消えていた。
地面には、公爵家の紋章を刻んだ銀の留め具だけが落ちている。
クラリッサはそれを拾い上げた。
歓声も罵声も失った広場に、婚礼を祝う白い花だけが風に揺れていた。




