第6話 思い出せないもの
成田せせらぎ緑道を流れる水の中に、一枚の葉っぱが浮かんでいた。
水の流れに乗って、ゆっくりと下っていく。
ところが、途中にあった石に引っかかってしまった。
葉っぱは水に押され、石の脇でくるりと回った。少し進んでは戻り、また回る。しばらく同じ場所を漂っていたが、やがて流れが変わり、石から離れて下流へと流れていった。
「ずいぶん迷っていましたね」
私は、その葉っぱに声をかけた。
もちろん、返事はない。
水は何事もなかったように流れ続けていた。
私は水面に目を向けたまま、少し前に耳にした話を思い出していた。
十月三十日。
熊が一頭、捕獲されたという。
人間たちの会話には、その話題が出ていた。場所や状況について、いくつかの情報が交わされていたが、私が知りたかったことは分からなかった。
その熊は、どこを歩いていた熊なのだろう。
イオイ――人間たちが日吉台と呼んでいる辺りなのか。
それとも、アーオイ――鷹乃杜と呼ばれている辺りなのか。
どちらの地域で目撃されていた熊なのか、私には分からなかった。
人間たちの記録には、捕獲されたという事実が残る。
しかし、その熊がどの道を通り、どこで水を飲み、誰と出会っていたのかまでは、記録されない。
一頭の熊がいなくなった。
それは確かな出来事だった。
私は、その熊を止めることができなかった。
いや、止めようともしなかった。
人間にも、熊にも、それぞれの事情がある。人間の暮らしを守らなければならないことも分かっている。
だからといって、何も感じないわけではなかった。
捕獲された熊が、その後どうなったのか。
私は知らない。
知ることができないまま、いつもの水の流れを見ていた。
「おう。神様か」
声がした。
見上げると、近くの枝にカラスが止まっていた。
「こんにちは。今日はどうしました?」
「どうしたもこうしたもない。ちょっと森の様子を見てこようと思ってな」
「そうですか」
「お前は何をしている?」
「少し考え事をしていました」
「珍しいな。いつも考えているように見えるぞ」
「それは失礼ですね。私だって、何も考えずに過ごす時間くらいありますよ」
「本当か?」
「本当です」
カラスは首を傾けた。
「まあいい。森へ行くんだろう? 俺も行く」
「ついてきても、面白いことがあるとは限りませんよ」
「面白いことがあるかどうかは、行ってみないと分からん」
「なるほど。なかなかよい考えです」
カラスは翼を広げ、私より先に飛び立った。
*
森に入ると、湿った土の匂いがした。
前日に降った雨が、まだ地面に残っているのだろう。
落ち葉は水を含み、踏めば柔らかく沈む。木の枝には小さな水滴が残り、風が吹くたびに、葉の間からぽつり、ぽつりと落ちていた。
鳥の声が聞こえる。
少し離れたところでは、何かが草を踏む音がした。
森は、いつもと変わらないように見えた。
けれど、少し奥へ進むと、一頭の熊が立ち止まっていた。
熊は、目の前の地面を見ていた。
そこには、以前から使われていたらしい獣道があった。
土の上には、かすかに踏み固められた跡が残っている。草が倒れ、木の根元には、何度も身体を通したような痕跡があった。
しかし、その先には倒木が横たわっていた。
周囲には土が盛られ、以前のように通り抜けることはできそうになかった。
熊は鼻を地面に近づけた。
何度か匂いを確かめ、少し横へ移動する。
それから、もう一度、倒木の向こうを見た。
「ここは、前に通った道だ」
熊が言った。
「そうなのですか」
私は、少し離れたところから声をかけた。
熊は私の方を見た。
「前は、ここを通れた。向こうへ抜けられたんだ」
「今は通れないようですね」
「そうだな。木が倒れている。それに、土も変わっている」
熊は地面を前足で軽く掻いた。
湿った土が崩れ、小さな塊になって転がった。
「いつから、こうなったんです?」
私が尋ねると、熊はしばらく黙っていた。
鼻を動かし、倒木の周囲を確かめる。
「分からない」
「覚えていないのですか?」
「前に通ったときは、通れた。それは覚えている。だが、いつから通れなくなったのかは分からない」
熊は、もう一度、倒木を見た。
「前は、ここを通れば向こうへ行けたんだ」
それ以上、熊は何も言わなかった。
以前ここを通ったときの匂いも、土の感触も、身体を通したときの木々の間隔も覚えているのだろう。
しかし、いつから景色が変わったのか。
その変化が、どのように起きたのか。
熊には分からないようだった。
前とは変わり、迷っているらしい。
私はそう受け取った。
熊は、倒木の脇を探し始めた。
身体を横にして、枝の隙間を覗き込む。何度か鼻を近づけたが、通れそうな場所は見つからなかった。
「別の道を探すしかないですね」
私が言うと、熊は短く鼻を鳴らした。
「そうする」
熊は振り返り、来た道を戻っていった。
その背中を見送りながら、私は思った。
道がなくなることは、熊にとって、ただ通れなくなるというだけではないのだろう。
そこには、以前の匂いが残っている。
身体が覚えている感触もある。
けれど、その先に何があったのか、いつから変わったのか、すべてを思い出せるわけではない。
道は、そこにあった。
それでも、もう同じ道ではなかった。
*
少し歩くと、今度はタヌキがいた。
落ち葉を鼻先で押しのけ、地面をしきりに嗅いでいる。
ときどき前足で土を掘り、小さな虫を探しているようだった。
「何を探しているのです?」
私が声をかけると、タヌキは顔を上げた。
「食べるもの」
「それは見れば分かりますよ」
「なら、聞くなよ」
「これは失礼しました」
タヌキは、また地面に鼻を近づけた。
「神様も食べ物を探すのか?」
「私は必要ありません」
「つまらんな」
「そうですか?」
「食べるものを探すのは楽しいぞ」
「それはよかったですね」
タヌキは、私の返事など気にしていない様子だった。
落ち葉を掻き分け、土の中から何かを見つけると、口にくわえて食べ始めた。
しばらくして、タヌキは別の場所へ移動した。
そこには、少し窪んだ地面があった。
「ここも、前と違う」
タヌキが言った。
「何が違うのです?」
「水があった」
タヌキは、窪みの中を覗き込んだ。
「雨が降ると、ここに水がたまった。土も柔らかかった」
「今は違いますね」
「そうだ。水が少ない。土も固い」
タヌキは前足で地面を掻いた。
表面の土が少し剥がれたが、以前のような柔らかさはなかった。
「いつから変わったのです?」
「知らん」
「覚えていないのですか?」
「前は、ここに水があった。それだけだ」
タヌキは、窪みから離れた。
そして、少し先にある落ち葉の下を探し始めた。
「まあ、食べるものがあればいい」
「ずいぶん割り切っていますね」
「腹が減るからな」
私は思わず笑った。
タヌキにとって、以前の場所がどう変わったのかを考え続けることに意味はないのだろう。
水がなくなれば、別の場所を探す。
食べ物がなければ、また別の場所へ行く。
そうやって、今日を過ごしている。
それは、決して何も覚えていないということではない。
以前の匂いも、水の流れも、身体で知っている。
ただ、そのすべてを言葉にして説明する必要がないだけなのだ。
*
枝の上から、カラスの声が聞こえた。
「おい、ちょっと聞いてくれ」
近くにいた鳥たちが、枝から枝へと移動した。
少し離れた場所にいたタヌキも、顔を上げた。
カラスは、周囲を見回してから話し始めた。
「森の外で、イオウたちが騒いでいたぞ」
「何があったんだ?」
別のカラスが尋ねた。
「詳しいことは分からん。ただ、いつもと違う匂いがしていた。人の気配も多かった」
「熊のことか?」
「そうかもしれん」
カラスは、少し離れた木の枝に移った。
「どこの熊かなんて、俺にも分からん。そもそも、森の外で何があったのか、全部見ていたわけじゃないからな」
「そうだろうな」
タヌキが、地面から顔を上げた。
「それで、道はどうなる?」
「道?」
「熊が通っていた道だ」
カラスは、少し考えるように首を傾けた。
「道は残っているだろう」
「なら、別の熊が通るかもしれないな」
「そうかもしれない」
タヌキは、再び地面に鼻を近づけた。
話はそれで終わった。
鳥たちは、それぞれ別の枝へ移り、カラスも飛び立っていった。
森の中に、いつもの音が戻ってきた。
風が葉を揺らす。
どこかで小枝が折れる。
地面を歩く小さな動物の足音が聞こえる。
熊の捕獲は、人間にとっては大きな出来事だったのだろう。
記録にも残る。
誰かが調べ、誰かが報告し、数字として整理される。
しかし、森の時間は、それだけで止まるわけではない。
捕獲された一頭の熊が、もう森を歩くことはない。
それでも、ほかの熊たちは歩いている。
タヌキは食べ物を探し、カラスは空を飛ぶ。
以前の道を覚えているものもいれば、そこが変わったことに気づいているものもいる。
そして、いつから変わったのか、何があったのかを思い出せないものもいる。
私は、森の中を見渡した。
人間の記録に残る出来事と、動物たちが身体で覚えている出来事。
そこには、同じ時間を過ごしていても、違うものが見えている。
どちらか一方だけが正しいというわけではない。
ただ、それぞれが見ているものは違うのだ。
水の流れる音が聞こえた。
私は、その音のする方へ歩き始めた。
森には、まだ私の知らない道がいくつも残っている。
思い出せる道もあれば、思い出せない道もある。
そして、その先には、まだ誰も知らない道が続いているのかもしれなかった。




