第一章 祝福の夜、私は罪人になった
その夜、王立学園の大広間には、春を閉じ込めたような光が満ちていた。
天井から垂れる十二基の魔晶灯は夜空を模した青銀の輝きを放ち、磨き上げられた大理石の床へ、貴族たちの影を淡く落としている。
楽団の奏でる優美な旋律。
色鮮やかなドレス。
いくつもの笑い声。
王立学園の卒業を祝う宴は、若者たちの前途が輝かしいものであると、疑いもせずに約束しているかのようだった。
エレオノーラ・フォン・アルディスは、その光景を大広間の中央から見渡していた。
銀糸を織り込んだ濃紺のドレスは、王太子の瞳の色に合わせて仕立てたものだ。
胸元には、王家から贈られた紫水晶の首飾りが輝いている。
十歳の誕生日にアレクシスと婚約して以来、公式の場では必ず身につけてきた品だった。
王太子妃となる者は、自らの好みより王家の品格を優先しなければならない。
幼い日に教えられたその言葉を、エレオノーラは十年間、一度も破らずに守っている。
「エレオノーラ様、ご卒業おめでとうございます」
声をかけてきた子爵令嬢へ、エレオノーラは柔らかな微笑を返した。
「ありがとうございます」
「いよいよ来年には、殿下とのご成婚ですね」
「陛下のご裁可をいただければ、その予定です」
「まあ、ご謙遜を」
子爵令嬢は扇で口元を隠しながら、羨望の眼差しを向けてくる。
けれどエレオノーラは、婚姻の日取りがまだ正式に決まっていないことを知っていた。
北部の不作。
東方国境の緊張。
財務官僚の間で囁かれる国庫の不足。
華やかな婚礼を急ぐべき時期ではないと、三日前に提出した意見書にも記している。アレクシスからの返事は、まだなかった。
それどころか今夜は、会場へ到着してから一度も彼と会話を交わしていない。
大広間の上段に設けられた王族席にも、その姿は見当たらなかった。
近頃のアレクシスは、エレオノーラを避けている。
そう認めるには、すでに十分な時間が過ぎていた。
「エレオノーラ」
低く抑えられた声に振り返ると、侯爵令嬢クラリッサ・フォン・レインフォードが立っていた。
赤褐色の髪を高く結い上げ、深緑のドレスをまとっている。
他の令嬢たちが流行の装飾を競い合うなか、彼女の装いはいつも実用的で、腰には細身の儀礼剣まで佩いていた。
「クラリッサ」
「少し、二人で話せないかしら」
いつもの快活さがない。
クラリッサの緑の瞳は、何かを言いかけては呑み込むように揺れている。
「どうしたの」
「殿下のことよ」
エレオノーラは扇を閉じた。
「殿下が、何か」
「今夜、妙な噂を聞いたの」
クラリッサは周囲へ視線を配り、さらに声を潜める。
「王太子殿下が、この祝賀会で重大な発表をなさるそうよ」
「重大な発表……」
「あなたは、何も聞いていないのね」
質問の形を取りながら、その声には確信があった。
エレオノーラは胸元の紫水晶に指を添えた。
冷たい。
なぜかその冷たさが、薄い刃を押し当てられたように感じられる。
「殿下からは何も」
「だったら、今すぐ帰った方がいいわ」
「理由を教えて」
「まだ確かな話ではないの」
「確かでない話を理由に、王太子の婚約者が卒業祝賀会から逃げ出すことはできないでしょう」
「逃げるのではないわ」
「では、何と説明するの」
クラリッサは答えられなかった。
エレオノーラには、彼女が何を恐れているのか理解できない。
いや、理解しないようにしていたのかもしれない。
この数か月、学園内ではアレクシスとリリアーヌ・ベルジェ伯爵令嬢の噂が絶えなかった。
二人きりで温室へ入った。
王太子の馬車で伯爵令嬢を屋敷まで送った。
アレクシスがリリアーヌへ、王家の紋章を刻んだ髪飾りを贈った。
エレオノーラは、そのすべてを根拠のない憶測として処理してきた。
アレクシスは次代の国王となる人間である。
恋情のために国同士の契約にも等しい婚約を蔑ろにするはずがない。
少なくとも、彼女はそう信じていた。
それが愛によるものだったのか、十年間を無意味なものにしたくないという執着だったのかは、今となっても分からない。
楽団の演奏が、不意に途切れた。
大広間の正面扉が開く。
深紅の礼装に身を包んだ王太子アレクシスが、近衛騎士を従えて入場してきた。
金色の髪。
青い瞳。
整った顔立ちには、未来の国王にふさわしい威厳が浮かんでいる。
その右腕には、一人の令嬢が寄り添っていた。
純白のドレスをまとったリリアーヌ・ベルジェ。
柔らかな金髪には、王家の紋章をかたどった髪飾りが輝いている。
噂は真実だった。
それでもエレオノーラの心は、驚くほど静かだった。
あれは何かの事情があって貸し与えたものかもしれない。
王太子の腕を取っているのも、体調を崩した彼女を支えるためだろう。
そうした仮説を、頭の中でいくつも組み立てる。
どれもひどく不自然だった。
アレクシスが壇上へ進む。
リリアーヌは半歩後ろに下がったが、その手だけは彼の腕から離れなかった。
「皆、静粛に」
魔力で拡張されたアレクシスの声が、大広間の隅々へ響き渡る。
「今宵、余はアルヴェリア王国の未来に関わる、重大な決断を諸君へ告げる」
ざわめきが広がった。
エレオノーラの隣で、クラリッサが息を呑む。
アレクシスの青い瞳が、真っ直ぐこちらへ向けられた。
かつて美しいと思った瞳だった。
幼い彼が王宮の庭で転び、膝をすりむきながらも泣くまいと耐えていた姿を覚えている。
エレオノーラはハンカチで傷を縛り、立派な国王は泣かない人ではなく、泣いている人の痛みを理解できる人なのだと伝えた。
彼はその言葉を忘れてしまったのだろうか。
あるいは、覚えていたのは自分だけだったのか。
「エレオノーラ・フォン・アルディス」
名を呼ばれ、エレオノーラは一歩前へ出た。
「はい、王太子殿下」
「余はこの場をもって、そなたとの婚約を破棄する」
誰かが短い悲鳴を漏らした。
大広間の空気が大きく傾き、無数の眼差しがエレオノーラへ押し寄せてくる。
驚愕。
好奇。
憐憫。
隠しきれない歓喜。
誰もが彼女の反応を待っていた。
泣き崩れるのか。
怒鳴るのか。
それとも、アレクシスへ縋りつくのか。
エレオノーラは背筋を伸ばした。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
自分でも驚くほど、声は平静だった。
「理由が分からぬと言うのか」
「婚約は王家とアルディス公爵家の間で締結されたものです」
「個人の感情のみで破棄できる契約ではございません」
「ゆえに、王国法に則った理由の開示を求めます」
アレクシスの眉間に険しい皺が寄った。
エレオノーラの口から法律や契約という言葉が出るたび、彼はいつも同じ顔をする。 自分の自由を奪われた子どものような顔。
「この期に及んで、まだ未来の王太子妃を気取るつもりか」
「私は事実を確認しております」
「ならば、確認させてやろう」
アレクシスが片手を上げる。
側近のガストン子爵が進み出て、一枚の羊皮紙を広げた。
「エレオノーラ・フォン・アルディス」
「そなたには、リリアーヌ・ベルジェ伯爵令嬢に対する継続的な嫌がらせ、慈善基金からの公金横領、そして王太子たる余への毒殺未遂の疑いがある」
今度こそ、大広間が沸き立った。
婚約破棄だけではない。
国家反逆罪にも等しい告発である。
エレオノーラはリリアーヌを見た。
彼女は怯えるように肩を震わせ、アレクシスの背へ身を寄せている。
「証拠を拝見できますか」
「必要ない」
「必要です」
「余が罪ありと判断した」
「殿下は被害を訴えておられる当事者です」
「当事者による判断だけで処罰を決めることは、王国法が禁じております」
「黙れ」
アレクシスの声が鋭く響いた。
エレオノーラは沈黙したが、頭を下げなかった。
王太子の頬が怒りに染まる。
「その傲慢さだ」
「そなたはいつもそうだった」
「余の婚約者でありながら、余を導くふりをして、余の言葉を否定し続けた」
「リリアーヌは違う」
「彼女は身分を盾にせず、誰にでも慈愛をもって接する」
「そなたに傷つけられながらも、今日までそなたを庇ってきたのだ」
「殿下」
リリアーヌが彼の袖を引いた。
「もう、よろしいのです」
「エレオノーラ様にも、きっと事情がおありだったのですわ」
「お優しいのですね、リリアーヌ様」
エレオノーラが返すと、彼女の肩が小さく跳ねた。
「ですが、私はあなたの教科書を破っておりません」
「ドレスへ葡萄酒をかけたことも、階段から突き落としたこともございません」
「王太子殿下へ毒を盛る理由もありません」
「私が殿下を害して、何を得るというのですか」
「だからこそ、正式な審理を求めます」
「証拠もある」
ガストン子爵が合図すると、近衛騎士の間から一人の娘が連れ出された。
エレオノーラの専属侍女、マルタだった。
顔は青ざめ、歩みはひどく覚束ない。
右の頬には化粧でも隠しきれない腫れが浮かんでいる。
「マルタ」
エレオノーラが名を呼ぶと、侍女は肩を震わせた。
「顔を上げなさい」
「誰に何をされたの」
「お嬢様」
マルタの瞳から涙がこぼれた。
助けを求めるように唇が動く。
しかし彼女が実際に発した言葉は、表情とは正反対のものだった。
「わ、私は、エレオノーラ様に命じられました」
周囲からどよめきが上がる。
「リリアーヌ様の持ち物を傷つけるようにと」
「階段の踊り場で、あの方の背を押すようにと」
「そして、殿下のお飲み物へ毒を入れたのも、私です」
「エレオノーラ様のご命令でした」
マルタはその場へ崩れ落ちた。
エレオノーラは彼女の両手を見つめた。
爪がいくつか剥がれている。
自白を引き出すために何をされたのか、想像する必要すらなかった。
「マルタの家族はどこです」
エレオノーラはアレクシスではなく、ガストン子爵へ尋ねた。
「何の話でしょう」
「彼女には、王都の南区で暮らす母親と二人の弟がいます」
「証言の見返りに保護したのですか」
「それとも、証言させるために拘束したのですか」
ガストンの口元から、笑みが消えた。
「見苦しい言い逃れはおやめください」
「侍女は己の良心に従っただけです」
「ならば、正式な法廷で同じ証言をさせてください」
「契約魔法を用い、証言の真偽を確かめましょう」
「必要ないと言ったはずだ」
アレクシスが壇上から下りてくる。
「余は、そなたの詭弁には飽きた」
「詭弁ではございません」
「では、リリアーヌが嘘をついていると言うのか」
「その可能性を調べるべきだと申し上げています」
「彼女を侮辱するな」
アレクシスがエレオノーラの手首を掴んだ。
強い力だった。
紫水晶の首飾りが胸元で揺れる。
彼の瞳にあるのは怒りであり、嫌悪であり、そして恐怖でもあった。
エレオノーラが何を言うか、恐れている。
そのことに気づいた瞬間、胸の内へ冷たい理解が染み込んできた。
「殿下は、いつからご存じだったのですか」
「何を言っている」
「証拠が不自然であることを」
掴まれた手首が軋む。
「慈善基金の帳簿を管理しているのは、私ではなく王国財務院です」
「王太子殿下の飲食物は、近衛の毒見役を含めて三名が確認します」
「私が侍女一人へ命じたところで、毒を混入させることなど不可能です」
「殿下ほどの方が、その矛盾に気づかなかったとは思えません」
「黙れ」
「それとも、気づいていながら――」
乾いた音が、大広間に響いた。
頬に熱が走る。
アレクシスがエレオノーラを平手で打ったのだと理解するまで、わずかな時間が必要だった。
紫水晶の留め具が外れ、首飾りが床へ落ちる。
宝石の一つが、大理石の上を滑っていった。
「エレオノーラ」
クラリッサが駆け寄ろうとする。
だが、彼女の父であるレインフォード侯爵がその腕を掴んだ。
「動くな、クラリッサ」
「お父様、でも」
「これは王家と公爵家の問題だ」
「違います」
「今ここで止めなければ、取り返しがつかなくなります」
「黙っていなさい」
侯爵の声に、クラリッサの足が止まる。
エレオノーラは彼女を見た。
クラリッサの目には涙が浮かんでいる。
それでも彼女は、父の手を振りほどかなかった。
誰も動かない。
誰もエレオノーラの隣に立とうとはしない。
十年間、王太子妃となるために学んできた。
国内の貴族すべての家系を暗記した。
各領地の産業と税収を調べた。
飢饉の際には自ら救済計画を作り、王太子の名で実行した。
外交使節の前では、アレクシスの失言を幾度も取り繕った。
彼が病に伏せれば、一晩中回復を祈ったこともある。
その十年の間に、エレオノーラが親しく言葉を交わした人間は数え切れない。
けれど今、この広間には一人もいなかった。
「エレオノーラ・フォン・アルディスを拘束せよ」
アレクシスが命じる。
近衛騎士が両側から腕を取った。
抵抗はしなかった。
ここで暴れれば、それこそ罪を認めたように受け取られる。
せめて公爵令嬢としての尊厳だけは失うまいと、エレオノーラは顔を上げた。
連行される彼女の前へ、リリアーヌが歩み寄ってくる。
「どうか、あまり酷いことはなさらないでくださいませ」
周囲へ聞かせるための、慈愛に満ちた声。
「私、エレオノーラ様を恨んでなどおりません」
リリアーヌは涙を流しながら、エレオノーラの手を取るふりをした。
そして顔を寄せ、誰にも聞こえないほど小さな声で囁く。
「あなたは正しすぎたのです」
甘い香水の匂いが、鼻先をかすめる。
「殿下が欲しかったのは、正しい妻ではなく、愛してくれる女でしたのに」
エレオノーラは、初めてリリアーヌの瞳を正面から見た。
そこには怯えも涙もない。
獲物を仕留めた者の、澄み切った愉悦だけがある。
「そう」
エレオノーラは微笑んだ。
リリアーヌの表情に、かすかな動揺が走る。
「では、あなたは殿下に愛を差し上げたのではないのですね」
「殿下が欲しがる言葉を差し上げただけ」
リリアーヌの指先が強張る。
「何を」
「あなたが今、そう教えてくださったのでしょう」
近衛騎士がエレオノーラを引き離した。
大広間を出る直前、彼女は一度だけ振り返る。
アレクシスはリリアーヌの肩を抱き、彼女を守るように立っていた。
床には、砕けた紫水晶が散らばっている。
十年間の約束は、誰にも拾われないまま、靴底に踏みにじられていた。
王宮地下へ続く回廊は暗く、冷え切っていた。
祝賀会の音楽は、厚い石壁を隔てても微かに聞こえてくる。
階段を下りるたびに旋律は遠ざかり、代わりに湿った土と鉄錆の臭いが濃くなった。
「お待ちください」
回廊の先から、若い騎士が走ってくる。
「公爵邸で火災が発生しました」
近衛騎士たちが足を止めた。
エレオノーラも振り返る。
高窓の向こうに、赤い光が見えた。
王都の西側。
アルディス公爵邸がある方角である。
夜空へ黒煙が立ち上り、その根元で炎が大きく揺れていた。
あそこには父がいる。
母がいる。
弟のセドリックがいる。
「火災の原因は」
「まだ分かりません」
「門を開けてください」
エレオノーラが鉄格子へ手をかける。
「私を公爵邸へ」
「なりません」
「屋敷には家族がいるのです」
「殿下のご命令です」
「私はまだ裁判も受けておりません」
「お下がりください」
「門を開けなさい」
声を荒らげたのは、初めてだった。
騎士たちは顔を見合わせたが、誰も鍵へ触れない。
炎はますます大きくなる。
王都の夜を赤く染め、何もかもを呑み込もうとしていた。
エレオノーラは鉄格子を握りしめる。
指に食い込んだ錆が皮膚を裂き、赤い血が流れた。
けれど痛みはなかった。
家が燃えている。
自分の帰る場所が。
十年間、守り続けてきたものが。
あの炎を見ながら、エレオノーラは初めて、王妃になることを諦めた。
代わりに、この国の喪主になろうと決めた。




