第3話 歩く準備
午後4時を少し過ぎたころ、目が覚めた。
部屋の中は薄暗かった。カーテンの隙間から、午後の光が細く差し込んでいる。外からは車の走る音が聞こえていた。
「……やっぱり、休みでも起きる時間は変わんないな」
独り言をこぼし、布団から起き上がった。
53歳。夜に働く生活を続けていると、休日だからといって、簡単に生活のリズムを変えられるものではない。夜勤明けに帰宅し、朝に眠り、午後に起きる。仕事の日も休みの日も、その繰り返しだった。
ただ、今日はいつもと少し違う。
歩くと決めていた。
朝、仕事から帰ってきたとき、妻とそんな話をした。
「今日は休みだったよね?」
「ああ、そうだよ」
「じゃあ、ゆっくりできるね」
「いや、歩くよ!」
「おっ!」
思いがけない返事だったのか、妻は少し驚いた顔をした。
どのくらい歩くのかと聞かれたが、まだ決めていなかった。最初から遠くまで行くつもりはない。まずは家の周りを歩いてみる。それくらいの考えだった。
「無理しないでね」
「わかってるよ。最初から飛ばしても、続かなかったら意味ないからな」
「転ばないでね。歩くんだから」
妻の言い方が、少しおかしかった。心配しているのか、からかっているのか、よくわからない。それでも、気にかけてくれているのは伝わってきた。
妻は午後3時からスーパーで働いている。朝の会話を終えたあと、自分はそのまま眠った。妻は午後3時に仕事へ出かけたはずだ。
目を覚ました今、家の中に妻の姿はない。
台所には、食事が用意されていた。ありがたいと思いながら、それを温めて食べる。特別なことをしたわけではない。いつもと同じ休日の午後だった。
食事を終えると、少しだけ迷った。
本当に、今日から歩くのか。
迷いがなかったわけではない。
けれど、始めると決めたのは自分だった。
105キロという数字を見て、膝のことも考えた。すぐに何かが変わるとは思っていない。それでも、何もしないままでは、何も変わらない。
まずは歩く。
それだけだ。
着替える前に、窓の外を見た。
春の光が、住宅地の屋根や道路を照らしている。特別に美しい景色というわけではない。普段から見慣れた街だ。
それでも、今日は少し違って見えた。
これからは、この街を自分の足で歩くことになる。
そう考えると、どこから始めようかという興味が、少しずつ湧いてきた。
ただ、その前に予定が1つあった。
午後6時、いつもの床屋を予約している。
歩くのは、そのあとでもいい。
*
着替えながら、服装を考えた。
登山をしていたころは、身につけるものに気を使っていた。汗を逃がすベースレイヤー、保温するミドルレイヤー、風や雨を防ぐアウター。季節や天候、行動時間によって組み合わせを変える。
山では、装備の選択が快適さだけでなく、安全にも関わる。
しかし、今日歩くのは近所だ。
本格的な登山をするわけではない。天候を確認し、歩きやすい服と靴を選べばいい。最初から道具にこだわりすぎる必要もなかった。
そう考えると、準備は簡単だった。
スマートフォンと財布を確認し、外へ出る支度をする。
玄関を出る前に、ふと地図のことを思い出した。
富谷市には、普段から車で通る道がいくつもある。大清水、鷹乃杜、富ケ丘。車なら何度も走った場所だ。
けれど、歩くとなれば話は違う。
道路の傾斜。歩道の幅。街灯の位置。道沿いの草木。
車で通り過ぎるだけでは、気づかないものもあるだろう。
そんなことを考えながら、玄関の鍵を閉めた。
*
午後6時、床屋に入った。
ドアを開けると、聞き慣れたハサミの音が耳に入った。整髪料のほのかな匂いも、いつもと変わらない。店主とは、もう長い付き合いになる。
挨拶を交わし、いつもの椅子に座ると、仕事の話になった。
「今日は休みですか?」
「ああ。夜勤だから、昼間はだいたい寝てるけどな」
「夜勤も大変ですね」
「まあ、慣れたよ」
そんな何気ない会話をしながら、髪を切ってもらう。
ハサミが髪を切る音を聞いていると、自然と気持ちが落ち着いてきた。いつもと同じ店。いつもと同じ店主。何も変わらない時間だった。
途中、店主が聞いた。
「そういえば、最近、この辺りを歩く人が増えた気がするんですよ」
「歩く人?」
「ええ。夕方から夜にかけて、前より見かけるようになりました」
「健康のためじゃないか。今日から少し歩こうと思ってるんだ」
そう答えると、店主は笑った。
「いいじゃないですか。体を動かすのは大事ですからね」
「まあ、まずは続けられるかどうかだな」
「それが1番ですよ」
会話は、そこで終わった。
店主の言葉に、特に引っかかるものはなかった。歩く人が増えたというのなら、そうなのだろう。健康のために歩く人がいても、不思議ではない。
やがて散髪が終わった。
代金を払い、礼を言って店を出る。
外は、すでに夕方の色に変わり始めていた。
帰り道を歩きながら、ふと思った。
せっかく外に出たのだから、少し歩いて帰ろう。
遠くまで行く必要はない。初日から無理をするつもりもなかった。いつもの道を、いつもより少しだけゆっくり歩けばいい。
そうして、歩き始めた。
*
最初は、何も変わったことはなかった。
車が通り過ぎる。住宅地から人の話し声が聞こえる。どこかの家から、テレビの音らしきものが漏れていた。
見慣れた街の、いつもの夕方だった。
歩いてみると、普段は気に留めないものが目に入る。道路脇の草木や、家の塀、歩道のわずかな傾斜。車なら気にも留めずに通り過ぎる場所なのに、歩くと妙に細かなところまで見えてくる。
なるほどな。
そんなことを思いながら、足を進めた。
そのとき、道沿いの木が目に入った。
特に大きな木ではなかった。住宅地の一角に立つ、どこにでもありそうな木だった。
ただ、幹に白い筋があった。
最初は、樹皮が剥がれているのかと思った。
白い筋は、幹の表面を縦に走っていた。自然にできた傷にも見える。塗料が付着したようにも見えた。
立ち止まり、少し近づいてみる。
なんだ、これ。
そう思って目を凝らした。
その瞬間だった。
音が、遠ざかった。
車の走る音が、急に小さくなった。
人の声も聞こえない。
風の音も。
さっきまで確かにそこにあったはずの音が、1つずつ、どこかへ消えていく。
気のせいかと思い、周囲を見回した。
誰もいないわけではない。道路も、住宅も、さっきまでと同じ場所にある。
なのに、何かがおかしかった。
静かすぎる。
自分の呼吸だけが聞こえていた。
白い筋に、もう1度目を向ける。
動いた。
そう見えた。
いや、木の幹に刻まれた白い筋が、本当に動いたのかどうかはわからない。
ただ、さっきまでとは違って見えた。
白い線が、幹の奥へ続いている。
表面にあるはずのものが、そこだけ深く沈み込んでいるようだった。
そして、その向こうに、暗い空間が見えた。
木の向こう側に、何かがある。
そう思った。
足が動かなかった。
息を吸おうとしたが、胸の奥が妙に重い。
何かを確かめなければならない。
そんな気持ちが、わずかに湧いた。
けれど、次の瞬間。
「……まだ、向こうへ行くな」
声が聞こえた。
低いとも、高いとも言えない。
男の声なのか、それとも別の何かなのかもわからなかった。
ただ、確かに聞こえた。
自分は、その場に立ち尽くしていた。
心臓が強く打っている。
足に力が入らなかった。
目の前の木から、視線を外せない。
向こうへ行くな。
その言葉が、頭の中に残った。
何のことだ。
どこへ行くなというのだ。
そもそも、誰が話しかけてきたのか。
考えようとしても、考えがまとまらなかった。
やがて、遠くから車の走る音が聞こえた。
風が吹いた。
住宅地のどこかで、人の声がした。
周囲の音が戻っていた。
自分は、ゆっくりと息を吐いた。
木は、そこに立っていた。
幹には、白い筋がある。
それだけだった。
暗い空間など、どこにも見えない。
「……なんだったんだ、今の」
声に出してみた。
自分の声が、妙に頼りなく聞こえた。
もう1度、木を見た。
白い筋は動かなかった。
さっきと同じ、ただの木に見える。
それでも、近づく気にはなれなかった。
自分は、木から目を離し、来た道を戻った。
歩きながら、何度も振り返りそうになった。
けれど、振り返らなかった。
理由は、自分でもわからなかった。
ただ、あの場所に戻ってはいけない。
そんな気がしていた。
*
家に着くころには、辺りはすっかり夕暮れになっていた。
玄関の鍵を開け、家に入る。
妻は、まだ仕事から帰っていない。
いつもと変わらない家だった。
靴を脱ぎ、上がり框に立ったまま、しばらく動けなかった。
さっきの声が、耳の奥に残っている。
「……まだ、向こうへ行くな」
もう1度、頭の中で繰り返した。
向こうとは、どこなのか。
なぜ、まだなのか。
あの声は、何を知っていたのか。
答えは何もなかった。
ただ、あの木の白い筋だけが、妙にはっきりと思い出された。
自分は靴を揃え、家の中へ入った。
今日から始めたウォーキングは、健康のためだった。
それ以外の理由など、何もなかったはずだ。
けれど、あの道で見たものを、ただの見間違いだったと片づけることはできなかった。
しばらくは、あの木に近づかないほうがいい。
そう思った。
そして、そのことを誰かに話すべきかどうかも、まだ決められなかった。
第3話 了




