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第五章 白百合の慈善院

王都東区に建つ白百合慈善院は、清潔で美しい建物だった。  

白く塗られた壁。  

よく手入れされた庭。  

門の両側には、施設の名に合わせた百合の花が植えられている。  

孤児たちは揃いの衣服をまとい、訪問者へ礼儀正しく頭を下げた。  

この慈善院を設立したのは、リリアーヌ・ベルジェ伯爵令嬢である。  

罪人となったアルディス公爵家から接収した財産を元手に、行き場のない子どもたちへ住まいと教育を与えた。  

王都の新聞は、そう報じていた。  

ある記事には、公爵令嬢の罪が一人の善良な令嬢によって希望へ変えられたとまで記されている。  

エレオノーラは、その新聞を今も保管していた。  

怒りを忘れないためではない。  

事実がどれほど容易に物語へ作り替えられるか、忘れないためだった。


「本日はご訪問いただき、ありがとうございます」  


院長のマルセル夫人が、エレオノーラへ丁寧に頭を下げる。  

エレオノーラは灰色の貴婦人として、慈善院への寄付を検討する富豪を装っていた。


「評判はかねがね伺っております」

「王都一の慈善院だとか」

「すべて、リリアーヌ様のご尽力によるものです」

「あの方は、子どもたちを我が子のように愛しておられます」

「頻繁に訪問なさるのですか」

「ええ」  


院長の答えが、ほんの一瞬遅れた。


「月に一度は」

「先月もいらしたのですね」

「もちろんです」  


エレオノーラは廊下へ並ぶ肖像画を見た。  

どれも、白いドレス姿のリリアーヌが孤児を抱きしめている。  

背景の花や衣装は違うが、同じ子どもが何度も使われていた。  

訪問のたびに別の孤児を気遣ったのではなく、絵師の前で見栄えのよい子を選んだのだろう。


「子どもたちの工房も拝見できますか」

「工房ですか」

「刺繍や織物の技術を教えていると聞きました」

「本日は、少々」

「何か問題でも」

「作業中ですので、危険がございます」

「寄付を決めるには、教育の内容を確認しなければなりません」  


エレオノーラは扇を開いた。  

灰色の羽根の隙間から、院長を見据える。


「金貨千枚をお預けするかもしれないのですよ」  


金額を聞いた途端、院長の表情が変わった。


「それほどのご厚意を」

「ええ」

「子どもたちのために、ぜひ」

「では、こちらへ」  


院長は迷った末、建物の裏手へ案内した。  

白い壁は表側だけだった。  

裏へ回ると塗装が剥がれ、窓にも鉄格子が嵌められている。  

工房の扉を開けた瞬間、むっとする熱気が押し寄せた。  

狭い部屋に二十人ほどの子どもが座り、刺繍をしている。  

幼い者は七歳ほど。  

年長でも十三、四歳にしか見えない。  

窓は閉ざされ、空気には染料と汗の臭いが満ちていた。  

子どもたちは誰も話さず、監督役の男が持つ細い杖へ怯えた眼差しを向けている。


「随分と熱心ですね」

「技術を身につけるには、規律が必要です」

「一日に何時間、作業を」

「教育です、奥様」

「働かせているのではありません」

「質問に答えてください」

「八時間ほどです」  


院長は声を落とす。


「ですが、衣食住を無償で与えております」

「多少の手伝いをさせても、問題はないでしょう」

「この刺繍はどこへ」

「慈善院の運営費を得るため、商会へ」

「商会の名を伺っても」

「帳簿にございます」

「後ほど、お見せいたします」  


エレオノーラは一人の少女の手元へ目を向けた。  

指先は針傷だらけで、血が布へ落ちないよう粗末な布を巻いている。


「名前は?」  


声をかけると、少女は顔を上げた。


「アニーです」

「何歳?」

「十歳です」

「ここへ来て、どれくらいになりますか?」  


少女は答えようとしたが、監督役の男が杖で床を打った。


「作業を続けろ」

「私はこの子へ尋ねています」

「奥様、子どもは嘘をつきます」

「質問の回答次第で寄付の内容が変わるのですが」  


エレオノーラが冷ややかに告げると、男は口を閉じた。


「一年です」  


アニーが小声で答える。


「リリアーヌ様には会いましたか?」

「はい」

「何度?」

「一度だけ」

「先月ではないのですね」

「私が来た日に、絵を描くから笑いなさいと言われました」  


院長の顔が青ざめる。


「この子は記憶が曖昧で」

「そうは見えません」  


エレオノーラは少女の手を取った。  


細い手首には、杖で打たれたらしい痣がある。


「痛いですか」

「大丈夫です」

「大丈夫でないときに、そう言わなくていいのよ」  


少女の瞳が揺れた。  

その反応に、エレオノーラ自身が戸惑う。  

かつての自分なら、自然に言えた言葉だった。  

王太子妃になるためではなく、目の前で傷ついている者へ手を差し伸べるために。  

いつから、その言葉を忘れていたのだろう。


「本日の見学は、ここまでにいたしましょう」  


エレオノーラは少女の手を離した。


「帳簿を拝見します」

「ですが」

「金貨千枚が必要ないのなら、帰ります」

「ただいま、ご用意いたします」  


院長は慌てて工房を出る。  

エレオノーラは去り際に、監督役の男を見た。


「その杖を、二度と子どもへ使わないことです」

「あなたに命令される筋合いは」

「灰色の貴婦人を敵に回す筋合いなら、おありですか」  


男の顔から強気が消える。  

エレオノーラは返事を待たず、工房を後にした。


院長が用意した帳簿は、当然ながら偽物だった。  

寄付金は適切に管理され、衣食住と教育に使われているよう装われている。  

だが、数字が整いすぎていた。  

毎月の食費が一枚の銅貨まで同額で、冬も夏も燃料費が変わらない。  

衣服代は子どもの人数に比べて高額なのに、彼らが身につけていた服は古く、何度も繕われている。


「立派な帳簿ですね」  


エレオノーラは頁を閉じた。  

院長が安堵する。


「では、ご寄付を」

「検討いたします」

「先ほどは金貨千枚と」

「預けるかもしれないと申し上げました」

「決定したとは、一言も申しておりません」  


院長の表情が引きつった。  

エレオノーラは席を立ち、慈善院を後にする。  

門の外では、ローウェンが馬車を待たせていた。


「どうでした」

「偽装されています」

「ですが、偽の帳簿を作った者は財務に詳しくありません」

「本物との辻褄を合わせれば、金の流れを追えるでしょう」

「帳簿を持ち出せましたか」

「写しを取らせています」

「あなたが院長と話している間に、こちらも倉庫を調べました」  


ローウェンが一枚の納品書を差し出す。


「子どもたちが作った刺繍は、ベルジェ伯爵家と関係のある商会へ安値で売却されています」

「その商会が貴族向けに高値で転売し、利益の一部をリリアーヌ嬢の衣装店へ」

「慈善院の子どもを働かせ、その利益で自分のドレスを仕立てているのね」

「それだけではありません」

「この二年間で、四十二名の孤児が別の工房へ移されています」

「移送先の記録がありません」  


エレオノーラは納品書を握りしめる。


「売ったのですか」

「借金を抱えた工房へ、年季奉公人として」

「契約書では教育費の返済という形になっています」

「実際は、十年以上無給で働かされるでしょう」  


馬車の窓から、慈善院の白い壁が見える。  

その内側で、子どもたちは今も針を動かしている。


「全員の行方を調べてください」

「救い出すおつもりですか」

「証人になってもらいます」  


言葉にした後で、エレオノーラは自分の冷たさに気づいた。  

子どもたちを救うのではない。  

証人として利用する。  

少なくとも、今の言葉はそう聞こえた。


「もちろん、その後の生活も保証します」  


付け加えた声が、ひどく言い訳めいていた。  

ローウェンは何も指摘せず、書類を鞄へ戻す。


「公表は、いつ?」

「すぐにはしません」

「リリアーヌが慈善院を訪問する日に合わせます」

「彼女自身の口から、慈善の素晴らしさを語らせる」

「その最中に扉を開き、工房の実態を見せるのです」

「随分と舞台にこだわりますね」

「彼女は私を、卒業祝賀会という舞台で罪人にしました」  


エレオノーラは慈善院から目を逸らした。


「ならば、同じだけの観客を用意するのが礼儀でしょう」


三週間後。  

白百合慈善院には、新聞記者と貴族たちが集められた。  

王太子との婚姻を前に、リリアーヌが慈善活動の成果を公開するためである。  

純白のドレスをまとった彼女は、庭に設けられた演壇へ立った。


「子どもたちは、王国の未来そのものです」  


優しく澄んだ声が、聴衆へ届く。


「生まれや身分によって、その未来が閉ざされることがあってはなりません」

「私はこれからも、弱き方々へ手を差し伸べてまいります」  


拍手が起こる。  

演壇の後方には、清潔な衣服を着せられた孤児たちが並んでいた。  

全員、見栄えのよい子どもばかりである。  

エレオノーラは記者たちの間に紛れ、ヴェールの奥からリリアーヌを見つめていた。  

二年前と変わらない。  

彼女は人が聞きたい言葉を知っている。  

自分が何者であるかではなく、相手が何を信じたいかを見抜き、その形へ姿を変える。


「リリアーヌ様」  


一人の記者が手を挙げる。  

エレオノーラの息がかかった新聞社の男である。


「慈善院の運営費について、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「もちろんです」

「寄付金の一部が、ベルジェ伯爵家御用達の衣装店へ流れているとの証言があります」  


リリアーヌの笑みが、わずかに固まる。


「何かの間違いでしょう」

「慈善院の子どもたちが一日八時間以上、刺繍工房で働かされているという話も」

「そのような事実はございません」

「子どもたちには、将来自立するための教育を」  


言葉の途中で、慈善院の裏手から騒ぎが聞こえた。  

監査院の役人が工房の扉を開き、子どもたちを外へ連れ出してくる。  

彼らの手には傷があり、腕には痣が残っていた。  

聴衆から悲鳴が上がる。  

記者たちが一斉に動き、魔法記録器を向けた。


「これは、どういうことです」  


リリアーヌが院長を振り返る。


「私、何も知りませんわ」

「院長!」

「あなたが勝手に行ったことなのでしょう」

「リリアーヌ様」  


院長の顔が絶望に染まる。


「すべて、あなた様のご指示ではありませんか」

「嘘をつかないで」

「私は子どもたちを大切にするよう、何度も申し上げました」

「帳簿へ署名も」

「慈善院の報告を信頼して、確認しただけです」  


リリアーヌは一瞬で、加害者から騙された被害者へ姿を変えた。  

涙を浮かべ、傷ついたように胸元へ手を添える。


「このようなことが行われていたなんて」

「私がもっと注意深く確認していれば」

「子どもたちに、何とお詫びすればよいのでしょう」  


聴衆の空気が揺れる。  

彼女も知らなかったのなら仕方がない。  

悪いのは院長だ。  

そう考え始めた者がいる。  

エレオノーラは奥歯を噛んだ。  

二年前と同じだった。  

涙一つで、事実が塗り替えられていく。  

だが、今回はここで終わらない。


「知らなかったというのは、妙ですね」  


エレオノーラは人々の間から進み出た。  

灰色の貴婦人の登場に、貴族たちが道を開ける。


「どなたです」  


リリアーヌが尋ねる。


「エレナ・ヴェルナーと申します」

「慈善院へ寄付を検討していた者です」  


エレオノーラは一冊の帳簿を掲げた。


「こちらは、院長室に保管されていた本物の帳簿です」

「寄付金から支出された衣装代、宝飾品代、王宮での晩餐費」

「すべての支出に、リリアーヌ・ベルジェ様の署名があります」

「偽物です」

「契約魔法の印も偽造されたと」  


リリアーヌの顔から涙が消える。  

ほんの一瞬だけ、憎悪が瞳の奥を横切った。  

それを見逃した者は多い。  

だが、エレオノーラは見た。  

リリアーヌもまた、灰色のヴェールの向こうを探ろうとしている。


「あなたは、どこでそれを」

「質問なさるべき相手は私ではなく、子どもたちでしょう」  


エレオノーラはアニーを前へ呼んだ。  

少女は大勢の貴族に怯えながらも、懸命に顔を上げる。


「リリアーヌ様」

「私を覚えていますか」  


リリアーヌの唇が動く。


「もちろんです」

「慈善院の子どもは、皆、私の大切な家族ですもの」

「私の名前は」  


沈黙が落ちた。  

リリアーヌは答えられない。  

アニーは一度だけ目を伏せ、それから静かに告げる。


「アニーです」

「あなた様が、絵の中で抱いていた子どもです」  


記者たちが一斉に記録器を向ける。  

リリアーヌは何かを言おうとしたが、監査院の役人が帳簿を受け取り、彼女の前へ進み出た。


「リリアーヌ・ベルジェ伯爵令嬢」

「慈善院の資金流用について、王国監査院までご同行願います」

「私は王太子殿下の婚約者です」

「任意の事情聴取です」

「拒否なさるのであれば、正式な令状を申請します」  


リリアーヌの視線がエレオノーラへ向けられる。  

憎しみ。  

疑念。  

そして、言葉にできない恐れ。  

エレオノーラは扇を開き、優雅に一礼した。


「子どもたちは、王国の未来なのでしょう」

「どうか、誠実にご説明くださいませ」  


リリアーヌは唇を噛み、役人たちとともに慈善院を出ていった。  

彼女の背へ、先ほどまでの拍手は一つも送られない。


庭の片隅で、一部始終を見ていた令嬢がいた。  

侯爵令嬢クラリッサ・フォン・レインフォードである。  

彼女は領地の災害復旧を終え、半年前に王都へ戻っていた。  

慈善院の査察には、監査院の立会人として参加している。  

クラリッサはエレオノーラが残した帳簿を開いた。  

帳簿が本物であることに疑いはない。  

問題は、あまりにも都合よく発見されたことだった。  

院長室の隠し棚には鍵がかかっていたが、その鍵は査察の朝、机の上へ置かれていたという。  

まるで誰かが、監査院に見つけさせたかのように。  

クラリッサは帳簿と一緒に挟まれていた匿名の告発状を読む。  

流麗で、癖の少ない筆跡。  

文面も慎重に整えられている。  

それでも、一か所だけ気になる表現があった。


『数字は、人が嘘をついても沈黙を守ります』  


クラリッサは、その言葉を知っていた。  

王立学園の財政学の授業で、教師が架空の予算書を示したときのこと。  

誰も不正を見抜けないなか、ただ一人、エレオノーラだけが帳簿の矛盾を指摘した。  

理由を尋ねられた彼女は、穏やかに笑って同じ言葉を口にしたのである。  

数字は、人が嘘をついても沈黙を守る。  

だが、正しい問いを投げかければ、必ず真実を答えるのだと。


「まさか!」  


クラリッサは灰色の貴婦人を捜した。  

しかし庭にも、慈善院の門前にも、すでにその姿はない。


その日の夕刻。  

クラリッサは王宮記録庫へ向かった。  

二年前、修道院への護送中に死亡したエレオノーラの記録を閲覧する。  

遺体は川の下流で発見され、顔の損傷が激しかった。  

本人確認の根拠として記されていたのは、身長、髪の色、衣服。  

そして王家から贈られた首飾り。  

クラリッサは記録を何度も読み返す。  

卒業祝賀会の夜、紫水晶の首飾りは大広間の床へ落ちた。  

その後、王宮の係官が回収している。  

遺体が身につけていたはずがない。  

さらに、エレオノーラが常に右手へ嵌めていた公爵家の指輪については、一言も記載されていなかった。  

クラリッサは椅子から立ち上がる。  

慈善院で灰色の貴婦人を見たとき、どこか懐かしいと感じた。  

扇の持ち方。  

歩くとき、右足をわずかに庇う癖。  

幼い頃、王宮の階段で足を傷めたエレオノーラは、疲れると今も同じ歩き方になる。  

クラリッサは告発状を胸へ押し当てた。


「まさか、生きているの!?」  


記録庫に、彼女の声だけが響く。  

喜びが込み上げた。  

今すぐ捜し出し、抱きしめ、二年前に助けられなかったことを謝りたかった。  

けれど、その喜びの底には、説明のできない不安も沈んでいる。  

慈善院の罪を暴いた手際は、正義の告発者というより、獲物を追い詰める狩人のものだった。  

もし灰色の貴婦人が本当にエレオノーラなら、彼女は二年間、何をしていたのか。  

何をするために、死者の名を捨てたのか。  

クラリッサは窓の外を見る。  

王都は夕暮れに包まれ、家々の煙突から灰色の煙が立ち上っている。  

その向こうで、復讐の歯車が音もなく回り始めていた。








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