↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/16

第十五章 灰のあとに残るもの

王都結界の制御室は、地上のどの宮殿よりも広大だった。  

円形の空間を、幾重もの魔法陣が取り囲んでいる。  

中央には人の背丈の十倍を超える巨大な魔石が浮かび、その内部で蒼い炎が渦巻いていた。  

壁には無数の光の線が走り、王都各地の中継核へ繋がっている。  

線の半数以上が赤く染まり、激しく明滅していた。  

魔力が限界を超えようとしている。  

エレオノーラは胸を押さえながら、中央の祭壇へ近づいた。  

一歩進むたび、足元に血が落ちる。  

クラリッサが肩を貸していたが、身体から力が抜けていく速度は早かった。


「制御盤は」  


クラリッサが周囲を見る。


「中央よ」

「王家の鍵と、公爵家の指輪を」  


祭壇には二つの窪みがある。  

エレオノーラは金色の鍵を左へ、父の指輪を右へ嵌めた。  

魔法陣が起動し、古代文字が空中へ浮かぶ。


『結界損傷率、七十二』

『中継核、連鎖崩壊』

『通常停止、不可能』  


無機質な声が、制御室へ響く。


「他の方法は」  


クラリッサが問いかける。


『緊急契約による、魔力路の再構築』

「必要なものは」

『契約者一名』

『魔力、および生命力の全量』  


クラリッサの顔が強張る。


「別の方法を」

『該当なし』

「魔石で代用は」

『不可能』

「複数人で分担すれば」

『王都結界は、単一の生命紋を基礎として再構築される』

『契約者一名が必要』  


エレオノーラは、予想していたように目を閉じた。  

建国時代の結界は、誰か一人の生命を礎に作られている。  

王都を守る力が永遠に近い年月を保つのは、魔石だけでなく、人の魂と契約しているからだった。


「私が残ります」  


クラリッサが祭壇へ手を伸ばす。  

エレオノーラはその手首を掴んだ。


「駄目です」

「あなたは、もう魔力を失いかけている」

「契約に耐えられない」

「だからこそ、私で十分です」

「死ぬつもりでしょう」

「あなたに刺された時点で、助かりません」

「地上へ戻れば、治療術師が」

「自分で分かるの」  


エレオノーラは胸の傷へ触れた。  

剣は心臓のすぐ脇を貫き、太い血管を傷つけている。  

高度な治癒魔法があっても、地上まで命が持たない。


「私がやるわ」

「嫌よ」

「クラリッサ」

「嫌!」  


クラリッサは、幼い子どものように首を振った。


「私は、あなたを助けるために来た」

「裁判を受けさせるために」

「生きて償わせるために」

「こんな終わり方をさせるためなんかじゃない」

「あなたの剣が、私を罰したのではありません」  


エレオノーラは穏やかに告げる。


「遅かれ早かれ、私は自分の選んだ道の先で死んでいました」

「それでも」

「あなたのせいではないわ」

「嘘よ」

「私が刺した」

「私があなたの短剣を見抜けなかった」

「見抜けないようにしたのです」

「私が、あなたに殺させた」  


その言葉は残酷だった。  

けれど、クラリッサが背負おうとしている罪を否定するには、真実を告げるしかない。


「あなたは最後まで、私を生かそうとしてくれた」

「だから、これは私の選択です」  


エレオノーラは祭壇の前へ立つ。  

魔力の光が銀髪を照らし、かつての王太子妃候補だった頃の姿を思わせた。


「クラリッサ」

「私を許さないで」

「そんなこと」

「許されれば、私の罪が軽くなる気がしてしまう」

「私は、あなたに楽になってほしいわけではない」  


クラリッサは涙を拭った。


「あなたが怒ったことは正しかった」

「家族を奪った者たちへ、責任を求めることも」

「でも、あなたがしたことは正しくない」

「罪のない人を飢えさせ、死なせた」

「私は、それを決して許さない」

「そう」  


エレオノーラは、ほんの少し笑った。


「あなたは昔から、私の欲しい嘘を言ってくれない人だったわ」

「それでも、あなたを愛している」

「ええ」

「それは、信じます」  


エレオノーラは外套の内側から、黒革の帳面を取り出した。  

二年前から書き続けてきた、復讐対象の名簿。  

後半には、王家と貴族たちの不正、商会の取引、隠し財産の場所が記されている。


「これを」  


クラリッサへ差し出す。


「王家の不正は、すべて公表してください」

「灰色商会の財産は、被害者への補償に」

「ローウェンへ頼んであります」

「あなた自身の罪も書いてあるのね」

「ええ」

「消さないで」

「私を英雄にしないでください」

「王都を救ったことだけを残し、他を隠しては駄目」

「逆に、怪物としてだけ記録することも許さない」

「随分と難しい頼みね」

「あなたなら、できます」  


クラリッサは帳面を胸へ抱いた。


「セドリックへは」

「復讐を継ぐなと」  


エレオノーラの声が震える。  

この場で初めて、死への恐怖ではなく、弟を残す悲しみが顔に表れた。


「姉の名誉を守ろうとしなくていい」

「私の罪を隠す必要もない」

「自分の人生を生きなさいと」

「自分で伝えて」

「それは、できない相談です」

「エレオノーラ」

「それから、ローウェンに」  


彼女は少し考え、首を振った。


「いいえ」

「彼には、何も」

「伝えなくても、分かるでしょう」

「本当に」

「では、一つだけ」  


エレオノーラは目を伏せる。


「川から助けてくれて、ありがとうと」  


制御室が大きく揺れた。  

赤く染まった魔力線が、次々に砕け始める。


『結界完全崩壊まで、三百秒』  


時間がない。  

エレオノーラは祭壇へ掌を置く。


「契約を開始します」

『契約者名を』

「エレオノーラ・フォン・アルディス」

『契約内容を確認』

『生命と魔力の全量を、王都結界再構築の代価として捧げる』

『契約後の解除は不可能』

「承知します」  


紫色の魔法陣が広がり、エレオノーラの身体を包む。  

クラリッサは彼女の腕を掴んだ。


「まだ、間に合う」

「契約を止めて」

「地上へ戻りましょう」

「クラリッサ」  


エレオノーラは、友人の手へ自分の手を重ねた。  

四度、拒み続けた手。  

最後になって、ようやく触れることができた。


「手を伸ばしてくれて、ありがとう」  


契約魔法の光が、二人の指の間へ入り込む。  

クラリッサの身体を強い風が包み、制御室の出口へ押し戻した。


「待って」

「エレオノーラ」

「扉を閉じて」

「できない」

「閉じなければ、魔力が地上へ漏れます」

「あなたが」

「行って」  


エレオノーラは微笑んだ。  

王太子妃として作った笑みでも、灰色の貴婦人の冷たい微笑でもない。  

王宮の温室で泥だらけになって笑っていた、少女の頃の顔だった。


「生きて」  


石扉が閉じ始める。  

クラリッサは何度も手を伸ばした。  

けれど風の障壁を越えられない。


「エレオノーラ」  


最後に見えたのは、銀髪を光の中へ溶かす友人の姿。  

扉が閉じ、二人の間を隔てた。


契約が始まる。  

全身から魔力が抜け、血の一滴まで光へ変わっていく。  

痛みはなかった。  

熱も、寒さもない。  

身体の境界が薄れ、王都そのものへ広がっていくような感覚だけがある。  

エレオノーラには、街のすべてが見えた。  

燃える家。  

泣く子ども。  

家族を背負って走る者。  

消火を続ける騎士。  

施療院で負傷者を励ますミレイユ。  

壁際に座り、血を流しながら自分の帰りを待つローウェン。  

地上へ戻り、石扉を叩き続けるクラリッサ。  

そして、王都の外から街を見つめるセドリック。  

あの子は、もう自分が守らなければならない幼い弟ではない。  

自分の罪を知り、それでも正しい道を選ぼうとした一人の人間だった。


「ごめんなさい」  


誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。  

父。  

母。  

弟。  

クラリッサ。  

ローウェン。  

ミレイユ。  

名簿に残る死者たち。  

すべての人へ告げるには、一言では足りない。  

けれど、今のエレオノーラには、それしか残されていなかった。  

卒業祝賀会の夜が浮かぶ。  

もしあのとき、誰か一人でも隣へ立ってくれたなら。  

もしクラリッサが父の手を振りほどいてくれたなら。  

もしアレクシスが、間違いを認めてくれたなら。  

自分は復讐者にならずに済んだかもしれない。  

だが同時に、復讐を始めた後にも手は差し伸べられていた。  

ローウェンは何度も止めた。  

クラリッサは共に真実を暴こうと言った。  

セドリックも、きっと自分を待っていた。  

差し伸べられた手を振り払い、孤独を選び続けたのは自分である。  

被害者だった。  

それは最後まで変わらない。  

けれど被害者であることが、自分の罪を消してくれるわけではなかった。


『契約、成立』  


声が響く。  

エレオノーラの生命が、巨大な魔石へ吸い込まれていく。  

赤く染まっていた魔力線が、一つずつ紫色へ変わる。  

王都各地で燃えていた蒼い炎が弱まり、やがて消えた。  

崩壊しかけていた結界が、新たな光の膜となって街を包む。  

夜空から、静かな雨が降り始めた。  

通常の炎も雨に打たれ、少しずつ勢いを失っていく。  

エレオノーラの視界から、王都の景色が遠ざかる。  

最後に思い出したのは、王子でも、婚約破棄でも、復讐でもなかった。  

幼い日の公爵邸。  

父と母が庭の椅子へ座り、セドリックが花壇を走り回っている。  

クラリッサが塀を越えて遊びに来る。  

誰も罪人ではなく、誰も復讐者でもない。  

帰ることのできない、春の日だった。


「お父様」  


声はもう、誰にも届かない。


「私、帰ってもよろしいでしょうか」  


光がすべてを包む。  

エレオノーラ・フォン・アルディスの命は、王都の夜へ静かに溶けていった。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。