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第二章 公爵家が滅んだ日

地下牢には、朝も夜も存在しなかった。  

小さな通気口から差し込む光だけが、時の流れを知らせている。  

エレオノーラは湿った石壁へ背を預け、膝の上で両手を組んでいた。  

祝賀会で身につけていた濃紺のドレスは、裾を泥に汚している。  

髪を飾っていた真珠は没収され、靴も片方しか残っていない。  

それでも彼女は背筋を曲げなかった。  

父から最初に教えられた公爵家の作法は、銀器の扱いでも舞踏でもない。  

追い詰められたときほど、姿勢を正せというものだった。  

姿勢を崩せば呼吸が乱れ、呼吸が乱れれば思考も鈍る。  

アルディス公爵家の者にとって、誇りとは見栄ではなく、最後まで考えるための武器だった。  

鉄扉の向こうで、鍵の回る音がする。  

入ってきたのはガストン子爵と、黒衣をまとった二人の尋問官だった。  

机と椅子が運び込まれ、一本の羽根筆と羊皮紙が置かれる。


「昨夜は眠れましたかな、アルディス公爵令嬢」

「火災の被害を教えてください」

「ご挨拶もなしとは、礼儀に厳しいあなたらしくない」

「父と母と弟の安否を」  


ガストンは椅子へ腰を下ろし、手袋に包まれた指を組んだ。


「まず、ご自身の立場をご理解ください」

「私の立場は、王太子暗殺未遂の嫌疑をかけられた未決囚です」

「罪人ではありません」

「正式な審理を経ずに拘束されておりますので、この尋問にも王国法上の正当性はないと申し上げます」

「まだ法律の話をなさるのですか」

「あなた方が法律を守らないからです」  


ガストンは嘆息した。


「殿下があなたを嫌った理由が、少し分かりましたよ」

「殿下の好悪と、国家反逆罪の審理に何の関係があるのです」

「まったく、可愛げのない方だ」

「政治家への評価としては、光栄です」  


尋問官の一人が怒りを露わにしたが、ガストンは片手で制した。  

彼は羊皮紙をエレオノーラの前へ滑らせる。


「自白書です」  


エレオノーラは目を落とした。  

リリアーヌへの嫉妬から数々の嫌がらせを命じ、王太子を自分だけのものにするため毒殺を企てたという内容である。  

慈善基金の横領についても、衣装や宝石を購入するために資金を流用したと記されていた。  

あまりにも出来の悪い筋書きだった。  

彼女の衣装費は、公爵家の会計記録を調べれば一目で分かる。  

宝石を個人で購入したこともない。


「署名できません」

「内容に誤りがあると」

「すべてです」

「困りましたね」  


ガストンは懐から、小さな布袋を取り出した。  

机の上へ逆さにすると、一つの指輪が転がり出る。  

アルディス公爵家の紋章が刻まれた、重厚な銀の指輪。  

父が常に身につけていたものだ。


「父はどこです」

「王宮の別棟で、お話を伺っております」

「無事なのですか」

「今のところは」  


その言葉に込められた意味は明白だった。


「自白書へ署名すれば、公爵閣下と奥方、そしてご弟君への追及は行いません」

「私だけを処罰するということですか」

「修道院で生涯を過ごしていただきます」

「命までは奪いません」

「公爵家の財産は」

「国家への賠償として、一部を接収します」

「一部とは、どの程度です」

「今それを知る必要がありますか」

「あります」  


エレオノーラは自白書を持ち上げた。

「私の署名には、公爵家当主代理としての効力がございます」

「これを利用し、家の財産すべてを奪うおつもりでは」

「署名しなければ、ご家族がどうなるか分かりませんよ」

「質問に答えてください」

「あなたには、質問する権利などない」  


ガストンの声から、作り物の穏やかさが消えた。  

尋問官がエレオノーラの肩を掴み、椅子へ座らせる。  

もう一人が、拷問用の細い器具を机へ並べた。


「おやめなさい」

「痕を残さぬ方法なら、いくらでもあるのです」

「公爵閣下は昨夜から、随分と苦しまれておりますよ」  


エレオノーラの視線が、父の指輪へ引き寄せられる。  

父なら、署名するなと言うだろう。  

アルディス公爵家の名誉を、偽りによって汚すなと。  

だが、その父の命を守るためには、名誉を差し出すしかない。  

母と弟もいる。  

自分一人が罪人になれば、三人を救える。  

少なくとも、そう思いたかった。


「家族の安全を、契約魔法で保証してください」

「殿下のご慈悲を疑うと」

「口約束だけでは署名できません」

「ならば、交渉は決裂です」  


尋問官が器具を手に取る。  

ガストンは父の指輪を摘まみ上げ、炎を灯した燭台へ近づけた。


「待ってください」  


エレオノーラは目を閉じる。  

肺へ入り込む地下牢の空気は、墓の中のように冷たい。


「署名します」

「賢明なご判断です」

「ただし、家族には手を出さないでください」

「もちろん」

「父を解放してください」

「もちろんですとも」  


羽根筆を取る。  

指先が震えていた。  

エレオノーラはその震えを押さえ込み、自分の名を記した。  

契約魔法の光は現れない。  

ガストンは最後まで、何一つ保証しなかった。  

それでも署名するほかになかった。  

ガストンが自白書を持ち去った後、エレオノーラは床へ座り込む。  

父の指輪だけが、机に残されていた。  

内側には黒ずんだ血がこびりついている。  

それを見た瞬間、自分が取り返しのつかない過ちを犯したような気がした。


自白から三日後、鉄扉の向こうへ一人の老騎士が現れた。  

公爵家の騎士団長を務めるハロルドである。  

右腕を布で吊り、額には深い傷が刻まれていた。


「お嬢様」  


膝をつこうとする彼へ、エレオノーラは駆け寄った。


「そのままで」

「怪我をしているのでしょう」

「この程度、どうということはございません」

「父は」  


ハロルドは答えない。  

その沈黙が、何より雄弁だった。


「父はどこです」

「公爵閣下は、昨夜」  


老騎士の喉が震える。


「獄中にて、お亡くなりになりました」  


言葉が意味を成さなかった。  

エレオノーラは彼の顔を見つめる。


「解放されるはずです」

「私が署名しました」

「殿下の要求どおり、自白書に署名したのです」

「分かっております」

「ならば、なぜ」

「公爵閣下は、最後までお嬢様の無実を訴えておられました」

「自白書が届いた後も、あれは娘の意思ではないと」

「拷問を受けても、決して主張を変えなかったと聞いております」  


エレオノーラの手から、父の指輪が落ちた。  

石床へ当たり、鈍い音を立てる。


「遺体は」

「王家が引き渡しを拒んでおります」

「反逆者として、共同墓地へ埋葬すると」

「母は」

「奥方様は、公爵邸の火災と閣下の死をお知りになり、お心を病まれました」

「王都郊外の療養院へ送られております」

「セドリックは」

「爵位継承権を剥奪され、北部辺境へ」

「待って」  


エレオノーラは壁へ手をついた。


「約束が違うわ」

「家族へは追及しないと」

「署名すれば、三人とも助けると」

「王家が、約束を守るつもりなどなかったのでしょう」  


ハロルドが唇を噛む。


「公爵家の領地と財産は、すべて王家へ接収されました」

「その一部は、王太子殿下の側近へ下賜されています」

「リリアーヌ嬢が設立した慈善団体にも、多額の資金が流れたようです」  


胸の奥にあった何かが、音もなく崩れた。  

悲しみとは違う。  

怒りとも呼べない。  

あまりに冷たく、あまりに深い空洞だった。  

父を救うために名誉を差し出した。  

その名誉も、父の命も失った。  

母も弟も守れなかった。  

そして、奪った者たちは公爵家の財産を分け合い、慈善の名で飾っている。


「なぜ、あなたがここへ」

「明朝、お嬢様は西方の聖カトレア修道院へ移送されます」

「護送任務を命じられました」

「そう」

「道中、何があっても私がお守りします」  


老騎士の言葉には、妙な響きがあった。  

エレオノーラは彼の目を見る。


「何があるの」

「確かなことは申し上げられません」

「ですが、護送を担当する騎士の半数は、ガストン子爵の息がかかっております」

「修道院へ到着させるつもりがないのね」  


ハロルドは否定しなかった。  

自白させ、家を潰し、最後に本人の口を封じる。  

すべてが終わった後なら、護送中の事故として処理できる。


「ハロルド」

「はい」

「私を守るために命を捨ててはいけません」

「それは聞けぬご命令です」

「あなたには家族がいるでしょう」

「公爵家に仕えた者の家族は、すでに王都を離れました」

「私だけが残ったのです」  


老騎士はようやく膝をついた。


「お嬢様」

「どうか、生きてください」

「今は名誉も、復讐もお考えにならず、ただ生き延びてください」

「生きてさえおられれば、いつか必ず」  


続く言葉は、看守の足音に遮られた。  

ハロルドは立ち上がり、騎士の礼を取る。  

エレオノーラも、アルディス公爵家の令嬢として頭を下げた。  

それが、彼と交わした最後の挨拶になった。


翌朝、雨が降っていた。  

エレオノーラを乗せた囚人馬車は、六名の騎士に囲まれて王都を出る。  

手首には魔力を封じる鉄枷が嵌められている。  

窓は板で塞がれ、外の様子を確かめることも難しい。  

車輪の音と、馬の蹄が泥を踏む音だけが続く。  

王都を出て二刻ほど経った頃、馬車が急停止した。  

外で怒号が上がる。  

剣戟の音。  

馬のいななき。  

何者かが御者台から転げ落ちた。


「盗賊だ」  


誰かが叫ぶ。  

だが、襲撃者の動きは盗賊にしては統制されている。  

護衛騎士も驚いた様子がない。  

最初から打ち合わせていたのだろう。  

馬車の扉が開き、血に濡れたハロルドが飛び込んできた。


「お嬢様、こちらへ」

「その傷は」

「早く」  


彼は鉄枷の鍵を差し込んだ。  

外から槍が突き入れられ、ハロルドの肩を貫く。


「ハロルド!」

「行ってください」  


彼は槍を掴み、扉の外にいる襲撃者ごと引き倒した。  

エレオノーラは馬車から転がり出る。  

周囲は深い森で、すぐ近くには濁流の音が響いていた。


「逃がすな」  


黒装束の男たちが追ってくる。  

ハロルドが立ちはだかる。  

片腕は使えず、肩から血を流しながら、それでも剣を振るう。


「公爵家騎士団長、ハロルド・グレイヴ」  


老騎士の声が、雨の森へ轟いた。


「我が主の御息女に、指一本触れさせはせぬ」  


エレオノーラは走った。  

振り返ってはいけない。  

そう分かっていても、背後から聞こえる剣の音が一つ減るたびに、胸を抉られる。  

やがて、音は完全に途切れた。  

前方に崖が現れる。  

下には増水した川が渦巻いていた。  

逃げ場がない。  

背後から三人の男が迫る。


「終わりだ、公爵令嬢」

「あなた方の雇い主は誰」

「死人が知ってどうする」

「リリアーヌ・ベルジェですか」  


男の一人の眉が、わずかに動いた。  

十分な答えだった。  

エレオノーラは崖の縁へ立つ。  

雨に濡れた土が、靴の下で崩れていく。


「自分から飛び降りるなら、苦しまずに済むぞ」

「お気遣いに感謝します」  


エレオノーラは微笑んだ。


「ですが、あなた方に私の死を確認させるつもりはありません」  


男が手を伸ばすより早く、彼女は崖を蹴った。  

身体が宙へ投げ出される。  

灰色の空と、黒い森が反転する。  

冷たい水が全身を打ち、肺から息を奪った。  

鉄枷の重さに引かれ、身体が沈む。  

水面の光が遠ざかる。  

父の顔が浮かぶ。  

母の微笑み。  

弟の声。  

ハロルドの背中。  

ここで死ねば、すべてが終わる。  

自分を陥れた者たちは祝杯を上げ、父の名は反逆者として残り、母と弟は罪人の家族として生きることになる。  

それだけは許せなかった。  

エレオノーラは鎖を引き、必死に水を掻いた。  

けれど意識は薄れ、指先から力が抜けていく。  

暗闇へ沈む寸前、誰かの腕が身体を掴んだ。


目を覚ますと、古びた天井が見えた。  

暖炉の火が燃え、薬草の匂いが漂っている。


「目覚めましたか」  


窓際に、一人の男が立っていた。  


焦げ茶色の髪を後ろへ撫でつけ、商人らしい上質な衣服をまとっている。  

年齢は三十に届かない程度だろう。  

端正な顔立ちだが、左目の下に細い傷があった。


「ここは?」

「王都南部の、私の所有する屋敷です」

「あなたは誰」

「ローウェンと申します」

「しがない商人ですよ」

「しがない商人が、王太子の囚人を助けるのですか」

「さすがはアルディス公爵令嬢」

「目覚めて最初に問うのが、恩人の素性とは」

「私を知っているのですね」

「ええ」

「あなたのお父上には、昔、命を救っていただきました」  


ローウェンは机の上へ数枚の紙を置いた。  

王都で発行された号外だった。  

そこには、エレオノーラを乗せた馬車が盗賊に襲われ、本人は死亡したと記されている。  

遺体は川の下流で発見されたという。


「偽の遺体を用意したのですか」

「王家の方で、適当な娘をあなたに仕立てたようです」

「随分と用意がいい」

「あなたが生きているなど、考えたくもないのでしょう」

「父は……」  


ローウェンは目を伏せた。


「亡くなられました」

「やはり」

「奥方様は療養院に」

「弟君は北部へ送られましたが、生きておられます」  


エレオノーラは毛布の下で拳を握る。  

生きている。  

セドリックは、まだ生きている。


「公爵家の財産は」

「王家が接収した後、いくつもの貴族家へ分配されました」

「王太子殿下は、新たな政務補佐官を三人任命しております」

「三人とも、婚約破棄の場にいた側近です」

「リリアーヌ・ベルジェは」

「公爵家の資金を使い、孤児のための慈善院を設立しました」

「王都では聖女のように称賛されています」  


エレオノーラの唇から、笑いに似た息が漏れた。  

父を殺し、母を壊し、自分を殺そうとした女が、公爵家の財産で慈善を行っている。  

これほど悪趣味な冗談もない。


「王太子殿下を殺すおつもりですか」  


ローウェンが静かに問う。


「いいえ」  


エレオノーラは寝台から降りた。  

脚に力が入らず、よろめく。  

それでも机まで歩き、紙と羽根筆を求めた。  

ローウェンは黙って差し出す。  

エレオノーラは婚約破棄に関わった者の名を書き始めた。  

ガストン子爵。  

財務官僚ベラミー。  

典獄長バルガス。  

偽証した教師。  

買収された貴族。  

リリアーヌ・ベルジェ。  

そして最上段に、アレクシス・アルヴェリア。


「死は一度きりでしょう」  


エレオノーラは王太子の名を、黒い線で囲んだ。


「私が奪われたものと同じだけ、何度でも失っていただくわ」







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