密談
王宮の西の端、最上階の部屋は静寂に包まれていました。
階下の階段前を最後にして、その階層は護衛騎士さえ入ることの許されない禁域。ただ一つあるその部屋は、王家の祈りの間でした。
がらんとした広い室内には、寝台のように奥行きのある大きなカウチとアンティーク調の一人掛け椅子が一つ、向かい合わせに置かれているだけ。壁は一切の装飾を排し、照明さえ取り付けられていません。
見上げれば、硝子張りの高い天井越しに濃紺と漆黒が混じりあう深い夜空が広がっていました。
空一面、散りばめられた銀砂のように星々がちらちらと燦めいてます。
手元のランタンを揺らし、王様は星明かりだけの室内を中央へと歩きだしました。
明かりが届くと、無人に見えたそこに、ゆらりと影が浮かび上がります。
カウチの上に伏した雄々しき白い獣。そして、妙齢の艶やかな女性がその獣にゆったりと凭れ掛かり、寛いでいました。
青き髪に天上の星屑を写し取ったように輝く美しい緑色の瞳。
女神様とその伴神様です。
王様はその存在に驚きもせず、向かいの椅子に腰かけました。肘置きに備え付けられた植物の蔦を模した吊り手にカンテラを引っ掛けながら、口を開きます。
「貴女が手出ししてくるのではないかと、少しばかり思っていました」
ゆらゆらと、カンテラの動きに合わせて影が揺らめく中。
挨拶もなく始まった会話に、女神さまは唇をほんのりと引き上げました。
「せぬよ。見守っているだけなのは、少々歯痒かったが。あの子を助けるのは、あの男であるべきだろう?」
直接助けたのは従者ですが、誰よりもネリを助けようとしていたのは領主様で間違いありません。
「なるほど。ラーシュが救い出すと信じていたから手を出さなかった、と?」
「安易にわらわの力を頼り、其方らで守ろうとしないのならば、わらわは、いとし子を森へ連れ帰るだけじゃ。しかしな。あれは我らが守り人。己の力で守ろうとするのだろうさ。ネリが自分の力で帰ろうとしたのと同じようにな」
女神様の言う通り、領主様は自分に出来る最大限の努力でもって子狸を救いだそうとしました。
恐らく、ネリの無事を祈ることはしたでしょう。
ですが、女神様に助けを求めるという選択は、彼にはありませんでした。
助けを求めて待つばかりでなく、領主様のもとに帰ろうと足掻いた子狸と、助け出そうした領主様。
どちらも誰かに頼るのではなく、自分の力でどうにかしようとする姿勢は、確かによく似ています。
「なるほど。貴女に救ってもらう事しか考えられないのであれば、それは共存ではないね。――――ただの依存だ」
女神様は清き水で大地を潤し、緑を、自然の恵みを与えます。動物を人にし、人を動物にすることも、怪我を癒し、願う夫婦に子を授けることも可能です。しかし、願われたからと言って人の願いを叶えなければいけない義務はないのです。
人が人、狸が狸であるように、神も神というものでしかありません。
人が動物よりも複雑な知恵を持つのと同じで、神もまた人の出来ないことが出来る、ただそれだけの存在なのです。ですから、神々が『人の望みを叶える者』というのは大きな間違いです。
考えてもみてください。
人がすべての動物を幸せにする存在かどうかを。手の届く身近な動物を大切にして生きる者たちも確かにいるでしょう。しかしそれだって一部でしかないではありませんか。
神々だって同じことなのです。
同じ世界に生きる愛すべき隣人、それが人であり、神であり、動物なのです。
人にして送り出した小さき命。
愛らしくも可笑しく、鈍臭い子狸を女神様が特別に思っているのは確かです。
ですが、大きな力を持つがゆえに、あまりにも一方的に何かに肩入れをして手を下すことは、女神様にもできません。
弱肉強食の生態系、食べるものと食べられる者たちがいて、世界はその理の上に成り立っているのですから。
「そのわりに、子狸はちょっとひいきしてますよね」
「努力するものを応援したくなるのは、人も同じであろう?」
茶々を入れる王様に、女神様も可笑しそうに片眉を吊り上げます。
「出会わぬものの努力は知り得ぬが、わらわとて、その努力を知ったのならば多少は応援しよう。それに、わらわのことを言えた義理か?其方たちこそ、ネリには大層甘いではないか」
そう言われ、王様は破顔しました。
「だって、可愛いんだもん」
その姿ばかりではなく、行動や領主様への愛情表現、そのすべてが。
まさに癒し、そのものです。
柔らかな表情で笑う王様に、女神さまはとても眩しそうな眼差しを向けました。
「生きることに意味を見出そうとするのは、人だけよ。動物は生きることに懸命だ。だからこそ、愛おしい」
生きることも死ぬことも、食べることも、食べられることも、彼らにとっては大切な循環。そうして命が繋がれていくことを、動物たちは本能で知っていて、その生を懸命に生きています。
そして、神からすれば瞬くほどの短い時間の中で、光を放つような生き様を見せる人という存在もまた、愛おしいものなのです。
女神様に対し適当な態度でありながら、誰よりも誠実にあろうとしている目の前の王様もまた、その一人。
「外は、荒れているようだな」
「神殺しの国はそう遠くない未来消えますよ。まあ、自分たちで歪めた環境なんだから、そこで必死で生きればいいんじゃないですか?全滅するか、逃げ出すか、それともあの環境に適応するか、それはわからないけど。それもまた、彼らの選択でしょう。あっちの国はあっちの国で、欲に踊らされて神様に弄ばれているみたいだけど、そんな神様を自ら望んだんから、それこそ本望なのではないかな」
10年前、神を『人の望みを叶える者』と信じた者たちは、神に過剰な期待をかけました。そして、その期待に応えないことに勝手に失望し、怨嗟を吐いて神を殺しました。
殺された神はその国の神気の中へと還り、他の神々はその地を去りました。
神気とは、神々の生きる糧であり、そして神々を構成する素ともいえるものです。
人がいて神がいて、動物がいる。世界はそう作られているのですから、神々がいなくなれば当然、消費されない神気は増えていきます。
そうして稀に見る濃度の神気に溢れたその国は、神気塗れの作物や水に困り、周辺国へ助けを求めて要望書を送りました。
本来であれば神気自体に害はありません。ただあまりにも深くなり過ぎた神気が人には毒となったのです。動物たちに影響がないのは、人に比べ神気に対する耐性があったからなのでしょう。
とある国の神のように人を道化にして楽しむ神も稀にいらっしゃいますが、神というのは基本とても寛容で、優しい存在です。
無慈悲なのは、いつだって人の方。
互いに尊重し、共存することが出来れば、大地は潤い、神も人も動物も平穏に暮らすことが出来るというのに、それがわからない国が多すぎます。
時として、人は愚かです。それでも、神は人を愛おしいと言う。
歴代の王様たちはそんな神様たちと共に生きたいと願いました。
それは、神への祈りではなく、自分で叶えたい願いであり、想いです。
外に対しては国王が、そして内では森と湖の領主が女神様の守り人となり。
そうやって代々、この国の平穏は守られてきました。
狸をお嫁さんに出来るような国は、きっとこの国を置いて他にありはしないでしょう。
幸せなお話の中のような。
そんな国だからこそ、王様はこの国が大好きで、大切にしたいと思うのです。
「で本当の所、あの親子へのお仕置きは?」
「うん?そうさな。今後質素清貧な生活に耐えられるよう…少し太りやすくしておいた」
清々しく笑った女神さまの横で、白い獣がふっと呆れたように遠い目をしています。
地味にダメージの来る嫌がらせに、王様は腹を抱えて笑いました。
王様と女神さまは話友達。
最後まで読んで頂きありがとうございました。