第十三章 燃える王都
火は、風よりも速く王都を駆け抜けた。
南部倉庫から地下水路へ流れ込んだ魔力が、結界の中継点を次々に暴走させている。
石畳の下から蒼い炎が噴き上がり、建物の基礎を焼いた。
通常の水をかけても消えない。
むしろ水に含まれた微量の魔力を吸収し、さらに勢いを増す。
「消火用の中和魔石を使って」
クラリッサは王都南区の広場で指揮を執っていた。
「青い炎へ直接投げ込むのよ」
「負傷者は西の施療院へ」
「中央通りは崩落の危険がある」
「避難は川沿いの道を使って」
風魔法で煙を押し上げ、避難路を確保する。
侯爵家の騎士だけでなく、東方遠征から戻った兵士や、下町の職人たちも救助に加わっていた。
誰もが恐れている。
それでも家族や隣人を守るため、炎の近くへ戻っていく。
「お嬢様」
騎士が駆け寄る。
「中和魔石が足りません」
「王宮の倉庫に備蓄があるはずです」
「王宮側も結界の保護に使うとして、搬出を拒んでいます」
「では、商業区の錬金術工房から」
「穀物不足の混乱で、原料の入荷が止まっております」
クラリッサは唇を噛む。
食料だけではない。
灰色商会が流通を乱した影響で、薬草、魔石、建築資材も不足している。
一つの流れを止めれば、別の場所にまで淀みが広がる。
王都という巨大な身体は、あまりに多くの物資と人の営みによって生かされていた。
「あるものを集めて」
「貴族の屋敷にある装飾用の魔石も使います」
「拒む家があれば、レインフォード侯爵家の名で接収すると」
「承知しました」
騎士が去る。
入れ替わるように、ミレイユが走ってきた。
煤で顔を汚し、腕には弟のノアを抱いている。
「クラリッサ様」
「施療院が燃えました」
「患者は」
「裏口から逃がしています」
「でも、まだ中に」
クラリッサはノアを近くの兵士へ預けた。
「あなたは弟さんと避難して」
「私も手伝います」
「危険よ」
「お母さんがいなくなったから、私がノアを守るんです」
ミレイユは震えていた。
怖くないのではない。
怖くても、逃げるだけでは守れないと知ったのだろう。
クラリッサは少女の肩へ手を置く。
「なら、川沿いの避難所で、幼い子どもたちをまとめて」
「あなたにしか頼めないことよ」
ミレイユは頷き、ノアを連れて走り去った。
その背中を見送り、クラリッサは施療院へ向かう。
空から、燃えた紙片が雪のように降っている。
それは穀物倉庫に保管されていた帳簿の切れ端だった。
誰が何袋の小麦を所有していたか。
いくらで売り、誰が利益を得たか。
人々を飢えさせた数字は炎に焼かれ、黒い灰となって街へ降り注いでいた。
エレオノーラは灰色商会の倉庫をすべて開放した。
食料、毛布、薬、消火に使える魔石。
復讐のために蓄えてきた財産が、荷車へ積まれて各区画へ運び出される。
「価格は」
商会の職員が尋ねる。
「取りません」
「すべて無償で配ってください」
「記録は残しますか」
「必要ありません」
職員たちは驚いたように彼女を見た。
灰色の貴婦人は、一枚の銅貨さえ利益へ変える女として知られている。
その彼女が、莫大な財産を惜しげもなく手放そうとしていた。
「急いで」
「倉庫が燃えれば、何も残らないわ」
荷車が次々に出発する。
エレオノーラ自身も外套の袖を捲り、小麦袋を運んだ。
かつてなら、彼女が荷物へ手を触れるだけで使用人が止めただろう。
今は誰も、彼女を公爵令嬢として扱わない。
煤に汚れた一人の女として、同じ荷を担ぐ。
「そちらを持って」
声をかけられ、袋の反対側を持ち上げる。
相手はミレイユだった。
避難所で食料が足りず、荷車まで取りに来たという。
二人で袋を荷台へ載せた後、少女はエレオノーラの顔を見た。
「あなた」
中央広場で見た顔を、覚えていた。
ミレイユの目が見開かれる。
「エレオノーラ様」
周囲の職員たちが動きを止めた。
エレオノーラは逃げずに、少女を見返す。
「この小麦は、あなたの倉庫にあったの」
「ええ」
「ずっと」
「流通が止まっていたときも」
「ありました」
ミレイユの顔が歪む。
「最初から、これを配ってくれていたら」
言葉が途切れる。
それでも少女は、涙をこらえて続けた。
「お母さんは死ななかったの」
エレオノーラの喉が動く。
「私は」
言い訳が、いくつも浮かんだ。
すべてを一度に放出すれば買い占められた。
北部の不作は知らなかった。
暴動までは予測できなかった。
王家の備蓄があるはずだった。
どれも目の前の少女には、何の意味も持たない。
「分かりません」
エレオノーラは、ようやく答えた。
「ですが、もっと早く開けていれば、助かった人はいました」
「お母さんも」
「そうかもしれません」
「どうして」
ミレイユの頬を涙が流れる。
「どうして、開けなかったの」
「王子を、許せなかったからです」
「お母さんは、王子様じゃない」
「ええ」
「何も関係ない」
「ええ」
「あなたも、あの人たちと同じじゃないですか」
エレオノーラは否定できなかった。
リリアーヌは、自分が愛されるために他人を傷つけた。
アレクシスは、自分の過ちを隠すために無実の人間を見捨てた。
そしてエレオノーラは、復讐を成し遂げるために民衆の苦しみを利用した。
望んだものは違う。
選んだ手段も違う。
けれど、目の前にいる人間を目的のための道具として扱ったことに変わりはない。
「ごめんなさい」
口から出たのは、それだけだった。
ミレイユは首を振る。
「謝っても、お母さんは帰ってこない」
「分かっています」
「分かっていません」
少女はエレオノーラから袋を奪うように抱え、荷車へ向かう。
エレオノーラは、その背中へ何も言えなかった。
許しを求める資格などない。
謝罪は、受け入れてもらうためにするものではない。
自分が罪を知っていると告げるための、あまりに小さな行為に過ぎない。
夜が深まるほど、結界の暴走は激しくなった。
ローウェンは王宮記録庫から持ち出した古い図面を広げる。
「中継核だけを消しても止まりません」
「地下の中央制御室で、結界全体を閉じる必要があります」
「入口は」
「王宮礼拝堂の地下です」
「ただし、制御室を開くには二つの鍵が必要です」
「一つは、アルディス公爵家の契約魔法」
「もう一つは王家の結界鍵」
「王家の鍵はどこに」
「国王の保管庫にあるはずですが、消えています」
「いつ」
「リリアーヌ嬢が逮捕された直後です」
エレオノーラは図面から顔を上げる。
「彼女が持ち出したの」
「牢の監視記録によれば、王宮付きの侍女が食事を運んでいます」
「その侍女は、以前リリアーヌ嬢へ仕えていた」
「鍵を渡したのでしょう」
「リリアーヌは」
「混乱に乗じて、地下牢から脱走しました」
ローウェンが別の地図を指す。
「王宮北側の礼拝堂で、彼女らしい女を見たという証言があります」
「そこから地下通路を通り、城外へ逃げるつもりかもしれません」
「先回りします」
「私も」
「あなたは物資の配給を」
「この二年、あなたの命令に従ってきました」
ローウェンはエレオノーラの前へ立つ。
「ですが、今度ばかりは従いません」
「危険だと」
「ええ」
「だからこそ、一人では行かせない」
その眼差しには、怒りも失望も残っている。
それでも彼は、エレオノーラを見捨てなかった。
「なぜ」
「公爵閣下への恩があるからです」
「それだけ」
ローウェンは苦く笑う。
「それだけだと思いたいのですか」
エレオノーラは視線を逸らした。
「好きにしなさい」
「いつものご命令より、随分と聞きやすい」
二人は燃える王都を横切り、北の礼拝堂へ向かった。
礼拝堂の中は、崩れた天井から火の粉が降り注いでいた。
祭壇の前に、白い外套をまとったリリアーヌが立っている。
婚礼衣装は脱ぎ捨てていたが、髪には真珠の冠が残っていた。
まるで失った王妃の座を、それだけでも手放すまいとしているようだった。
右手には、金色の鍵が握られている。
「来ると思っていました」
リリアーヌが微笑む。
「王都を救いたいのでしょう」
「鍵を渡しなさい」
「私を国外へ逃がしてください」
「安全な馬車と金貨」
「国境を越えるまで追手を差し向けないと、契約魔法で誓って」
「拒めば」
「鍵を溶かします」
リリアーヌは祭壇の炎へ鍵を近づける。
「王都がどうなってもよいの」
「私を殺そうとした人たちの街ですもの」
「滅びればよいのでは」
エレオノーラは彼女を見つめる。
「分かりました」
「契約します」
「お嬢様」
ローウェンが止めようとする。
「王都がなくなれば、復讐も何もありません」
エレオノーラは契約用の短剣で掌を切り、血を床へ落とす。
「リリアーヌ・ベルジェが王都を出るための馬車と、国境までの旅費を用意します」
「私自身は、あなたを追いません」
契約魔法の光が足元へ広がる。
嘘はない。
リリアーヌは満足げに鍵を差し出した。
「最初から、物分かりのよい方でいてくださればよかったのに」
エレオノーラは鍵を受け取る。
その瞬間、礼拝堂の鐘楼が崩れた。
燃えた梁が扉の前へ落ち、出口を塞ぐ。
ローウェンがエレオノーラの腕を引き、地下へ続く階段の陰へ飛び込んだ。
リリアーヌは反対側へ取り残される。
「助けて!」
炎が床を這い、彼女の外套へ近づく。
「エレオノーラ!」
「契約したでしょう」
「馬車を用意すると」
「用意します」
エレオノーラは炎の向こうに立つ女を見る。
「あなたが、そこへ辿り着けるなら」
リリアーヌの顔が凍る。
「私自身は追わないと誓いました」
「炎から助けるとは、誓っていません」
「卑怯者」
「あなたにだけは、言われたくありません」
エレオノーラは地下階段へ向かう。
背後で、リリアーヌの叫びが響く。
「助けて」
「誰か」
「私は死にたくない」
足が止まりかける。
父も、同じように助けを求めたのだろうか。
バルガスを見殺しにした夜。
自分は、彼を殺したのはリリアーヌだと言った。
ならば今、リリアーヌを焼くのは誰なのか。
「行きましょう」
ローウェンが促す。
エレオノーラは唇を噛み、階段を下りた。
その直後、礼拝堂の正面窓が外から砕ける。
風の奔流が炎を押し返し、赤褐色の髪をなびかせたクラリッサが飛び込んできた。
「クラリッサ」
リリアーヌが這うように手を伸ばす。
「助けて」
クラリッサは一瞬、地下階段の方角を見る。
エレオノーラを追えば、今なら間に合う。
しかし目の前には、炎に囲まれた罪人がいる。
「あなたを許したわけではない」
クラリッサはリリアーヌを抱き起こした。
「あなたには、法廷で罪を語ってもらう」
風の障壁を作り、燃える礼拝堂から彼女を連れ出す。
リリアーヌは恐怖で泣きながら、それでも生きようとクラリッサへ縋っていた。
地下へ下りたエレオノーラは、その声を聞いていた。
クラリッサは、自分が見捨てた女を救った。
それが正しさであると理解できるからこそ、胸の奥がひどく痛んだ。




