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第八章 友人だった人

クラリッサは、目の前の女が生きているという事実を、すぐには受け止められなかった。  

頬に触れれば消えてしまう幻のように見える。  

エレオノーラの輪郭は二年前より鋭くなり、以前にはなかった傷が左の首筋へ残っていた。  

けれど、長い睫毛も、感情を隠すときに唇の端へ力を入れる癖も変わっていない。


「本当に」  


クラリッサは手を伸ばした。


「本当に、生きていたのね」  


抱きしめようとする。  

エレオノーラは半歩下がり、その腕を避けた。  

わずかな距離だった。  

しかし二人の間には、越えられないほど深い亀裂が走っている。


「触れないで」  


エレオノーラの声は静かだった。


「なぜ」

「今さら、友人の顔をしないで」  


クラリッサの手が宙に残る。


「私は……」

「二年前、あなたは大広間にいた」

「私が拘束されるところを見ていた」

「止めようとしたわ」

「止めなかったでしょう」

「父に」

「レインフォード侯爵に命じられたから」  


エレオノーラは薄く笑った。


「皆、同じことを言うのね」

「命じられた」

「仕方がなかった」

「自分にはどうすることもできなかった」

「違う」

「私は翌朝、父へ抗議した」

「公爵家の裁判を求めて、王宮にも」

「翌朝」  


その二文字が、刃のように響く。


「私が地下牢へ入れられた翌朝」

「公爵邸が燃えた翌朝」

「あなたが安全な寝台で目を覚ました翌朝に」

「エレオノーラ……」

「あなたを責める資格が、私にないことは分かっている」  


クラリッサは言葉を絞り出した。


「大広間で父の手を振りほどくべきだった」

「あなたの隣へ立つべきだったわ」

「私は家の立場を失うことが怖かった」

「王家へ逆らえば、領民にまで影響が及ぶと考えた」

「でも、それは結局、自分を納得させるための理屈だった」  


エレオノーラの表情は動かない。


「ごめんなさい」

「謝罪を受け取るために、生き延びたのではないわ」

「それでも、謝らせて」

「何度でも」

「あなたが許さなくても、私は……」

「許さないと言っているの」  


広間の魔晶灯が、二人の影を床へ落とす。  

かつて学園で並んで歩いていた頃、その影はよく重なっていた。  

今は互いに別の方向へ伸びている。


「話す場所を変えましょう」  


クラリッサは周囲を見た。


「誰かに聞かれる」

「私の屋敷へ来て」

「あなたの屋敷には、侯爵家の騎士がいる」

「拘束するつもりはないわ」

「信用できると思うの」  


クラリッサは苦しげに息を吐く。


「ならば、あなたが場所を決めて」  


エレオノーラはしばらく考えた。


「旧王宮庭園の温室」

「一刻後に」

「分かったわ」


旧王宮庭園は長く使われておらず、温室の硝子も半分ほど割れていた。  

夜露に濡れた蔓が壁を這い、かつて異国の花々が咲いていた花壇には雑草が生い茂っている。  

エレオノーラは崩れかけた噴水の前に立っていた。  

ここは幼い頃、クラリッサとよく遊んだ場所である。  

王妃教育を抜け出したエレオノーラを、クラリッサが秘密の通路から連れ出した。  

泥でドレスを汚し、二人で侍女に叱られたこともある。  

温室を選んだのは、過去の記憶でクラリッサを揺さぶるためだった。  

そう考えようとした。  

単に、自分もあの頃を思い出したかったのだとは認められない。


「一人で来たわ」  


クラリッサが入口で両手を広げる。  

剣は持っているが、侯爵家の騎士は連れていない。


「話を聞かせて」

「何を」

「この二年、どこにいたの」

「何をしていたの」

「見れば分かるでしょう」

「灰色の貴婦人になり、あなたたちが守った王家を壊している」

「私は王家を守っていない」

「婚約破棄事件の再調査を、今も求めている」

「慈善院の証拠も、監査院で揉み消されないよう手配した」

「遅すぎたわ」

「そうね」  


クラリッサは否定しない。


「でも、遅いからといって、何もしない理由にはならない」

「あなたの無実は証明できる」

「ガストンは死んだけれど、慈善院の帳簿と偽証者の証言がある」

「バルガスが持っていた命令書も、あなたが持っているのでしょう」  


エレオノーラの目が細くなる。


「なぜ、それを」

「元看守を見つけた」

「彼は灰色の貴婦人へ情報を売ったと証言したわ」

「協力させて」  


クラリッサが一歩近づく。


「正式な法廷で、アレクシス殿下とリリアーヌの罪を明らかにする」

「公爵家の名誉も回復させる」

「あなたは、もう隠れなくていい」

「法廷」  


エレオノーラは、錆びたような響きでその言葉を繰り返した。


「その法廷を誰が開くの」

「国王陛下」

「私の父を見殺しにした国王が」

「ならば諸侯会議へ訴える」

「半数は公爵家の領地を分け合った者たちよ」

「王国法は」

「王国法……」  


エレオノーラは噴水の縁へ手をついた。


「私も、二年前に同じ言葉を使ったわ」

「正式な審理を求めます」

「契約魔法で証言を確かめてください」

「王国法に則って理由を開示してください」

「殿下は、何と答えたと思う」  


クラリッサは黙っている。


「必要ない、と」

「法律は、守る意思のある者の間でしか意味を持たない」

「彼らは自分たちに都合の悪い証拠を消し、証人を殺す」

「ガストンのように」

「だからといって、あなたが証人の死を利用していい理由にはならない」  


クラリッサの声が鋭くなる。


「ガストンが狙われていると知っていたのでしょう」

「助ける準備はしていました」

「でも、監査院へすぐには知らせなかった」

「リリアーヌが手を出すまで待った」

「結果として、彼は死んだ」

「彼は私を陥れた張本人よ」

「だから、死んでも構わなかったの?」  


問いが温室の静寂へ落ちる。  

割れた天井から月明かりが差し込み、エレオノーラの横顔を青白く照らす。


「構わないとは言っていないわ」

「あなたの行動が、そう語っている」

「東方の装備も同じよ」  


クラリッサは負傷兵から聞いた話を告げた。  

出兵の三日前には、灰色の女が欠陥を知っていたこと。  

告発が五日後まで遅れたこと。  

その間に兵士や村人が傷つき、十二人が命を失ったこと。


「知っていたのね」

「戦闘前に間に合うと判断しました」

「間違った」

「ええ」

「それだけ」

「補償は行っています」

「家族を失った人へ金を渡せば、責任を果たしたことになるの」

「では、何をしろと言うの」  


エレオノーラの声が初めて揺れた。


「時間を戻せと」

「死者を蘇らせろと」

「できないことを責めて、あなたは何がしたいの」

「止めたいのよ」  


クラリッサは声を張り上げた。

「これ以上、同じことを繰り返す前に」

「王太子とリリアーヌの罪を暴くことには協力する」

「けれど、そのために無関係な人を犠牲にするなら、私はあなたを止める」  


エレオノーラは、友人だった女を見つめた。


「無関係な人などいないわ」

「王家が私を罪人にしたとき、民衆は喜んだ」

「新聞を読み、嫉妬に狂った悪女を笑った」

「公爵家が滅びるのを見て、誰も声を上げなかった」

「それを、関係がないとは言わせない」

「民衆が何を知っていたというの」

「王家と新聞が流した嘘しか知らなかった人々に、何を選べたの」

「知らなかったという言葉は、リリアーヌだけで十分よ」

「では、あなたはこの国のすべてを罰するの」  


エレオノーラは答えない。  

温室の隅から、夜鳥の鳴き声が聞こえる。


「王家を倒せば、国は変わります」  


やがて彼女は静かに告げた。


「今、多少の犠牲が出ても、将来救われる人間の方が多い」

「多少」  


クラリッサの顔から血の気が引く。


「十二人は、あなたにとって多少なの」

「そのような意味では」

「ならば、どんな意味」

「あなたは変わったわ」  


その言葉が、エレオノーラの胸へ深く刺さる。


「変えたのは、あなたたちでしょう」

「私も、その一人よ」  


クラリッサは視線を逸らさない。


「だから今度は、沈黙しない」

「私の過去の罪を責められても、あなたの今の罪を見逃しはしない」

「それが友人としてできる、最後のことだと思っている」

「友人」  


エレオノーラは笑った。


「私たちは、もう友人ではないわ」

「あなたがそう思っても」

「私は、あなたの友人でいたい」

「勝手ね」

「ええ」

「二年前も今も、身勝手よ」  


クラリッサの目に涙が浮かぶ。  

それでも、彼女は泣かなかった。


「次に会うとき、私は侯爵家の人間として来る」

「あなたを捕らえなければならないかもしれない」

「それでも、その前にもう一度だけ聞くわ」

「一緒に来て」

「生きて、自分の名を取り戻して」  


エレオノーラは背を向けた。


「私の名は、彼らを地に落とした後で拾います」  


温室を出ていく。  

背中へクラリッサの視線を感じたが、振り返らなかった。


灰色商会へ戻ると、ローウェンが王都の物流図を用意していた。  

机の上には、運河、街道、河港、倉庫の位置が色分けされている。


「本当に実行するのですか?」

「王太子とリリアーヌの成婚式は、二か月後です」

「王家は式典のため、各地から大量の食料と物資を集めています」

「その一方で、民衆には増税を課した」

「不満はすでに高まっている」

「王都への穀物搬入が止まれば、怒りは王家へ向かいます」

「三日間だけです」  


エレオノーラは物流図へ指を置いた。


「北の街道では橋の補修を理由に荷車を止める」

「西の運河は水門の点検」

「南の河港では労働者に休業させます」

「倉庫には穀物を残すため、飢餓にはなりません」

「価格が上がり始めた時点で流通を戻す」

「本当に三日で戻りますか」

「戻します」

「商人は利益を求めます」

「一度価格が上がれば、命令しても穀物を隠す者が出る」

「契約で縛ります」

「契約外の商人もいる」

「すべて計算済みです」  


ローウェンは地図へ目を落とした。


「クラリッサ嬢と会ったのですね」

「監視していたの」

「あなたの安全を守っていたのです」

「彼女は何と」

「このようなことは止めろと」

「それだけですか」

「友人でいたいそうです」  


エレオノーラは書類を整えた。


「随分と都合のよい話でしょう」

「あなたは、嬉しそうに見えます」  


羽根筆を持つ手が止まる。


「気のせいです」

「そうですか」  


ローウェンはそれ以上、踏み込まなかった。  

エレオノーラは穀物商会への指示書へ署名する。  

三日間。  

王都を飢えさせるのではない。  

王家の無策を示すため、わずかな不足を演出するだけ。  

倉庫の在庫も確認している。  

平年どおりなら、何の問題もない。  

契約魔法の光が指示書を包み、文字の中へ消えた。  

その頃、王都から遠く離れた北部地方では、平年より早い冷気が畑を覆っていた。  

灰色の斑点を浮かべた小麦が、朝露に濡れて横たわっている。  

北部全域に広がった麦枯れ病の報告は、街道を走る早馬の鞄に入っていた。  

だが橋の補修を名目に、街道はすでに封鎖されている。  

三日間の流通停止は、エレオノーラの知らない場所で、三週間分の飢えへ姿を変えようとしていた。












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― 新着の感想 ―
自分は目の前の犯罪を傍観したのに、自分が傍観した犯罪の被害者に対して自分が傍観した犯罪の加害者同士の仲間割れに対してはその犯罪を止めろという。 そして同じ口で私はあなたの友達という。 改めて字にする…
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