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第六章 王子の剣を折る

白百合慈善院の不正が暴かれてから一月が過ぎても、リリアーヌへの正式な処分は決まらなかった。  

慈善院長マルセル夫人と監督役の男は逮捕されたが、リリアーヌは監督責任を認めて謝罪し、横領への直接的な関与だけは否定し続けている。  

契約魔法の印が残る帳簿についても、内容を確認せず署名したと主張していた。  

王太子アレクシスは、その言葉を全面的に支持した。


「リリアーヌは人を疑うことを知らぬ」

「その純粋さを利用した者こそ、真に裁かれるべきである」  


王太子の声明は新聞各紙に掲載され、慈善院の事件は「善意ある令嬢を騙した悪徳院長の犯罪」へ形を変えつつあった。  

エレオノーラは、王都の商業区にある灰色商会の執務室で記事を読んでいた。  

窓の外では、細かな雨が石畳を濡らしている。


「純粋さ、ですか」  


新聞を机へ置き、インクで汚れた指先を布で拭う。


「便利な言葉ですね」

「何も知らなかったと言えば、無能であることさえ美徳に変わる」  


向かいに座るローウェンは、山積みの書類から一枚を抜き出した。


「世間は事実より、理解しやすい物語を好みます」

「悪い院長と、騙された聖女」

「それだけなら、新聞を一頁読むだけで理解できますから」

「罪人にされた公爵令嬢と同じですね」

「当時の記事も、嫉妬に狂った悪女という物語で統一されていました」

「殿下とリリアーヌ嬢には、味方が多い」

「味方ではありません」  


エレオノーラは雨の向こうに霞む王宮を見た。


「彼らが正しいと信じたい者が多いだけです」

「王太子の過ちを認めれば、その方を未来の国王として支持してきた自分たちまで、間違っていたことになる」

「リリアーヌの慈善を褒めた者も同じでしょう」

「では、どうします」

「彼らが信じたい物語を、信じられなくします」  


机の上には、東方国境の地図が広げられている。  

アルヴェリア王国と隣国グランツの境界には、肥よくな平野が続いていた。  

両国の間に正式な戦争状態はない。  

しかし干ばつで作物を失ったグランツ側の傭兵や脱走兵が、国境を越えて村を襲う事件が増えている。  

王国軍を率いる東方辺境伯は、すでに二度、中央へ増援を求めていた。  

国王は慎重だったが、アレクシスは自ら軍を率いると申し出ている。  

慈善院事件で傷ついた評判を、軍事的功績によって回復するつもりなのだろう。


「殿下は三日後、王都を出発するそうです」  


ローウェンが軍の編成表を差し出す。


「近衛騎士五百名、王都守備隊から千二百名」

「更に物資の輸送隊を含め、総勢二千を超えます」

「指揮官としては初陣ですね」

「ええ」

「その軍に、問題が」

「納入された装備の一部に、粗悪品が混じっています」  


ローウェンは机の下から、革鎧の一片を取り出した。  

一見すると上質な黒革に見える。  

だが縁を強く引くと、表面が紙のように剥がれた。


「古い革を薬品で染め直しています」

「雨を吸えば重くなり、乾燥すると脆くなる」

「弓矢どころか、長剣の一撃も防げないでしょう」

「数は」

「革鎧が二百着」

「荷馬車の車軸にも、強度の足りない木材が使われています」

「軍用天幕には防水処理がされておらず、保存食の袋も規定より薄い」

「納入元は」

「バルザック軍需商会」

「承認印はガストン子爵のものです」  


ガストン。  

婚約破棄の夜に罪状を読み上げ、地下牢で自白を迫った王太子の側近である。  

バルザック商会から多額の賄賂を受け取り、検査記録を書き換えた証拠も手に入っていた。  

今すぐ監査院へ告発すれば、出兵を延期させられる。  

装備を交換し、兵士の命を守ることも可能だろう。  

けれど、それではアレクシスの名誉は傷つかない。  

不正を見抜いた王太子として、むしろ賞賛される可能性すらある。


「証拠は、いつ届いたのです」

「今朝です」

「情報源の安全は?」

「確保しています」

「そう」  


エレオノーラは革の切れ端へ触れた。  

指先へ、ぬめるような染料がつく。


「告発状を用意してください」

「今日中に監査院へ?」

「いいえ」  


雨音が、窓硝子を細かく叩く。


「出兵してからです」  


ローウェンの顔から表情が消えた。


「装備が使われます」

「国境までは十日かかります」

「五日後に告発すれば、戦闘へ入る前に追いつけるでしょう」

「その間にも雨が降れば、荷馬車の車軸は折れます」

「食料を失うかもしれません」

「被害は計算しています」

「兵士たちの命も」

「王都から東方砦までの道に、敵はいません」

「遅滞は起きても、戦死者は出ないはずです」

「はず、ですか」  


ローウェンの言葉には、珍しく明確な非難が含まれていた。  

エレオノーラは顔を上げる。


「何が言いたいのです」

「あなたが二年前に立てた計画では、罪を犯した者だけを裁くはずでした」

「ガストン子爵を裁くために、関係のない兵士を危険へ晒すのですか」

「危険へ晒したのは、不正な装備を承認したガストンです」

「それを知りながら黙る者にも、責任はあるでしょう」

「私に説教を」

「確認しているだけです」  


ローウェンは革の切れ端を机へ戻した。


「あなたが、どこまで進むつもりなのか」

「進めるところまでです」  


エレオノーラは告発状の草案を手元へ引き寄せた。  

その返答が彼を納得させていないことは分かっている。  

自分自身さえ、納得していなかった。  

それでも羽根筆を取り、告発の日付を五日後と記す。  

父の命令書を手に入れた。  

慈善院の不正も暴いた。  

だが、アレクシスとリリアーヌは、今なお王宮で華やかな生活を送っている。  

ここで手を緩めれば、彼らはまた被害者の顔をして逃げ延びる。  

五日。  

それだけなら、許容できる。  

エレオノーラは、そう判断した。


王太子軍が出発した朝、王都の大通りは見物人で埋め尽くされた。  

軍楽隊が勇壮な曲を奏で、鮮やかな軍旗が風にはためいている。  

白馬に跨がったアレクシスは、金縁の胸甲と深紅の外套を身につけていた。  

その姿は物語の英雄そのものであり、沿道の人々は熱狂的な歓声を送る。


「王太子殿下、万歳」

「東方に勝利を」  


王宮前の壇上では、リリアーヌが白い布を振っている。  

慈善院事件の影響を感じさせない笑顔だった。  

エレオノーラは大通りに面した宿屋の二階から、その光景を見下ろしていた。


「随分とご立派になられましたね」  


隣に立つマダム・オルガが、皮肉げに煙を吐く。


「馬に乗っているだけなら、誰でも英雄に見えるものです」

「あの方は剣を扱えるのですか」

「儀礼試合では、何度か優勝しています」

「審判が王太子に勝たせたのでは」

「それを知らぬほど愚かではありませんでした」  


少なくとも、かつてのアレクシスは。  

彼は自分が手加減されていることを嫌い、身分を隠して騎士団の訓練へ参加したこともある。  

敗北すれば悔しがり、勝つまで何度も挑んだ。  

あの頃の彼には、己の未熟さを知ろうとする強さがあった。  

いつから変わったのだろう。  

それでも、エレオノーラは彼が変わっていないと信じていたいのかもしれなかった。  

行列が宿屋の前を通る。  

アレクシスが何気なく二階を見上げた。  

エレオノーラは反射的に窓辺から身を引く。  

ヴェールと魔法染料がある。  

見つかるはずはない。  

それでも心臓が大きく脈打った。  

二年が過ぎても、身体は彼の視線を覚えている。  

それがひどく忌まわしかった。


「奥様」  


オルガが呼ぶ。


「顔色が悪いですよ」

「部屋が暑いだけです」  


エレオノーラは窓を閉めた。  

歓声は硝子越しに鈍くなったが、完全には消えない。


「五日後、これと同じ人々が殿下を罵るでしょう」

「人間は忙しいですね」

「昨日の英雄を、明日には罪人と呼ぶ」

「あなたも、それを知っているはずでしょう」  


オルガの言葉に、エレオノーラは答えなかった。


異変は、出兵から三日目に起きた。  

夜半から降り始めた大雨によって街道がぬかるみ、荷馬車の車軸が次々に折れたのである。  

保存食を積んだ車両が斜面から転落し、兵士七名が負傷。  

残った食料も粗悪な袋へ雨水が染み込み、半分近くが食べられなくなった。  

アレクシスは周辺の村から食料を買い上げるよう命じた。  

だが軍の到着を予期していなかった村々に、二千人分の余裕などない。  

軍は正規価格の倍額を支払ったものの、冬を越すために蓄えていた穀物まで持ち出された。  

進軍は二日遅れた。  

その間に東方砦の守備隊が襲撃を受け、国境近くの三つの村へ敵兵が侵入する。  

家屋が焼かれ、家畜と食料が奪われた。  

死者は十二名。  

負傷者は三十名を超えた。  

王都へ届いた報告書を、エレオノーラは無言で読んだ。  

出兵後五日目の朝だった。


「想定より、被害が大きい」  


ローウェンが机の前に立っている。


「東方では、前日まで雨の予報はなかったはずです」

「天候は予想どおりには動きません」

「それは、分かっていました」  


エレオノーラは報告書を裏返した。  

死者十二名。  

紙の上では、わずか二桁の数字でしかない。  

けれど、その一つ一つに家族がいる。  

父を失った娘がいるかもしれない。  

娘を失った父も。


「告発状を出します」

「今からでも、東方軍へ直接知らせるべきです」

「すでに早馬を」

「手配しました」  


ローウェンの返答は冷たい。


「あなたの指示を待たずに……」

「そう」

「お怒りにならないのですか」

「正しい判断です」  


エレオノーラは報告書を引き寄せた。


「今回の被害者へ、補償を」

「灰色商会の名義ではなく、匿名で」

「お金を払えば済む問題ではありません」

「分かっています」

「では、その紙から目を逸らさないでください」  


エレオノーラは彼を見上げた。


「誰に向かって命令しているのです」

「あなたを二年前に助けた男として」  


ローウェンは一歩も引かない。

「川から引き上げた女性が、兵士の命を数字として扱う人間になると知っていれば、私は……」  


最後まで言わず、彼は口を閉じた。  

エレオノーラは報告書へ視線を戻す。


「死者の名前を調べてください」

「全員です」

「家族構成も」

「それを知って、どうするのです」

「覚えます」

「忘れないために」  


ローウェンは何も言わず、部屋を出た。  

一人になった執務室で、エレオノーラは死者十二名という数字を見つめ続けた。


告発状が監査院と新聞社へ届くと、王都は激震に見舞われた。  

軍需商会の倉庫からは規格外の装備が大量に見つかり、会計記録にはガストン子爵への賄賂が明記されている。  

監査院は商会主を逮捕し、ガストンの屋敷へ捜索を入れた。  

東方へ到着したアレクシスは、敵兵を退ける前に王都から召還命令を受ける。  

凱旋のために用意されていた大通りを、彼は泥に汚れた姿で帰還した。  

沿道に歓声はない。  

新聞売りの少年が、不正を伝える号外を掲げている。


「王太子軍、出兵遅延」

「国境村で死者」

「側近ガストン子爵、軍需汚職の疑い」  


王宮へ戻ったアレクシスは、記者たちの前で責任を問われた。


「装備の検査は、ガストン子爵へ一任していた」

「余は何も知らなかった」  


その釈明は、慈善院事件でリリアーヌが口にしたものと同じだった。  

知らなかった。  

部下を信頼した。  

自分も騙された被害者である。  

けれど今回は、死者が出ている。  

王太子の無知を、美徳として受け入れる者は少なかった。


クラリッサは王都北部の施療院で、遠征から戻った負傷兵たちの話を聞いていた。  

車軸の破損で脚を折った兵士。  

粗悪な革鎧が裂け、胸へ深い傷を負った騎士。  

雨に濡れた保存食を口にし、病に倒れた従卒。  

寝台の一つに、まだ十七歳の兵士がいた。  

名をエミールという。  

実家の借金を返すため軍へ入り、今回が初めての遠征だった。


「装備が粗悪だと、誰も気づかなかったのですか」  


クラリッサが尋ねると、エミールは首を振った。


「俺たちは、出発の日に受け取りました」

「でも、商会の人間は知っていたと思います」

「なぜ」

「出発の三日前、宿場で聞いたんです」

「灰色の服を着た女の人が、商会の荷馬車を調べていました」  


クラリッサの指が止まる。


「その女は、何を」

「荷車の車軸を見て、これでは東方まで持たないって」

「商会の男たちに言っていました」

「出発の三日前ですね」

「はい」

「間違いありません」  


クラリッサは施療院の窓から、曇った空を見上げた。  

告発状が監査院へ届いたのは、出兵から五日後。  

灰色の女は、それより八日も早く欠陥を知っていた。  

なぜ、すぐに告発しなかったのか。  

王太子とガストン子爵を失脚させるには、実際に被害が起きた方が都合がよかったからではないか。  

その可能性へ辿り着いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。  

灰色の貴婦人がエレオノーラなら、彼女は単に真実を暴こうとしているのではない。  

真実が最も大きな傷を生む瞬間を、選んでいる。


「エレオノーラ」  


クラリッサは小さく名を呼んだ。  

生きているのなら、会いたい。  

無事であることを喜びたい。  

だが同時に、問わなければならない。  

十二人が死ぬと知っていたのかと。  

知らなかったのだとしても、危険を承知で見過ごしたのではないかと。  

窓硝子へ、雨粒が一つ落ちる。  

やがて二つ、三つと増え、王都の景色を歪ませていった。






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