エピローグ 冬の花
王都の大火から、半年が過ぎた。
焼け落ちた家々は建て直され、崩れた石畳も新しいものへ替えられている。
被害の深かった南区では、今も工事の槌音が絶えない。
あの日を生き延びた人々は、失ったものを抱えたまま、それでも日々の暮らしへ戻ろうとしていた。
国王は大火の翌月に退位した。
王太子の不正を止められず、アルディス公爵家への違法な処分を認めた責任を負ったのである。
王位は国王の弟へ譲られた。
新国王は即位と同時に、諸侯会議と王国裁判所の権限を拡大し、王族であっても通常の審理を受ける制度を整えた。
それは、エレオノーラが生涯求め続け、最後まで信じることのできなかった法の形でもあった。
リリアーヌ・ベルジェの裁判は、三か月にわたって行われた。
彼女は当初、すべてをアレクシスの指示だったと主張した。
けれど契約魔法による証言と帳簿、父への命令書が提出され、逃げ道は一つずつ塞がれていく。
証拠捏造。
偽証教唆。
公金横領。
アルディス公爵殺害の教唆。
ガストン子爵への口封じ。
多数の罪が認定され、終身禁錮が言い渡された。
判決の日、リリアーヌは白い衣服を求めた。
だが許されたのは、罪人用の灰色の服だけだった。
彼女は今も北部の監獄で、自分は誰よりも愛されるべきだったと訴えているという。
アレクシスも王位継承権を永久に失い、北方の修道院へ送られた。
民衆に襲われた際の傷で、右脚に障害が残っている。
彼は何度も新国王へ赦免を求める手紙を書いたが、一通も受け入れられなかった。
修道院で与えられた仕事は、王国の戦争と災害による死者の名を記録することである。
かつて人の死を報告書の数字として読んだ男は、毎日、一人ずつ名を書かなければならない。
その罰が彼を変えたかどうかを、知る者はいなかった。
アルディス公爵家への国家反逆罪は、正式に取り消された。
亡き公爵は忠臣として名誉を回復し、共同墓地から見つかった遺骨は、王都郊外の霊廟へ改葬される。
公爵夫人は療養院で保護されていた。
身体は無事だったが、心は二年前の火災の日へ置き去りにされている。
彼女は今も、銀髪の娘が王宮から帰ってくると信じ、窓辺に立つことがあるという。
セドリックは、アルディス公爵位の継承を認められた。
爵位授与式の日、彼は父の指輪を嵌めなかった。
指輪は結界中枢に残り、エレオノーラの命とともに王都を守っている。
代わりに、何の紋章もない銀の指輪を身につけた。
「姉の罪を、記録から消さないでください」
新国王の前で、セドリックはそう願った。
「姉は無実の罪によってすべてを奪われました」
「ですが、その後に自ら犯した罪まで無実になるわけではありません」
「姉を英雄として飾ることも、悪女として切り捨てることも、真実ではないのです」
新国王は、その願いを認めた。
王国の公式記録には、エレオノーラが婚約破棄事件の被害者であったこと。
復讐の過程で兵士や民衆を危険へ晒したこと。
穀物流通を止め、暴動の被害を拡大させたこと。
そして最後には、自らの命を代価として王都を救ったこと。
そのすべてが記された。
灰色商会は解散した。
莫大な財産は売却され、東方の村、暴動の犠牲者、慈善院の子どもたちへの補償へ使われている。
ローウェンは商会の代表として、補償の手続きを引き受けた。
彼は以前より口数が減り、灰色の衣服を二度と身につけなくなった。
すべての処理が終わった後、王都を離れるつもりだという。
クラリッサが別れの挨拶へ訪れた日、彼は一冊の帳面を差し出した。
「これは?」
「お嬢様が、二年前からつけていた記録です」
復讐の名簿とは別の、小さな帳面だった。
中には、彼女の行動によって被害を受けた者の名が記されている。
東方で死んだ十二人。
ガストン。
バルガス。
暴動の犠牲者。
ソフィ・ベルナール。
名前の横には、家族構成や補償額が細かな字で書き込まれていた。
「忘れてはいなかったのですね」
クラリッサが呟く。
「忘れなかったことが、許される理由にはなりません」
ローウェンは窓の外を見る。
「彼女は、それを分かっていたのでしょう」
「最後に、何か言っていましたか」
クラリッサは頷く。
「川から助けてくれて、ありがとうと」
ローウェンは目を閉じた。
「それだけですか」
「ええ」
「まったく」
笑おうとした声が、途中で震える。
「あの方は最後まで、肝心なことを言わない」
クラリッサは何も返さず、彼が涙を拭うまで窓の外を見ていた。
ミレイユは、家族のパン屋を再建した。
補償金を受け取ることには、最後まで迷った。
「お母さんの命を、お金に替えるみたいで嫌です」
そう訴える彼女へ、クラリッサは答えた。
「これは命の値段ではないわ」
「奪われた暮らしを取り戻すために、罪を犯した者が負うべき責任よ」
「受け取っても、許したことにはならない」
ミレイユは長い時間をかけ、補償を受け入れた。
新しい店は、以前より少しだけ広い。
父のジャンが窯を守り、弟のノアも元気に店を手伝っている。
毎朝焼くパンの一部は、食事を買えない子どもたちへ無償で渡していた。
その費用は、灰色商会から引き継いだ基金によって賄われている。
エレオノーラの金で焼かれたパン。
ミレイユは、その事実を嫌った。
それでも、空腹の子どもを前にして、受け取らないという選択はできなかった。
「このパンを配ることは、あの人を許すことじゃない」
ミレイユは弟へ言った。
「でも、同じことを繰り返さないために使うことはできる」
ノアは難しい顔をした後、焼き立てのパンを籠へ入れた。
「お母さんなら、そうするかな」
「きっとね」
姉弟は、店の扉を開いた。
焼き立ての香りが、冬の通りへ流れていく。
クラリッサは、新設された王国監査院の長へ就任した。
王家や大貴族の帳簿も例外なく調査できる機関である。
就任式で彼女は、正義という言葉を一度も使わなかった。
「私たちは、間違えます」
「恐れによって沈黙し、愛する者を庇い、自分の都合で事実を見失う」
「だからこそ、誰か一人の善意へ国を預けてはなりません」
「権力を持つ者を監視し、疑い、過ちを認めさせる仕組みが必要です」
「それは王族だけでなく、貴族にも、私自身にも向けられなければならない」
その言葉を聞く者の中には、厳しすぎると眉を顰める者もいた。
けれどクラリッサは、もう沈黙しない。
正しいと信じることが、常に正しい結果を生むわけではない。
だからこそ、自分の判断もまた、誰かに問われなければならなかった。
王都中央広場には、大火と暴動の犠牲者を悼む慰霊碑が建てられた。
黒い石には、身分に関係なく、亡くなった者の名が刻まれている。
兵士。
職人。
商人。
幼い子ども。
ソフィ・ベルナールの名もあった。
エレオノーラの名は、英雄としても犠牲者としても刻まれていない。
碑の裏側に、短い文章だけが残された。
『この災厄は、一人の悪人によって起きたのではない』
『一人の令嬢を見捨てた王家と貴族』
『その怒りを利用した者』
『苦しむ民を数字として扱った者』
『そして、目の前の不正に沈黙したすべての者によって起きた』
冬の初め。
クラリッサは一人で慰霊碑を訪れた。
手には、小さな白い花を持っている。
白百合ではない。
凍った土の上でも咲く、名もない冬の花だった。
エレオノーラが幼い頃、王宮の庭で最も好きだと言っていた花である。
「あなたを許さないわ」
クラリッサは慰霊碑の前へ花を置く。
「きっと、一生」
風が赤褐色の髪を揺らす。
「でも、忘れもしない」
結界が淡く輝き、冬の日差しを受けて王都を覆っている。
その光には、わずかに紫色が混じっていた。
エレオノーラの魂が残っているのか。
それとも、契約魔法の色が残留しているだけなのか。
誰にも確かめることはできない。
クラリッサは光へ手を伸ばした。
指先に、春の日差しのような温かさが触れる。
「さようなら、エレオノーラ」
返事はない。
それでよかった。
死者の声を自分に都合よく想像することも、過去を美しい物語へ作り替えることもしたくなかった。
彼女は被害者だった。
復讐者だった。
罪人であり、最後には王都を救った。
どれか一つだけを選べば、その人間を理解したつもりになれる。
けれど人は、一つの言葉へ収まるほど単純ではない。
愛している者の罪を認めること。
許せない者の痛みを忘れないこと。
相反する真実を、どちらも手放さずに抱えていくこと。
それが残された者へ課された、最も苦い責任だった。
広場の向こうでは、ミレイユの店が開いている。
子どもたちが列を作り、焼き立てのパンを受け取っていた。
ミレイユは一人ずつ顔を見て、温かなパンを手渡していく。
誰かが余分に取ろうとしても怒鳴らず、家に弟がいるのかと尋ねた。
小さな手に二つ目のパンが載せられる。
窯から立つ煙が、冬の空へゆっくり昇っていく。
灰の下から芽吹いたものを、希望と呼ぶには、まだ早い。
傷は消えず、死者は戻らず、罪は赦しだけで終わらない。
それでも人々は種を蒔き、パンを焼き、明日のために生きていく。
彼女が守れなかった国で。
彼女が傷つけた国で。
そして、彼女が最後に救った国で。
終幕




