第3話「成田の深夜道」
その日は仕事が休みだった。夜勤のない日でも、自分の生活リズムは変わらない。日付が変わる頃も、特別な時間ではなかった。
大清水を歩いた夜から、少し間が空いていた。初めてのウォーキングで思っていた以上に疲れたこともあり、無理はしないと決めていた。歩くのは、休みの日だけでいい。
前回は大清水を歩いた。今回は、別の道を試してみることにした。成田方面だ。
出かける前、妻はタブレットで動画を見ていた。自分が上着を手に取ると、画面から目を離してこちらを見た。
「また歩くの?」
「うん。今度は成田のほうに行ってみようと思って」
「気をつけてね。夜は暗いんだから」
「わかってるよ」
短いやり取りを交わし、自分は家を出た。
玄関の外には、春の夜の冷たい空気があった。日中に暖かさを感じる日が増えても、夜になるとまだ肌寒い。上着の襟元から入り込む風に首をすくめながら、歩き始めた。
前回の大清水コースでは、街灯の明かりを頼りにしていた。しかし、暗い道では足元が見えにくい。段差につまずいて怪我をしては意味がないし、車から自分が見えにくいことも気になった。
そこで、ストロボ機能の付いたフラッシュライトを買った。足元を照らすだけでなく、自分の存在を車に知らせるためでもある。自分の身は、自分で守るしかない。
ライトを点灯させ、足元を確かめる。白い光が舗装路を照らし、少し先の地面まで浮かび上がらせた。
照らせば、そこに何があるのかわかる。けれど、照らしていない場所については、何もわからない。
そんな当たり前のことを考えながら、成田方面へ向かった。
富谷高校の近くまで来ると、イチョウ通りに入った。昼間なら、車や人の往来もあり、周囲の住宅や建物も自然に目に入る道だ。しかし、日付が変わる頃には様子が違っていた。
街灯の明かりは途切れずに続いている。それでも、その光が届かない場所には濃い影が残っていた。道路脇の木々は黒い輪郭となり、枝の重なりまではよく見えない。
遠くから車の音が聞こえた。車が近づくにつれて、ヘッドライトが道路を照らし、周囲の建物や木々を一瞬だけ明るくする。車が通り過ぎると、音は遠ざかり、道は再び静かになった。
自分の足音が聞こえる。
歩くたびに靴底が地面に触れ、衣服がかすかに擦れる。普段なら意識することもない音が、夜の道では妙にはっきりと感じられた。
そのときだった。
道路脇の暗がりに、何かがいることに気づいた。
最初は、落ちている物かと思った。ライトを向けると、そこにいたのはタヌキだった。
タヌキもこちらを見ていた。
自分は足を止めた。タヌキも動かない。ライトの光がその姿を照らしている。夜の道で、互いにどうしたらいいのかわからず、立ち止まってしまったようだった。
「……タヌキか」
思わず声が出た。
もちろん、返事はない。
しばらく見合っていたが、先に動いたのはタヌキだった。道路を横切ると、そのまま向こう側へ走っていった。自分の目には、住宅地と高速道路の間にある崖のほうへ向かったように見えた。
あっという間の出来事だった。
自分はしばらく、その方向を見ていた。
住宅地の近くでタヌキを見かけることはある。イノシシが出没することもあるし、熊もいる。人間が暮らす場所と、野生動物が生きる場所は、きれいに分かれているわけではない。
それでも、実際に夜道でタヌキと出会うと、少し驚く。
昼間なら、見かけてもそれほど気に留めなかったかもしれない。だが、深夜の道で突然出会うと、相手の動きひとつにも意識が向く。
タヌキはどこから来て、どこへ向かったのだろう。
そんな疑問が浮かんだが、答えはわからなかった。
ライトを足元へ戻し、再び歩き始めた。
今の出来事を誰かに説明するなら、夜道でタヌキを見かけた、それだけの話だ。特別なことが起きたわけではない。
けれど、歩いていなければ、あのタヌキには気づかなかっただろう。
車で通り過ぎていたら、ライトに照らされた一瞬の姿さえ見逃していたかもしれない。
自分の歩く速度が遅いからこそ、目に入るものがある。
そう考えながら、先へ進んだ。




