第三章 灰色の貴婦人
二年後。
王都では、灰色を身につけることが流行していた。
灰銀の髪飾り。
鼠色の手袋。
真珠の粉を混ぜた薄灰色の化粧。
流行の発端となったのは、王都の社交界へ突如として現れた一人の貴婦人だった。
名は、エレナ・ヴェルナー男爵未亡人。
西方の小国で夫を失い、その莫大な遺産を携えてアルヴェリア王国へ移り住んだとされている。
常に灰色のドレスをまとい、顔の上半分を薄いヴェールで隠しているため、人々は彼女を「灰色の貴婦人」と呼んだ。
彼女が夜会へ姿を見せれば、落ち目だった商会の株が上がる。
彼女が一言褒めれば、無名の仕立屋が王都一の人気店になる。
反対に、彼女が扇を閉じれば、一つの貴族家が翌朝には破産する。
王都の者たちは灰色の貴婦人を恐れながら、その富と謎に魅了されていた。
今夜もまた、ヴェルナー邸では華やかな夜会が催されている。
「奥様、サロモン子爵がお目通りを願っております」
執事の報告に、エレオノーラは鏡の前で手袋を整えた。
銀色だった髪は、魔法染料で艶のある黒へ変えている。
紫紺の瞳も、琥珀色の硝子玉を重ねることで隠していた。
「予定にはあったかしら」
「ございません」
「では、十五分だけ待たせなさい」
「焦っている方ほど、待ち時間を長く感じるものよ」
「かしこまりました」
執事が退出する。
鏡に映る女は、かつて王太子の隣に立っていた令嬢とは似ても似つかない。
頬は幾分痩せ、目元には以前になかった険しさがある。
笑みを作れば優雅な未亡人に見えるが、その奥にいるのは、墓から戻った死者だった。
「よくお似合いですよ」
背後の長椅子で、ローウェンが葡萄酒を傾けている。
二年前より髪を短くし、今は王都でも有数の貿易商として知られていた。
「灰色が、ですか」
「仮面が、ですよ」
「褒め言葉とは思えませんね」
「褒めてはいません」
ローウェンは杯を置く。
「今夜のサロモン子爵は、あなたの足元へ領地ごと差し出すでしょう」
「彼の借金は、すでに私が買い取っています」
「ですが、潰す必要はありません」
「分かっています」
「彼には王都西部の運河通行権がある」
「奪うのではなく、貸しを作るべきです」
「分かっております」
エレオノーラは鏡越しに彼を見た。
「二度も言わなくて結構です」
「あなたは分かっていても、別の選択をする方ですから」
ローウェンの言葉へ答えず、エレオノーラは立ち上がった。
この二年で、彼女は失った身分の代わりに、別の力を手に入れている。
公爵令嬢として学んだ財政知識。
ローウェンが持つ商人たちの情報網。
没落貴族から買い取った債権。
下級官吏へ渡す賄賂。
密輸業者、印刷職人、娼館の女主人、酒場の給仕。
王宮の会議室へ入れなくとも、その窓を拭く者から情報を得ればいい。
貴族の扉が閉ざされるなら、扉を作った職人へ話を聞けばいい。
人は自分の弱みを、金庫の中へ隠したつもりになる。
しかし金庫にも鍵穴があり、その鍵を作る人間がいる。
エレオノーラは、この国に存在する無数の鍵を集めていた。
応接室で待つサロモン子爵は、額へ汗を浮かべていた。
領地経営に失敗し、社交費を賄うため借金を重ねている。
とうとう今朝、すべての債権が灰色の貴婦人の手へ渡ったと知ったのだ。
「お待たせいたしました」
エレオノーラが入室すると、子爵は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「ヴェルナー夫人」
「どうか、我が家に猶予を」
「返済期日は三日前だったと記憶しています」
「必ずお支払いします」
「いつまでに」
「半年」
「子爵領では昨年、河川の氾濫がありましたね」
「今年の収穫量も、平年の七割に届いていない」
「半年後に返済できる根拠は何でしょう」
サロモンは言葉に詰まる。
「通行税を上げます」
「どなたから徴収するのです」
「領内の商人と、運河を利用する船から」
「通行税を上げれば、商船は隣領の河港へ移るでしょう」
「税収は増えるどころか、減少します」
「では、どうすれば」
「私へ運河通行権を十年間、貸与してください」
「十年」
「対価として借金の半額を免除し、残りの返済を五年間猶予します」
「それでは、我が家の利益が」
「破産すれば、利益どころか爵位も失いますよ」
エレオノーラは扇を開く。
灰色の羽根が、子爵との間に薄い壁を作った。
「選ぶ権利があるうちに、お選びください」
サロモンは震える手で契約書へ署名する。
青白い契約魔法の光が浮かび、文字の上へ吸い込まれた。
これで王都西部の運河は、実質的にエレオノーラの支配下へ入った。
運河を押さえれば、王都へ入る小麦と木材の流れを把握できる。
まだ止める必要はない。
だが、いつでも止められるという事実こそが重要だった。
サロモンが退出した後、ローウェンが入ってくる。
「これで三本目です」
「北の街道、南の河港、西の運河」
「王都へ入る主要な物流路のうち、半分以上を握りました」
「東門は王家の直轄です」
「いずれ必要になります」
エレオノーラは契約書を封筒へ入れた。
「王家の財政状況は」
「悪化しております」
「アルディス公爵家が担っていた領地間の調整を、三つの派閥へ分割したのが原因です」
「それぞれが税収だけを奪い、維持費を他へ押しつけている」
「予想どおりですね」
「王太子殿下は、新たな宮殿の建設を提案したそうです」
「来年のご成婚に合わせるとか」
エレオノーラの指が、封蝋の上で止まる。
「成婚」
「正式な布告はまだですが、リリアーヌ嬢との婚姻が内定しました」
「そうですか」
「何も感じませんか」
「何を感じるべきでしょう」
「怒りでも、悲しみでも」
「必要ありません」
エレオノーラは淡々と答えた。
「婚礼の日が決まるなら、計画を立てやすくなります」
「彼らの結婚式は、王国の歴史に残るものとなるでしょう」
「祝福ではなく、告発によって」
机の抽斗から、黒革の帳面を取り出す。
そこには、復讐の対象となる者たちの名と罪が記録されていた。
すでに何人かの名には、薄い線が引かれている。
偽証した教師は賭博の借金を暴かれ、職を失った。
証拠を偽造した文官は、公金横領の事実を新聞へ流され、投獄されている。
けれど、それらは準備に過ぎない。
「三つの段階に分けます」
エレオノーラは新しい頁を開いた。
「第一に、証拠を捏造した者と偽証した者を破滅させる」
「第二に、リリアーヌ・ベルジェが慈愛の令嬢ではなく、他人の血で白いドレスを染めた女だと証明する」
「第三に、王太子から民衆の信頼、王位、そして愛する恋人を奪う」
「最後に命を……」
「命は奪いません」
「なぜ」
「死ねば、自分の失ったものを数えずに済みます」
エレオノーラは黒革の帳面を閉じた。
「生きている限り、殿下には毎朝、何も持たない個人として目覚めていただきます」
扉が叩かれる。
入ってきた使用人は、顔を強張らせていた。
「奥様」
「地下倉庫に、お目通りを願う者が」
「誰です」
「元王宮典獄長の部下だと申しております」
「アルディス公爵閣下の最期について、話があると」
エレオノーラとローウェンの視線が交わる。
「通しなさい」
地下倉庫へ連れてこられた男は、ひどく痩せていた。
以前は王宮牢の看守だったが、賭博によって職を失い、今は路地裏で暮らしているという。
男は灰色の貴婦人が何者であるか知らない。
金と保護を求め、秘密を売りに来たのだ。
「アルディス公爵の死について、何を知っているのです」
エレオノーラの問いに、男は周囲を見回した。
「先に金を」
ローウェンが銀貨の袋を投げる。
男は中身を確かめ、ようやく口を開いた。
「公爵様は、バルガス典獄長に尋問されていました」
「王太子殿下の命令で、公爵令嬢の罪を認めさせろと」
「公爵は認めなかった」
「何をされても、娘は無実だと言い続けたんです」
「死因は」
「表向きは病死です」
「本当は、尋問中に傷が悪化した」
「典獄長は、殺すつもりまではなかったと言っていました」
「では、誰が父の死を命じたの」
「殿下じゃありません」
男は声を震わせた。
「公爵閣下は、殿下の命令で殺されたんじゃない」
「あの伯爵令嬢の命令です」
地下倉庫の空気が凍りつく。
エレオノーラは扇を閉じた。
「証拠は」
「典獄長が、命令書を持っています」
「自分だけ罪を被せられたときのために隠したんです」
「どこに」
「それは知りません」
「でも、典獄長は毎晩、南区の酒場へ通っています」
「最近は酒に酔うと、公爵家の亡霊が来ると騒いでいる」
エレオノーラは男の前へ膝をついた。
ヴェール越しに、その目を覗き込む。
「亡霊ですか」
「へ、へえ」
「それなら、会わせてあげましょう」
男は意味を理解できず、怯えたように身を引く。
エレオノーラはゆっくりと立ち上がった。
「ローウェン」
「バルガス典獄長の財産、家族、取引相手、日々の行動を調べなさい」
「すべてですか」
「すべてよ」
「彼が大切にしているものを、一つ残らず」
ローウェンは黙って頭を下げた。
地上では、夜会の音楽が続いている。
笑い声と祝杯。
二年前、エレオノーラが罪人となった夜とよく似た音だった。
だが今夜、宴の外へ連れ出されるのは彼女ではない。
「最初の方を、お迎えに行きましょう」
灰色の貴婦人は、父の指輪を右手へ嵌めた。




