第1話「最初の夜道」
あの木に浮かんでいた白い線は、何だったのだろう。
音が消えたこと。目の前の景色が変わったように感じたこと。そして、耳元で聞こえた、あの声。
――まだ、向こうへ行くな。
思い出すたびに、あのときの感覚がよみがえる。夢だったと言い切るには、あまりにも生々しかった。かといって、現実に起きたことだと考えるには、説明できない部分が多すぎる。
今は、それよりも歩くことだ。
せっかく始めようと決めたのだから、まずは身体を動かしてみよう。考えるのは、それからでも遅くない。
自宅で、これから歩くコースを3つ考えていた。
1つ目は、夕方から夜にかけて歩くコース。2つ目は、もう少し遅い時間帯に歩くコース。そして3つ目は、夜明け前の空気を感じながら歩くコースだ。
どれも距離は5キロ前後。時間にすれば、およそ1時間を見込んでいる。
もちろん、毎回3つのコースをすべて歩くつもりはない。3回歩ける週もあれば、1回か2回で終わる週もあるだろう。
それでいい。
最初から長い距離を歩く計画を立て、結局、1度も歩かなくなってしまう。それでは意味がない。無理のない範囲で続けることのほうが、ずっと大切だった。
その日の気分や天候に合わせて、好きなコースを選べばいい。
そう考えると、少し気持ちが軽くなった。
時計を見ると、21時を過ぎていた。
「さて、行くか」
上着を羽織り、玄関を出る。
53歳。体重105キロ。運動らしい運動をしなくなってから、もう何年になるだろう。
これから1時間も歩くのかと思うと、正直なところ、少し気が重かった。
それでも、どこかに楽しみもあった。
いつもの車で通り過ぎる道を、自分の足で歩いてみる。普段なら気にも留めないものが、違って見えるかもしれない。知らなかった道の表情に気づくこともあるだろう。
冒険のような気持ちも、年甲斐もなく胸のどこかにあった。
まずは3か月続けてみよう。
そう自分に言い聞かせ、歩き始めた。
自宅を出て、歯科医院とセブン-イレブンの間にある細い歩道へ入った。大通りをそのまま進むこともできたが、最初はこちらを通ることにした。
車で移動しているときには、ただの通り道にすぎない。
しかし、自分の足で歩いてみると、道幅や路面の感触、家々の明かりが気になった。足元に目を落とせば、舗装の継ぎ目や小さな段差も目に入る。
歩くというのは、案外、周囲を見る行為なのかもしれない。
しばらく進むと、バス停があった。
その左手には、水道山と呼ばれる小高い山がある。山の上に大きな水道タンクが設置されていることから、地元ではそう呼ばれていた。
夏になると、一定の期間だけライトアップされる。
夜の山に浮かび上がる巨大なタンクは、普段とは違った姿を見せる。見慣れたものでも、照明の当たり方が変わるだけで、別のもののように見えることがある。
同じものを見ているはずなのに、印象が変わる。
それは、歩いているから気づくことなのだろうか。それとも、いつもより時間をかけて眺めているからなのだろうか。
少し先、国道側には、以前から湧き水があった場所がある。今でも祀られているという。
土地には、人が暮らすよりも前から続いてきた何かがある。
道路ができ、住宅が建ち、店が並ぶ。その一方で、昔からそこにあったものが、今もひっそりと残っている。
特別な意味があると決まったわけではない。
ただ、そこにある。
歩き始めたばかりの自分には、それだけでも少し新鮮だった。
カインズホームの前を通り、イオン富谷の方向へ進む。
この時間帯でも、まだ人が歩いていた。何人かとすれ違ったが、互いに軽く視線を交わす程度で、言葉を交わすことはない。
歩道を歩く人。買い物帰りらしい人。それぞれに目的があり、それぞれの生活がある。
当たり前の光景だった。
それなのに、少し落ち着かなかった。
車に乗っているときには、道路を横切る歩行者を見て、止まるか、進むかを判断する側だった。ところが今は、自分が車の動きを見ながら道を渡らなければならない。
横断歩道の手前で立ち止まる。
左折しようとした車が、自分に気づいて停止した。
渡ればいい。
頭では分かっている。
しかし、すぐに足が出なかった。
車が止まってくれている。ならば渡らなければならない。そう思う一方で、運転手を待たせているような気がして、かえって動きにくくなった。
ようやく歩き出したものの、今度は車の発進を気にしてしまう。
自分でも、何をしているのだろうと思った。
車を運転しているときには、歩行者が渡り終えるのを待つことなど、特別なことではなかった。ところが、歩く側になると、その何でもないやり取りが妙にぎこちない。
長い間、車を中心に移動してきたせいだろう。
歩行者としての感覚が、いつの間にか薄れていた。
国道4号線に近づくころには、身体が少し温まってきた。
最初は肌寒く感じていたのに、歩き続けるうちに、上着の内側に熱がこもっている。立ち止まり、ファスナーを少し下げた。
3月下旬。
昼間に日差しがあっても、夜になれば空気は冷える。季節は確実に春へ向かっているはずなのに、冬の名残はまだ道路の上に居座っているようだった。
国道沿いを歩きながら、車の流れを眺めた。
タイヤが路面を転がる音。交差点で減速するエンジン音。少し離れたところを通り過ぎていく大型車の低い響き。
車の音は絶え間なく続いていた。
その一方で、国道から大清水へ向かう道に入ると、周囲の明るさは急に変わった。
街灯が少なく、道路の先が暗い。
住宅や商業施設が並んでいる場所から少し進んだだけなのに、夜の濃さが違って感じられる。
歩く速度を落とした。
暗い道では、昼間なら意識しないものが目に入る。
道の脇の植え込み。住宅の塀。その向こうに続く斜面。街灯の光が届かない場所。
目を凝らせば何かが見えるような気もするが、実際には、暗がりの中にあるものを確かめようとしているだけだった。
しばらく歩くと、長い階段が現れた。
国道4号線側から大清水へ上がる階段だ。イオン富谷に隣接するこの階段は、下から見上げると、思っていた以上に長く感じられた。
「……心臓破りの階段だな」
思わずつぶやいた。
階段を上る前から、少し嫌な予感がしていた。
しかし、ここまで来たのだから、引き返すわけにもいかない。
最初の1段に足をかける。
2段、3段。
上り始めてすぐに、ふくらはぎが張ってきた。太ももにも、じわじわと重さが広がっていく。
普段なら、何でもない高さの段差だろう。
だが、今の自分にとっては違った。
足を上げるたびに、身体の重さを嫌でも意識させられる。息が少しずつ荒くなり、口から吐く息が夜の冷気に混じった。
まだ半分も来ていない。
そう思った瞬間、上を見上げるのが嫌になった。
1段ずつ上ればいい。
急ぐ必要はない。
そう自分に言い聞かせ、手すりに目を向けながら、ゆっくりと足を運んだ。
途中で、1度立ち止まりたくなった。
いや、もう立ち止まってもいいのではないか。
誰に見られているわけでもない。競争しているわけでもない。無理をして倒れたところで、誰も得をしない。
そんな考えが浮かんだが、もう少しだけ進むことにした。
少しずつ、少しずつ。
ようやく階段を上り切ったときには、息がかなり上がっていた。
立ち止まって呼吸を整える。
胸が大きく上下している。額には汗がにじみ、背中にも熱がこもっていた。夜風が首元に入り込むと、汗ばんだ肌が急に冷たく感じられた。
53歳の身体は、正直だった。
気持ちだけなら、まだまだ歩けると思っている。だが、身体は長い間、まともに運動してこなかった事実を隠してくれない。
苦笑した。
「これは、なかなかだな」
誰に聞かせるでもなくつぶやく。
階段を上っただけで、これほど息が切れるとは思っていなかった。
それでも、少し休むと、気持ちは落ち着いてきた。
目の前に、鷹乃杜の住宅地が広がっていた。
高いところから眺める家々は、普段とは違う印象を与えた。屋根や道路の並びが、まるで模型の町のように見える。ところどころに灯る窓の明かりが、暗い住宅地の中に点々と浮かんでいた。
見晴らしは、思っていたよりもよかった。
いつもなら車で通り過ぎてしまう場所だ。こうして立ち止まり、息を整えながら眺めることはなかった。
同じ場所でも、見る位置が変われば景色は変わる。
そんなことを考えながら、再び歩き始めた。
道路の先には、まだ夜が続いている。
建物の間を抜ける風は、ところどころで向きを変えた。開けた場所では正面から吹きつけ、住宅の陰に入ると、急に弱まる。
風が頬をなでる。
冷たい。
しかし、歩き続けている身体は温まっていた。上着の内側には汗がこもり、背中がじっとりとしている。
寒いのか、暑いのか。
どちらとも言い切れない。
春先の夜は、そんな曖昧さをまとっていた。
富谷第二中学校の方向へ進む。
この辺りは、見覚えのある場所だった。大清水の調整池は、春になると桜が見事に咲く。
毎年、同じ季節に花が咲く。
それは当たり前のことだが、実際にその季節を迎えるまでは、枝先の変化に気づかないことも多い。
今は3月中旬。
桜の花は、まだ咲いていない。
夜の暗さの中では、枝先のつぼみをはっきり確かめることはできなかった。それでも、冬の間ずっと硬く閉じていた枝が、少しずつ春へ向かっている。そんな気配があるように思えた。
風が吹き、枝がかすかに揺れた。
花が咲くまでには、もう少し時間がかかるだろう。
それでも、季節は進んでいる。
調整池の水面に目を向けた。
夜の水面は暗く、周囲の明かりをわずかに映しているだけだった。水辺に生き物の気配は感じられない。
ウシガエルの鳴き声も聞こえなかった。
まだ時期が早いのだろうか。それとも、今夜は鳴いていないだけなのか。
分からなかった。
ただ、静かな池だった。
池の西側、国道4号線に近いところには、雑木林がある。
木々がまとまって生えている一角だ。昼間なら何でもない林でも、夜になると、木の幹や枝が重なり合い、奥の様子が見えにくくなる。
あの木には、しばらく近づかないほうがいい。
そう考えていたはずだった。
それなのに、今、自分はその木がある雑木林のすぐそばまで来ている。
わざわざ見に来たわけではない。歩くコースを決めたときにも、あの木のことを意識していたわけではなかった。
ただ、ここまで歩いてきてしまった。
引き返すほどの理由もない。そう自分に言い聞かせ、雑木林に目を向けた。
あの木があったのは、この雑木林の入口付近だった。
足が、わずかに緩んだ。
木の幹に浮かんでいた白い線。周囲の音が消えた、あの瞬間。そして、聞こえた声。
――まだ、向こうへ行くな。
今夜は、あのときのようなことは起きていない。
風の音も聞こえる。遠くを走る車の音もする。自分の靴が路面を踏む音も、確かに耳に届いていた。
何もおかしなことはない。
そう思いながらも、視線は雑木林からなかなか離れなかった。
あのとき、何を見たのか。
白い線は、本当にそこにあったのか。音が消えたのは、周囲の環境によるものだったのか、それとも自分の感覚に何かが起きたのか。
答えは出ない。
ただ、あの声だけは、簡単に忘れることができなかった。
聞き間違いだったとしても、なぜ、あんな言葉が聞こえたのか。
自分の頭の中で生まれた言葉だったとしても、なぜ、あの瞬間だったのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
いったん視線を外した。
今は、歩くことだ。
自分で決めたことを、まずは続けてみる。
そのとき、道端の植え込みが動いた。
足を止める。
植え込みの陰から、猫が1匹、姿を現した。
白と黒のまだら模様だった。
猫は道の端で立ち止まり、自分をじっと見つめた。逃げるでもなく、近づくでもない。暗がりの中で、丸い目だけがこちらを向いている。
「……何だよ」
小さく声をかけると、猫は耳を動かした。
しばらく見つめ合ったあと、猫はふいに歩き出した。道路を横切り、住宅と住宅の間にある狭い隙間へ、音もなく消えていった。
その後ろ姿を見送った。
猫にとっては、いつもの夜なのだろう。
人間が何を考えていようと、猫は猫の都合で歩き、立ち止まり、またどこかへ行く。
そこに特別な意味を見いだす必要はない。
そう思うと、少し気が楽になった。
再び歩き始めた。
富谷第二中学校の前に差しかかる。
校庭の向こう側には山が広がっている。学校の敷地と山の間には距離があるものの、夜の暗がりの中では、木々がひと続きの黒い壁のように見えた。
この道をまっすぐ戻れば、イオン富谷の方向へ出る。右側には住宅地があり、左側は山になっている。
この辺りでは、カモシカの目撃情報が出ることもある。山が近いのだから、野生動物が姿を見せても不思議ではない。
それとは別に、地元では少し変わった話も知られていた。
ふと、子どものころの出来事を思い出した。
昔、この中学校の前で、全校生徒が一斉に山のほうを指さして騒ぎになったことがあった。
山の中に、傘をさした女性がいる。
生徒たちは、そう言っていたらしい。
校庭にいた大勢の生徒が、そろって山を指さしていた。その話は、子どもだった自分の耳にも入ってきた。
家に帰ってから、母親に話したことがある。
「山に、傘をさした女の人がいたんだって」
母親は、特に驚いた様子もなく答えた。
「狸だね」
あまりにもあっさりした返事だった。
自分は、そのとき何と答えたのか覚えていない。
母親が本気でそう思っていたのか。それとも、子どもの話を適当に受け流しただけなのか。
今となっては分からなかった。
そもそも、山にいたものが何だったのかも分からない。
生徒たちが見たという女性は、本当に人間だったのか。遠くにいた何かを、そう見間違えただけなのか。あるいは、話が広がるうちに、元の出来事とは違うものになっていったのか。
当時の自分は、そんなことを考えもしなかった。
ただ、全校生徒が一斉に山を指さしていたという話と、母親の「狸だね」という言葉が記憶に残っていた。
人は、目の前にあるものを見ている。
しかし、見たものが何なのかは、必ずしも同じようには理解しない。
同じものを見ても、ある人は人間だと思い、別の人は動物だと思う。
見間違いなのか。何かを見落としているのか。それとも、見たものを説明するために、自分が知っている何かに当てはめているだけなのか。
考え始めると、いくつもの可能性が浮かんだ。
あの木の白い線も、消えた音も、聞こえた声も。
自分が見たものと、自分がそれをどう解釈したかは、分けて考えたほうがいいのかもしれない。
見たという事実と、それが何だったのかという判断は、同じではない。
そう考えたところで、答えが出るわけではなかった。
それでも、今までなら気に留めなかったことを、こうして思い返している。
歩くというのは、妙なものだ。
車で通り過ぎていたときには、風景はただ流れていくだけだった。ところが、自分の足で進んでいると、何かを見つけるたびに立ち止まり、考える時間が生まれる。
そして、考え始めると、今まで気にも留めなかった記憶まで引き出されてくる。
それが歩くことの効果なのか。
それとも、夜という時間がそうさせるのか。
まだ、分からなかった。
ただ、今夜の道は、思っていたよりも長かった。
足が重い。
階段を上ったときに張ったふくらはぎは、まだ完全には戻っていなかった。太ももの奥にも疲労が残っている。歩き始めたころには気にならなかった靴の感触も、少しずつ意識に上ってきた。
背中には汗が残っていた。
風が吹くと、上着の内側が冷える。歩けば身体が温まり、立ち止まれば汗が冷たくなる。
もう少し歩けそうだ。
しかし、これ以上無理をする必要もない。
最初から、速く歩くつもりはなかった。誰かと競争しているわけでもない。大切なのは、明日も歩ける状態で帰ることだ。
足元を見た。
歩く。
ただ、それだけのことが、思っていた以上に身体にこたえていた。
だが、同時に、いつもの道が少し違って見え始めていた。
道路の暗さ。住宅の明かり。山の輪郭。風の向き。池の静けさ。
どれも、以前からそこにあったものだ。
変わったのは、風景ではない。
自分のほうなのかもしれない。
そう考えた。
それもまた、1つの解釈にすぎない。
歩き始めたばかりの今、何かを結論づける必要はなかった。
まずは、続けてみよう。
3か月。
その間に、何が見えてくるのか。
夜道を進む。
まだ、答えは何もなかった。
ただ、歩き始める前と同じ夜には、もう見えなかった。




