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第四章 最初の復讐

バルガス元典獄長は、王都南区の酒場《赤い牡鹿》へ毎晩通っていた。  

二年前までは王宮牢の責任者として恐れられ、囚人だけでなく、下級の看守たちにさえ絶対服従を強いていた男である。  

だが、アルディス公爵の獄死に関する噂が広がると、王家は彼を早々に切り捨てた。  

退職金と郊外の屋敷を与えられたものの、名誉職に就くことも許されず、今では酒と賭博へ溺れている。  

エレオノーラは酒場の二階にある個室から、階下のバルガスを見下ろしていた。  

灰色の外套に身を包み、ヴェールで顔を隠している。  

隣には、酒場の女主人であるマダム・オルガが立っていた。


「この三か月、毎日同じです」  


オルガは紫煙を吐きながら言う。


「日が暮れた頃に来て、安酒を樽半分ほど飲む」

「酔えば、公爵の亡霊がどうとか、女に騙されたとか喚き始めます」

「女とはリリアーヌ・ベルジェのことですか?」

「名前までは口にしません」

「けれど、白百合に殺されると寝言で叫んでいましたよ」

「命令書は」

「屋敷を探らせましたが、見つかりません」

「銀行の貸し金庫も空です」


エレオノーラは階下へ目を戻した。  

バルガスは酒杯を握り、給仕の娘へ何事か怒鳴っている。  

大柄な身体は二年前より肥え、鼻も頬も酒焼けしていた。  

あの手が父を殴った。  

あの口が、娘の罪を認めろと迫った。  

父はどれほど苦しんだのだろう。  

助けを求めただろうか。  

それとも最後まで、弱音一つ吐かなかったのか。


「奥様」  


オルガの声で、意識を引き戻される。


「今すぐ殺したいという顔ですよ」

「ヴェール越しに分かるのですか」

「私の店には、誰かを殺したい人間が大勢来ますから」

「皆、似たような目をしています」

「殺しません」

「それは結構」

「まだ、です」  


オルガは煙管を口元で止めた。  

エレオノーラは階段を下りる。  

酒場の客たちは、上質な外套をまとった女の登場に目を向けた。  

バルガスも顔を上げる。


「誰だ、あんた」

「お忘れですか」  


エレオノーラは彼の向かいへ腰掛けた。


「二年前、王宮の地下牢でお会いしました」  


バルガスの顔から血の気が引いていく。


「まさか」

「エレオノーラ・フォン・アルディス」  


名を告げると、バルガスが椅子を蹴って立ち上がった。

「死んだはずだ」

「ええ」

「あなた方が、そう発表なさいました」

「近寄るな!」

「公爵の亡霊が、あなたを捜しているのでしょう」

「ならば娘の亡霊も一緒で、不思議ではないのでは」  


バルガスは腰の短剣へ手を伸ばす。  

だが、抜くより早く、酒場の用心棒たちが背後から腕を押さえた。


「離せ」

「俺が誰か分かっているのか」

「元典獄長でしょう」  


オルガが階段から答える。


「今は、酒代を三か月も溜めている酔っ払いだよ」  


バルガスは暴れたが、四人の男に囲まれては身動きできない。  

エレオノーラは机へ一枚の紙を置いた。


「これは、あなたが王宮牢の囚人から没収した財産の一覧です」

「宝石、銀貨、土地の権利書」

「正式な記録に残されていないものだけで、金貨四千枚を超えます」

「知らん」

「こちらは、その品々を売却した商会の証言」

「そして、あなたの署名が入った受取証です」

「偽物だ」

「明日の朝には、王国監査院と新聞社へ同じ資料が届きます」  


バルガスの額から汗が流れる。


「何が望みだ」

「リリアーヌ・ベルジェから受け取った命令書を渡してください」

「そんなものはない」

「父を拷問したのは、彼女の指示だったのでしょう」

「知らんと言っている」

「では、あなた一人の判断だったのですか」  


エレオノーラが問い詰めると、バルガスの視線が揺れた。


「アルディス公爵を死なせた責任を、すべて一人で負うと」

「公爵は勝手に死んだ」

「俺は命令どおりに尋問しただけだ」

「誰の命令です」

「殿下だ」

「違いますね」

「殿下からの命令は、自白を得ろというものだけだった」  


バルガスの口が閉じる。  

自分が語りすぎたことに気づいたのだろう。


「何も知らないとおっしゃったばかりなのに」

「黙れ」

「命令書を渡しなさい」

「そうすれば、横領の証拠を一部だけに留めます」

「俺を脅すのか」

「交渉です」

「脅迫なら、あなたの妻と娘についてお話ししています」  


バルガスの顔色が変わった。


「家族には手を出すな」

「では、命令書を」  


長い沈黙の後、バルガスは奥歯を噛みしめた。


「三日、時間を寄越せ」

「今夜です」

「すぐには出せん」

「保管場所へ案内してください」

「今夜は無理だ」

「明日の晩、王都北部の古い礼拝堂へ持っていく」

「一人で来い」

「承知しました」  


エレオノーラが立ち上がると、バルガスは用心棒たちの手を振り払った。


「後悔するぞ」

「その言葉は、二年前の私へお伝えください」  


彼女は酒場を出た。  

夜風は冷たく、遠くで教会の鐘が鳴っている。


「信用するのですか」  


後を追ってきたローウェンが尋ねる。


「いいえ」

「ならば、なぜ」

「彼は今夜、リリアーヌへ助けを求めます」

「命令書を渡せば、彼女に切り捨てられる」

「渡さなくても、横領の証拠によって破滅する」

「残された道は、かつての共犯者へ縋ることだけ」

「見張らせていますか」

「すでに」  


路地の影から、少年が一人現れた。  

オルガが使っている情報屋である。


「バルガスの馬車が、伯爵邸へ向かいました」

「予想どおりですね」  


エレオノーラは夜空を見上げた。


「白百合は、自分の根に泥がついていると知ったとき、どうするでしょう」

「根を洗うのでは」

「いいえ」  


灰色のヴェールが風に揺れた。


「泥を知る者の口を、塞ぐのよ」


翌日、バルガスの屋敷へ監査院の役人が押しかけた。  

隠されていた財産が次々と発見され、屋敷も土地も差し押さえられる。  

監査院へ流した証拠は一部だけのはずだったが、告発を知った被害者たちが次々に名乗り出たため、罪状は想定以上に膨らんだ。  

囚人から奪った結婚指輪。  

亡くなった者が家族へ残そうとした宝石。  

解放の見返りとして受け取った金。  

バルガスが踏みにじった人生が、一つずつ表へ現れる。  

屋敷の門前には被害者の遺族が集まり、石を投げた。  

罵声の中、バルガスの妻と十歳になる娘が追い出される。  

妻は顔を覆い、娘は小さな鞄を胸へ抱いていた。  

向かいの馬車からその様子を見ていたローウェンが、低く尋ねる。


「家族まで追い出す必要がありましたか」

「屋敷は横領した金で購入されたものです」

「返還されるのが道理でしょう」

「妻や娘が、夫の罪を知っていたとは限りません」

「それでも利益は享受した」

「十歳の娘が、自分の服を誰の金で買ったか考えるでしょうか」  


エレオノーラは答えない。  

門前で、バルガスの娘が転んだ。  

鞄が開き、木彫りの人形と衣類が泥の上へ散らばる。  

群衆は誰も手を貸さない。  

少女は泣きながら、一つずつ拾い集めている。  

エレオノーラの脳裏に、地下牢の鉄格子が浮かんだ。  

父の指輪。  

燃える屋敷。  

誰も手を差し伸べなかった夜。


「出してください」

「何を」

「生活に困らないだけの金を」

「名義を隠し、母親へ渡しなさい」  


ローウェンが彼女を見る。


「道理に反しますか」

「いいえ」

「あなたにも、まだ手加減する意思があるのだと知って安心しました」

「勘違いしないでください」  


エレオノーラは馬車のカーテンを閉じた。


「私が復讐するのはバルガスです」

「彼の娘ではありません」  


けれど、その言葉を口にしたとき、少女の泣き声はすでに遠ざかっていた。


夜。  

王都北部の古い礼拝堂に、バルガスは一人で現れた。  

雨漏りのする天井。  

砕けた女神像。  

打ち捨てられた長椅子。  

祭壇の前で待つエレオノーラを見つけ、彼は懐から封筒を出した。


「命令書だ」

「こちらへ」

「先に、横領の証拠を渡せ」

「妻と娘の安全も保証しろ」

「あなたのご家族は、すでに王都を離れる準備をしています」

「何!?」

「匿名の支援者から、当面の生活費も届くでしょう」

「なぜ、そこまで」

「あなたと同じものになりたくないからです」  


バルガスは顔を歪めた。


「俺と同じだと……」

「あんたは俺を破滅させた」

「俺の家族から家を奪った」

「俺と何が違う」

「私は無実の者を牢へ入れません」

「今は、な」  


彼は封筒を祭壇へ置く。


「あんたも、いずれ分かる」

「復讐を始めた人間に、終わりを決める権利なんかない」

「俺も最初は命令に従っただけだ」

「一人殴れば、次は二人になる」

「何度も繰り返すうち、人の顔なんか見えなくなる」

「あなたの懺悔を聞きに来たのではありません」

「公爵の最期を知りたくないのか」  


エレオノーラの手が止まる。  

バルガスは笑った。


「最後まで、あんたの無実を訴えていたよ」

「娘は王妃になるために、自分のすべてを捧げてきた」

「嫉妬なんぞで王太子を殺す娘ではないと」

「それで」

「あんたの自白書を見せた」

「娘は罪を認めたぞと」  


礼拝堂の空気が、急に薄くなった。


「父は、何と」

「笑ったよ」

「これは娘の字だが、娘の言葉ではないとな」

「その後も、あんたの幼い頃の話ばかりしていた」

「父は、苦しみましたか」

「楽には死ねなかった」  


バルガスの声から、笑いが消える。


「だが最後に言った」

「エレオノーラへ伝えろ」

「お前は何も恥じる必要がないと」  


エレオノーラは目を閉じた。  

父の声を思い出そうとする。  

けれど二年の歳月は残酷で、記憶の中の声さえ少しずつ輪郭を失っていた。


「なぜ、伝えなかったのです」

「怖かったからだ」

「リリアーヌ嬢が、全部見張っていた」

「公爵を死なせたと知って、俺も切り捨てられると思った」  


バルガスが咳き込む。  

最初は軽い咳だった。  

やがて膝をつき、喉を掻きむしる。


「どうしたのです」

「毒」  


唇が紫色へ変わっていく。


「酒だ」

「来る前に、伯爵家の使いから酒が届いた」

「まさか」  


バルガスは床へ倒れた。  

エレオノーラは傍らへ膝をつき、脈を確認する。  

遅い。  

呼吸も浅くなっている。


「ローウェン!」  


礼拝堂の外から、ローウェンが駆け込んだ。  

彼はバルガスの症状を見て、懐の薬瓶を取り出す。


「毒消しです」  


エレオノーラは薬瓶を受け取った。  

蓋へ指をかける。  

これを飲ませれば、助かる可能性がある。  

バルガスの手が、彼女のドレスを掴んだ。


「助けてくれ」

「命令書を」

「祭壇に」  


エレオノーラは封筒を開いた。  

リリアーヌ・ベルジェの署名と、契約魔法の印がある。  

アルディス公爵から偽の自白を得ること。  

拒否した場合は、二度と証言できぬ状態にすること。  

回りくどい表現だが、殺害の許可に等しい。


「本物です」  


ローウェンが告げる。


「早く薬を」  


バルガスが呻く。  

エレオノーラは薬瓶を見つめた。  

父も同じように、地面へ倒れていたのだろうか。  

助けを求めても、この男は手を差し伸べなかった。  

命令だった。  

怖かった。  

自分にも家族がいる。  

そうした言葉で、父の苦しみを正当化した。


「お嬢様」  


ローウェンが促す。  

エレオノーラは立ち上がった。  

薬瓶を手にしたまま、バルガスを見下ろす。


「父も、あなたに助けを求めましたか」

「悪かった」

「謝る」

「だから」

「父は、あなたを許しましたか」  


バルガスは答えられない。  

指がドレスから離れ、床を掻く。


「私は、許しません」  


エレオノーラは薬瓶を懐へ戻した。  

ローウェンが息を呑む。  

やがてバルガスの身体から力が抜け、礼拝堂に静寂が戻る。  

雨音だけが、壊れた窓から入り込んでくる。


「見殺しにしましたね」

「彼を殺したのはリリアーヌです」

「私ではありません」

「その言葉を、ご自身で信じられますか」  


エレオノーラは命令書を封筒へ戻した。


「信じる必要はありません」

「事実であれば十分です」  


礼拝堂を出ると、道の向こうに小さな人影があった。  

バルガスの娘だった。  

母親の目を盗み、父を追ってきたのだろう。  

少女は礼拝堂から運び出される遺体を見つめている。  

その視線が、エレオノーラへ向いた。


「お父様を返して」  


小さな声だった。  

雨音に紛れ、誰にも聞こえなかったかもしれない。  

けれどエレオノーラには、はっきりと聞こえていた。  

彼女は振り返らず、馬車へ乗り込む。  

扉を閉めても、少女の声は消えなかった。




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