第2話 「ウォーキングからの帰宅」
22時を少し過ぎたころ、自分は家に帰ってきた。
玄関のドアを開けると、家の中から明かりがこぼれていた。外の夜道とは違う、見慣れた光景だった。
「ただいま」
声をかけると、リビングから妻の返事があった。
「お帰り。歩いてきたの?」
「うん。ちょっと時間がかかったけどね」
靴を脱ぎ、上着を掛ける。足には疲れが残っていた。思っていた以上に、身体を使ったらしい。
リビングに入ると、妻はソファに座り、タブレットでYouTubeを見ていた。ときどきスマートフォンを手に取って、ゲームもしている。動画の音と、ゲームの操作音が、部屋の静けさをほどよく埋めていた。
「どうだった?」
妻が画面から目を離して聞いた。
「思ったより疲れたよ」
そこまで答えて、自分は一瞬、言葉に詰まった。
木の幹に浮かんでいた白い線。周囲から消えた音。そして、あの声。
――まだ、向こうへ行くな。
喉のあたりまで言葉が出かかった。
今夜、歩いていたら、妙なことがあったんだ。
そう言えばよかったのかもしれない。
けれど、自分は口を閉じた。
何が起きたのか、自分でもよくわかっていない。妻に話したところで、うまく説明できる気もしなかった。
「まあ、最初だからね。無理しないでね。膝、痛くなったら大変だから」
妻はそう言って、再びタブレットに目を戻した。
「そうだね」
自分はそれだけ答えた。
着替えを済ませ、リビングに戻る。妻の隣に座ると、テレビのリモコンが目に入った。
「テレビ、つけてもいい?」
「いいよ。好きなの見て」
テレビをつけると、ニュース番組が流れ始めた。
交通事故の映像が映っていた。夜の道路に停車した車。赤色灯を回すパトカー。現場の様子を伝えるアナウンサーの声。
続いて、別の地域で起きた事件のニュースに切り替わった。
自分はぼんやりと画面を眺めていた。
画面の向こうでは、誰かの生活を変えてしまうような出来事が起きている。それでも、自分のいる部屋は変わらなかった。妻は相変わらずタブレットを見ていて、動画の音が小さく聞こえている。
外の世界と、家の中。
その違いを、いつもより強く感じた。
自分はソファの背もたれに身体を預けた。足の疲れはまだ残っていたが、座っていると少しずつ落ち着いてきた。
毎日歩く必要はないだろう。無理をして続かなくなるより、休みの日に歩けばいい。
まずは、それで十分だ。
「また歩くの?」
妻がこちらを見た。
「もう少ししたらね。2回戦目」
妻が目を丸くした。
「えっ、まだ行くの?」
「冗談だよ。今日はもう歩かない」
「びっくりさせないでよ」
妻が笑い、自分もつられて笑った。
そんなやり取りをしていると、さっきまで考えていたことが、少し遠くへ引いていくような気がした。
あの声のことは、結局、話さなかった。
話さないと決めたわけではない。ただ、今は言葉にできなかった。
テレビからは、次のニュースが流れていた。妻はまたタブレットを手に取り、自分は画面を眺めながら、これからどこを歩こうかと考え始めた。
次に歩く場所は、まだ決めていなかった。
ただ、歩くことそのものは、思っていたほど悪くなかった。
それだけは、確かだった。




