第七章 共犯者たちの晩餐
王都の西に建つ旧ベリエール宮は、百年前まで王族の離宮として使われていた。
現在は外国使節の歓待や、大貴族が主催する夜会のために貸し出されている。
その夜、宮殿へ招かれた客は皆、顔を隠していた。
動物や花、神話の怪物をかたどった仮面。
金糸と宝石を惜しみなく使った衣装。
正体を伏せたまま酒を酌み交わす仮面舞踏会は、貴族たちにとって、日頃は口にできない欲望を解放する場所でもある。
けれど今夜の宴には、もう一つの目的があった。
主催者である灰色の貴婦人は、婚約破棄事件へ関わった者たちを一堂に集めている。
招待状を受け取ったのは、当時の学園教師、王宮の文官、財務官僚、ガストン子爵の親族、リリアーヌに偽証を頼まれた令嬢たち。
いずれも、自分以外の共犯者がどれだけ存在するのか知らない。
エレオノーラは二階の回廊から、華やかな広間を見下ろしていた。
顔には銀狐の仮面。
黒く染めた髪には、灰色の薔薇を飾っている。
「十九名、全員が揃いました」
執事に扮したローウェンが、名簿を差し出す。
「よほど、やましいのでしょう」
「普通の招待状なら警戒したはずです」
「ですが、自分たちの罪を知る者から秘密の宴へ招かれたとなれば、欠席する方が危険だと考える」
「仮面をつければ、罪悪感まで隠せると思っている者もいます」
広間では孔雀の仮面をつけた男が、鹿の仮面をつけた女へ話しかけている。
互いに正体を探り、相手がどこまで知っているのか確かめようとしていた。
「全員へ封筒を」
「渡しました」
「内容は、それぞれ異なります」
エレオノーラは十九通の封筒を用意していた。
ある者には、リリアーヌが共犯者を切り捨てるつもりだと。
ある者には、ガストンがすべてを自白したと。
別の者には、王太子が事件の再調査を命じたと記している。
偽情報には、一通ごとにわずかな違いがあった。
そのうちどれがリリアーヌへ伝わるかを見れば、彼女と今も繋がっている人間を特定できる。
「餌を撒いて、誰が巣穴へ運ぶかを見るのですね」
「鼠を捕らえるには、巣の場所を知らなければなりません」
「鼠にも失礼な例えです」
ローウェンは広間を見下ろす。
「彼らは追い詰められています」
「何をするか分かりません」
「だからこそ、今夜ここへ集めたのです」
「互いの顔を疑わせる」
「孤立した者ほど、自分だけは助かりたいと考えます」
「自白する者が出ると」
「必ず」
楽団の曲が変わった。
踊っていた者たちが離れ、中央へ空間が生まれる。
エレオノーラは階段を下り、広間の中央へ進んだ。
無数の仮面が彼女へ向く。
「皆様、今宵はお集まりいただき、ありがとうございます」
灰色の扇を広げ、優雅に一礼する。
「仮面舞踏会には、一つだけ決まりがございます」
「夜が明けるまでは、互いの正体を問わないこと」
「けれど今夜は、特別な趣向をご用意いたしました」
使用人たちが小箱を運び込む。
中には、二年前の婚約破棄事件に関する資料の写しが入っていた。
「これより皆様には、ご自身が誰であるかではなく、何をなさったかを語っていただきます」
客たちの間に動揺が走る。
「何の真似だ!」
獅子の仮面をつけた男が声を上げた。
王宮財務院のベラミー次官である。
「我々を脅迫するつもりか」
「脅迫ではございません」
「皆様がお忘れになった過去を、思い出していただくだけです」
「馬鹿馬鹿しい」
ベラミーが出口へ向かう。
扉は開かなかった。
外側から施錠されているのではない。
契約魔法の結界が、広間を包んでいた。
「ここから出せ!」
「夜が明ければ、扉は開きます」
「その前に、お好きな方とお話しください」
「誰が皆様の秘密を売ったのか」
「誰がリリアーヌ・ベルジェ様へ、皆様の名を伝えたのか」
「どうぞ、ご自由にお探しくださいませ」
広間に怒号が上がる。
客たちは互いを問い詰め、受け取った封筒を見せ合い始めた。
情報が異なることに気づくと、疑いはさらに深まる。
偽証した教師が、王宮文官へ掴みかかった。
「お前が告げ口したのか!」
「私は何も話していない」
「ガストンが自白したと書かれている」
「私の封筒には、ガストンは沈黙していると」
「ならば、どちらかが嘘をついている」
「嘘をついたのは、あの灰色の女だ」
誰かがエレオノーラを指さす。
「そうです」
彼女はあっさりと認めた。
「封筒の内容には、嘘も混じっています」
「ですが、皆様が二年前についた嘘に比べれば、かわいらしいものでしょう」
仮面の下で、いくつもの顔が歪む。
エレオノーラは、その恐怖を眺めていた。
二年前、自分が大広間の中央に立たされたとき、彼らの多くは壁際で見ていた。
真偽を確かめようともせず、誰もが見世物を楽しんでいた。
今度は彼らが、互いの視線に晒される番だった。
日付が変わる頃、最初の告白者が現れた。
蝶の仮面をつけた若い令嬢が、エレオノーラの足元へ跪く。
「私は頼まれただけです」
「何を頼まれたのです」
「リリアーヌ様が、エレオノーラ様に階段から突き落とされたと証言するように」
「見ていたのですか」
「いいえ」
「けれど、そう言えば父の借金を肩代わりすると」
「誰から頼まれました」
「ガストン子爵です」
令嬢は泣きながら仮面を外した。
男爵家の三女、カトリーヌ。
当時、卒業祝賀会にも出席していた。
「どうか、私の家族だけは」
「証言を書面にしてください」
「契約魔法を用いて、偽りがないと誓うのです」
「そうすれば、あなたの家族には手を出しません」
「私自身は」
「あなたが奪ったものに相応する責任を」
カトリーヌの顔が強張る。
「私が少し証言しただけで、公爵家があそこまで滅びるとは思わなかったのです」
「では、どの程度なら滅びてもよいと思ったのですか」
「違います」
「私は」
「自分の家を守りたかっただけ……」
「私も、そうでした」
エレオノーラの声が、思いがけず静かになる。
「家族を守るため、自白書へ署名しました」
「ですが、私の父は死んだ」
「あなたの事情が、私の父を生き返らせることはありません」
カトリーヌは俯き、震える手で羽根筆を取った。
一人が証言すると、堰を切ったように他の者も続いた。
自分は命令されただけ。
金を受け取っただけ。
王太子も承知していると聞いた。
リリアーヌが泣いていたから信じた。
皆が、罪のうち自分の取り分だけを小さく見せようとする。
夜が明ける頃には、十二通の証言書が集まった。
そして、リリアーヌへ情報を伝えている者も判明した。
梟の仮面をつけた王宮文官が、使用人へ密かに手紙を渡そうとしたのである。
手紙には、王太子が事件の再調査を命じたという偽情報が記されていた。
受取人はベルジェ伯爵邸。
「この方を見張ってください」
エレオノーラはローウェンへ命じる。
「すぐに捕らえないのですか」
「手紙を届けさせます」
「リリアーヌがどう動くか、見届けます」
夜明けとともに結界が解かれ、客たちは逃げるように宮殿を去っていく。
床には、捨てられた仮面がいくつも転がっていた。
仮面を外したところで、彼らが素顔へ戻れたようには見えなかった。
二日後。
投獄中のガストン子爵から、監査院へ取引の申し出があった。
軍需汚職を認める代わりに、婚約破棄事件の真相を証言するという。
彼は王太子の黙認と、リリアーヌの指示を示す書類を持っていると主張した。
「やはり、偽情報に食いつきました」
ローウェンが報告書を机へ置く。
「再調査が始まる前に、自分から取引を持ちかけたのでしょう」
「リリアーヌは」
「ベルジェ伯爵邸から王宮へ、三度使者が出ています」
「そのうち一人は、王宮牢の副看守と接触しました」
「ガストンを消すつもりですね」
「おそらく」
「監査院へ警告を」
「ガストンの身柄を移させますか」
ローウェンの問いに、エレオノーラはすぐには答えなかった。
ガストンの証言は重要である。
彼が生きたまま法廷へ立てば、王太子とリリアーヌの罪を直接証明できる。
だが同時に、口封じが行われれば、それ自体がリリアーヌを追い詰める新たな証拠となる。
「副看守を見張らせてください」
「監査院へは」
「まだです」
「また待つのですか」
「毒を持ち込む前に捕らえれば、リリアーヌは知らぬと言い張るでしょう」
「実行させると」
「ガストンが口にする前に、取り押さえます」
「失敗する可能性があります」
「見張りを三人つけてください」
「それでも」
「ローウェン」
エレオノーラは低い声で遮った。
「私の指示です」
彼は何かを言おうとした。
やがて諦めたように一礼し、部屋を出る。
扉が閉じた後、エレオノーラは自分の指先を見た。
少し震えている。
危険なのは理解していた。
それでも、リリアーヌの手がガストンへ届く瞬間を証明しなければならない。
自分は勝つために必要な選択をしている。
そう言い聞かせた。
翌朝、王宮牢から鐘が鳴った。
囚人が死亡したことを知らせる、低い鐘である。
ガストン子爵は夜明け前、自ら命を絶ったと発表された。
エレオノーラが報告を受けたとき、手にしていた茶杯が床へ落ちた。
「見張りは何をしていたのです!」
「副看守を追いました」
ローウェンの声は硬い。
「ですが、毒を運んだのは別の人間です」
「牢の礼拝を担当する司祭が、聖餐用の葡萄酒へ混ぜていた」
「ガストンは」
「解毒が間に合いませんでした」
「司祭は捕らえたのですか」
「逃亡しました」
「ただし、葡萄酒の入手経路は追えます」
「商会の名は!?」
ローウェンは一枚の納品書を置く。
「カーマイン商会」
エレオノーラの表情が止まった。
カーマイン商会は、灰色商会の傘下にある。
直接経営しているわけではないが、資金の半分はエレオノーラが出していた。
「なぜ、私たちの商会が……」
「葡萄酒は通常の取引として納入されました」
「毒を混ぜたのは司祭です」
「ですが、監査院が資金関係を調べれば、灰色の貴婦人へ辿り着くかもしれません」
「リリアーヌは、それも計算して」
「違います」
ローウェンは首を振る。
「彼女が選んだのではありません」
「王宮牢へ葡萄酒を卸せる商会は三つだけです」
「そのうち最も警備が緩いのが、カーマイン商会だった」
「私たちが、そういう取引を重ねてきたからです」
エレオノーラは床へ散った茶杯の破片を見る。
ガストンは死んだ。
彼女が警告を遅らせたために。
リリアーヌの罪を確実にしようとして、最も重要な証人を失った。
「ガストンの書類を捜してください」
「すでに牢の中から持ち去られています」
「屋敷は」
「監査院が押収しています」
「家族は何か知らないの」
「調べます」
ローウェンは動かなかった。
「何か」
「あなたは、彼が死ぬ可能性を知っていました」
「助けるつもりでした」
「結果は同じです」
「私を責めたいのですか」
「私には、その資格がありません」
彼は茶杯の破片を拾った。
「私はあなたの命令に従いました」
「だからこそ、ガストンの死には私も責任がある」
「違います」
「指示したのは私です」
「ならば、あなたにも責任があると認めるのですね」
エレオノーラは答えられなかった。
同じ日の夕刻。
クラリッサは王宮牢の調査へ入った。
司祭の部屋から毒の残滓を発見し、葡萄酒の納品書も確認する。
カーマイン商会の帳簿を遡ると、二年前に灰色商会から多額の融資を受けていた。
灰色商会の大株主は、エレナ・ヴェルナー男爵未亡人。
慈善院で会った、灰色の貴婦人である。
クラリッサはその夜、旧ベリエール宮で開かれた仮面舞踏会の出席者名簿を入手した。
主催者も同じ人物だった。
ガストンが取引を申し出たのは、舞踏会の二日後。
あまりにも繋がりすぎている。
彼女は宮殿へ向かった。
宴の片づけは終わっていたが、広間にはまだ甘い香水と酒の匂いが残っている。
床の隅に、灰色の薔薇が一輪落ちていた。
クラリッサが拾い上げると、背後で足音がした。
銀狐の仮面をつけた女が、二階の階段から下りてくる。
「お捜し物ですか、レインフォード侯爵令嬢」
声は変えている。
けれど、その抑揚をクラリッサは知っていた。
「ええ」
彼女は薔薇を握りしめた。
「二年前に死んだ、私の友人を捜しているの」
銀狐の仮面が、わずかに傾く。
「亡くなった方なら、墓地へ行くべきでは」
「墓には、本人が入っていなかったわ」
「何をおっしゃっているのか」
「その歩き方を、私は知っています」
女の足が止まる。
「疲れると、右足をほんの少し庇う」
「十歳の頃、王宮の階段から落ちた傷が、今も痛むから」
クラリッサは一歩近づいた。
「扇を閉じるとき、親指を骨の内側へ添える癖も」
「アルディス公爵夫人が教えた作法ね」
「あなたは……」
喉が震える。
喜びと恐れが、同じ熱を持って胸に押し寄せていた。
「あなたは、エレオノーラなのでしょう」
銀狐の仮面の奥で、琥珀色の瞳が冷たく細められる。
「人違いです」
「いいえ」
「私を見なさい」
クラリッサは女の腕を掴んだ。
「エレオノーラ!」
次の瞬間、女は鮮やかに腕を捻り、クラリッサの手を外した。
右手の指には、公爵家の紋章を刻んだ銀の指輪が嵌められている。
二人の視線が、そこへ落ちた。
もう否定する意味はなかった。
女はゆっくりと銀狐の仮面を外す。
魔法で色を変えた瞳。
黒く染めた髪。
それでも、そこにいるのは間違いなく、二年前に失った友人だった。
「お久しぶりね、クラリッサ」
再会を告げる声に、懐かしい温かさはなかった。




