第5話 白い木の年輪
林に入ると、風の音が変わった。
住宅地の方から吹いてきた風は、木々の枝に触れ、葉の間を抜けるうちに、少しずつ形を変えていく。開けた場所では頬を押すように吹いていた風が、林の中では細くなり、幹の陰をすり抜け、足元の草を揺らしていた。
私は歩みを止めた。
湿った土の匂いがする。
昨日まで降っていた雨が、落ち葉の下にまだ残っているのだろう。腐葉土の甘い匂いに、濡れた樹皮の匂いが混じっていた。少し離れた場所からは、水の流れる音も聞こえる。細い流れが石に当たり、葉の裏を濡らしながら、低いところへ向かっていた。
ここは、住宅地と山の境界に近い林だ。
人間の暮らしがすぐそばにある。けれど、少し奥へ入れば、街の音は薄くなる。車の走る音も、遠くから聞こえるだけだ。
私は白い木のところへ向かった。
何度も気にかけていた場所だった。
水の流れに異変があった。地中に残る古い根のそばで、白い糸のようなものを見た。水の中では、年輪にも似た線を持つ白い欠片を見つけた。
それぞれが関係しているのかもしれない。
しかし、同じものだと決めることはできない。
私は、そう考えながら歩いてきた。
木々の間が少し開けた。
そこに、白い木が立っていた。
最初に目に入るのは、やはり幹の色だった。
周囲の木々とは違う。白い、といっても、雪のような真っ白ではない。淡い灰色を含み、ところどころに薄い褐色が浮かんでいる。光の当たり方によっては、古い骨のようにも、長い年月を経た石のようにも見えた。
幹は決して細くない。
枝は大きく広がり、幾つもの方向へ伸びている。葉は風を受けて揺れていた。葉の表面が光を返し、裏側が一瞬だけ見える。その繰り返しが、木全体をゆっくり呼吸させているようだった。
私は近づいた。
足元には、細かな枝や葉が積もっていた。湿った落ち葉を踏むと、柔らかな音がした。土は少し沈み、靴底に水分が伝わってくる。
幹の前に立つ。
手を伸ばし、樹皮に触れた。
冷たい。
表面は滑らかではなかった。細かな凹凸があり、指先を動かすと、浅い溝がいくつも続いている。乾いた部分と湿った部分があり、ところどころに苔が薄く付いていた。
私は手のひらを幹に当てた。
木は何も言わない。
少なくとも、私の耳には言葉として届かなかった。
ただ、そこに立っている。
風が吹く。
枝が揺れ、葉が擦れ合う。
その音の奥に、私は何かを感じた。
水の流れを見ているときとは違う。山の土に触れているときとも違う。木の内部にあるものを、外側から眺めているような感覚だった。
私は目を閉じた。
木は、時間を生きている。
春には芽を出し、夏には葉を広げ、秋には葉を落とす。冬には枝を休ませる。雨を受け、風に揺られ、雪の重さに耐える。強い日差しを浴びる年もあれば、長雨に悩まされる年もある。
その年ごとの環境は、成長の違いとして幹の内側に刻まれていく。
年輪。
人間は、それを読む。
木がどれほどの時間を生きたのか。どの年に成長がよく、どの年に厳しい環境を経験したのか。年輪は、木が過ごしてきた時間の記録になる。
私たち神にとっても、それは特別なことではない。
木に残された時間を感じ取ることは、珍しい仕事ではなかった。長く生きた木ほど、そこに刻まれた季節や環境の変化も多い。木に触れれば、雨や風、寒さや暑さの痕跡を感じることがある。
それは、この木だけにできることではない。
けれど、私は以前から、この白い木のことが気になっていた。
木の記録を読むことが特別なのではない。
この木に触れたとき、私が感じるものが、いつもの木とは違っていた。
木が育った時間だけではない。
この場所で生きてきたものたちの気配。ここを通り過ぎたものたちの痕跡。そして、この場所だけでは生まれなかったはずの何か。
それらが、幹の奥で重なっているように感じられる。
私は手を離さずにいた。
すると、風が止まった。
いや、止まったように感じただけかもしれない。
葉の揺れが小さくなり、遠くの水音が、急に近くなった。
その瞬間、幹の奥に、幾つもの時間が重なっているような感覚が広がった。
最初に感じたのは、雨だった。
今の雨ではない。
細い雨が長く降り続いている。土は柔らかく、根の周囲には水が集まっている。幹の表面を伝った雫が、根元へ落ちていく。
次に、乾いた風。
葉が少なく、枝が空に向かって伸びている。土は固く、日差しが強い。水を求める根が、地中の深いところへ伸びていく。
さらに別の時間。
雪の重さに枝がしなり、幹が低く軋んでいる。白いものが地面を覆い、音が遠のく。動くものの気配も少ない。
それらは、はっきりした映像ではなかった。
一つの場面が終わると次の場面が始まる、というものでもない。雨と風と雪が重なり、幾つもの感覚が一度に押し寄せてくる。
私は思わず手を離した。
目を開ける。
林は元の姿に戻っていた。
風が吹いている。葉が揺れている。足元では小さな虫が落ち葉の間を動いていた。
今のは何だったのだろう。
木の成長の記録を、私が読み取ったのだろうか。
それとも、木に残っている何かが、私に届いたのだろうか。
分からない。
私はもう一度、幹を見上げた。
枝の先には、まだ緑の葉が残っている。けれど、その葉の一枚一枚が、同じ時間を生きているわけではない。古い枝もあれば、新しく伸びた枝もある。傷ついた場所もあれば、そこを覆うように成長した部分もある。
一本の木の中に、異なる時間が存在している。
それは、私が思っていたよりも複雑なことなのかもしれない。
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私は幹の根元に回った。
土の表面には、太い根が何本も姿を見せていた。
根は地面の中へ潜り、周囲の土を抱えるように広がっている。表面に出た部分は、長い年月の間に少しずつ形を変えたのだろう。ところどころに細かな亀裂があり、その隙間には湿った土が入り込んでいた。
私はしゃがみ込み、根の周囲を確かめた。
白い糸のようなものは、ここからは見えない。
以前見つけたものは、別の場所にあった。古い根のそばに絡みつくように存在していたが、それがこの木につながっているのかどうかは分からない。
私は土に触れた。
指先に、冷たさと湿り気が伝わる。
地上では風が吹き、葉が揺れている。
しかし、地中では別の時間が流れている。
根は土の中を伸びる。水を探し、養分を受け取り、石にぶつかり、別の根と交差する。見えないところで、木は周囲の世界とつながっている。
そのつながりは、どこまで続いているのだろう。
私は地面に耳を澄ませた。
水の音がある。
小さな流れが、土の隙間を通っている。地上からは見えない水が、ゆっくりと移動している。
その水の中に、何かが混じっているような気がした。
言葉ではない。
匂いでもない。
もっと曖昧なものだった。
私は、雨のことを考えた。
雨は、どこから来るのだろう。
この林に降る雨も、すべてがこの土地で生まれた水ではない。
遠い海から蒸発した水が、雲になる。風に運ばれ、いくつもの土地の上を通り、山を越え、やがてここへ降ってくることがある。
遠い国の海から来た水かもしれない。
知らない土地の川や湖から生まれた雲かもしれない。
その水は、長い道のりを経て、この木の葉に触れる。枝を伝い、幹を濡らし、土へ染み込む。根の周囲に集まり、やがて木の内側へ入っていく。
水は、場所を選ばない。
国境も、地図に引かれた線も知らない。
空を渡り、山を越え、姿を変えながら巡っている。
私は、その循環を見てきた。
水がどこから来て、どこへ向かうのか。雨が川となり、地下へ染み込み、また別の場所へ流れていく。その流れは、私たち水の神にとって日々の仕事の一部だった。
けれど、雨を受けるたびに、私は時折、説明のつかない気配を感じることがあった。
雨粒そのものではない。
水の冷たさや量だけでもない。
その雨が通ってきた場所に、何かが残っていたような感覚だった。
乾いた土地の熱。
長く降り続いた雨の重さ。
遠い山に吹いていた風。
知らない土地の空気。
それらが水と一緒に運ばれてきたのかどうか、私には分からない。水は物質として循環している。そのことは知っている。けれど、水が通ってきた場所の何かまで運ぶことがあるのだろうか。
私は、まだ答えを持っていなかった。
ただ、雨が降るとき、いつもとは違う気配を感じることがある。
そして今、白い木の根元に触れていると、そのときの感覚がよみがえってきた。
白い木は、過去の記録だけを受け止めているのではないのかもしれない。
ここに降った雨も。
遠い場所から雲に運ばれ、この土地へ届いた水も。
その水が通ってきた時間も。
白い木は、今も受け止めているのではないだろうか。
私は幹を見上げた。
木は何も語らない。
ただ、葉を揺らしている。
私は以前、白い欠片を見つけている。
その表面には、年輪のような線が刻まれていた。自然にできた模様なのか、それとも別の意味があるのか。あのときも、私は判断できなかった。
だが、今、白い木の前に立っていると、その線が思い出される。
年輪に似た線。
木が過ごしてきた時間を示すような線。
もし、あの欠片がこの木と関係しているのなら。
いや、まだ早い。
私は考えを止めた。
似ているからといって、同じものとは限らない。
自然の中には、よく似た形がいくつもある。水の流れも、根の伸び方も、石に刻まれた模様も、長い時間をかければ似た姿になることがある。
それに、私にはまだ見えていないものが多すぎる。
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そのとき、頭上で羽音がした。
一羽の鳥が枝に止まった。
細い枝がわずかに沈み、鳥は首を傾けてこちらを見ている。しばらくすると、別の枝へ飛び移った。
その向こうから、さらに別の鳥の声が聞こえた。
私は木の周囲を見回した。
動物たちが集まっている。
まだ数は少ない。
林の奥から、小さな足音が聞こえる。落ち葉を踏む音。草をかき分ける音。少し離れたところで、何かが地面の匂いを確かめている。
彼らは、ここへ来ることを知っていたのだろうか。
私は木に手を触れたまま、動物たちの気配を感じていた。
その思いは、ひとつではなかった。
何かを探している。
ここなら安心できる。
あの場所は、もう通れない。
雨の匂いがする。
子どもがいる。
遠くへ行った仲間がいる。
腹が減った。
眠い。
怖い。
懐かしい。
それぞれが、別々の感覚を持っていた。
強いものもあれば、すぐに消えてしまいそうなものもある。長く残るものもあれば、ほんの一瞬だけ浮かんでくるものもある。
私は、それらを一つの言葉にまとめることができなかった。
動物たちの思いは、誰か一人の意思ではない。
同じ場所に集まっているからといって、同じことを考えているわけでもない。
彼らはそれぞれの身体で生き、それぞれの時間を過ごしている。
白い木に集まっているものがあるとしても、それは一つの大きな心ではないのだろう。
いくつもの小さな思いが、重なっている。
それぞれの形を失わないまま。
私は、以前聞いた声を思い出した。
「――まだ、向こうへ行くな。」
あの人間が聞いた言葉だ。
あの声が、どこから来たのか。誰に向けられたものなのか。私には分からない。
私が受け取ったものは、まとまった言葉ではなかった。
個々の叫びだった。
それぞれの思いが、互いに重なり、押し寄せてくる。けれど、その一つ一つを取り出して、誰が何を伝えようとしているのかを確かめることはできなかった。
あの言葉も、その中の一つだったのだろうか。
それとも、まったく別のものなのだろうか。
私は白い木を見上げた。
枝の間から、薄い空が見える。
雲が流れていた。
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動物たちの気配が、少しずつ増えていった。
林の入口に、タヌキが姿を見せた。
すぐには近づかない。
鼻先を動かし、周囲の匂いを確かめている。後ろから、もう一頭が現れた。二頭は互いに短く声を交わし、落ち葉の上を歩いてきた。
少し離れた枝には、カラスが止まっていた。
そのカラスは、林の外側を見ている。住宅地の方角だ。車の音が聞こえるたびに、首を動かしていた。
さらに奥では、小さな動物が草むらを横切った。
彼らは騒いでいない。
誰かが大きな声を上げることもなく、ただ、それぞれの場所に身を置いている。
私は、彼らが白い木に何を求めているのかを考えた。
安心できる場所なのだろうか。
仲間の気配を感じられる場所なのだろうか。
あるいは、ここに来ることで、何かを受け取っているのだろうか。
彼ら自身も、その理由を言葉にできるとは限らない。
ただ、ここへ来る。
ここに立つ。
匂いを嗅ぐ。
風を感じる。
枝の揺れる音を聞く。
それだけで、彼らには十分なのかもしれない。
そのときだった。
風が、林の奥から吹いてきた。
先ほどまでとは違う風だった。
冷たい。
頬を撫でるだけではなく、皮膚の奥へ入り込むような冷たさがあった。木々の葉が一斉に揺れた。枝が擦れ合い、細かな音が林全体に広がっていく。
私は顔を上げた。
白い木の枝が、ゆっくりと揺れている。
しかし、風は強くない。
周囲の木々は、それほど大きく揺れていなかった。
白い木だけが、何かに応えるように枝を動かしている。
私は幹に近づいた。
その表面に、淡い光が浮かんだ。
最初は、光の加減だと思った。
葉の隙間から差し込んだ光が、樹皮の凹凸に反射しているのだろうと。
けれど、違った。
白い幹の表面に、細い線が浮かび上がっていた。
一本ではない。
幾重にも重なった線だった。
細く、淡く、枝の付け根から幹の中心へ向かうように伸びている。線は途中で分かれ、また別の線と交わり、幹の表面に複雑な模様を描いていた。
それは、木の年輪に似ていた。
しかし、普通の年輪とは違う。
木の断面に見える同心円ではない。
幹の表面に、時間そのものが浮かび上がっているようだった。
私は息をのんだ。
線の一つが、ゆっくりと明るくなった。
その瞬間、視界が変わった。
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そこには、今とは違う林があった。
まだ、住宅地の明かりはない。
道路の音も聞こえない。
林は今よりも広く、木々は密集していた。地面には落ち葉が厚く積もり、湿った土の匂いが強く漂っている。
大きな木が立っていた。
白い木ではない。
もっと太く、もっと大きな木だった。
幹は空へ向かって伸び、枝は周囲の木々を覆うように広がっていた。
その木の根元には、いくつもの命があった。
小さな足音。
土を掘る音。
枝を踏む音。
鳥の羽ばたき。
水の流れる音。
木の根元を通り抜けるものがいる。幹の陰で休むものがいる。枝の上から地面を見下ろすものがいる。
そこには、今とは違う暮らしがあった。
誰も、その場所を特別な名前で呼んでいない。
道があり、通り道があり、隠れる場所があり、水を飲む場所がある。
生き物たちは、そこを知っていた。
毎日、同じように通るわけではない。
季節によって変わる。
雨が降れば道を変える。
雪が積もれば、別の場所を通る。
食べ物があれば集まり、危険があれば離れる。
その繰り返しの中で、場所は少しずつ記憶されていく。
木の根元には、いくつもの匂いが残っていた。
土に染み込んだ雨。
乾いた葉。
動物の体温。
樹皮に擦れた毛。
折れた枝。
そして、長い時間の中で、誰にも気づかれずに消えていったものたちの気配。
私は、その光景を見ていた。
いや、見ていたというより、そこにあったものを感じ取っていた。
それは、映像のように整った記録ではなかった。
音だけが届くこともある。
匂いだけが残ることもある。
冷たさや温かさだけが、突然、胸の奥に広がることもある。
その一つ一つに、時間があった。
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景色が変わった。
人間がいた。
大きな木の周囲に、人間たちが集まっている。
何人かが木を見上げていた。
手には道具がある。
木の根元には、落ち葉が寄せられ、周囲の草が踏み固められていた。
人間たちは、何かを話している。
その声は、はっきりとは聞こえなかった。
ただ、木を見上げる顔があった。
手を合わせる者がいた。
幹に触れる者がいた。
木の下に立ち、しばらく動かない者もいた。
何を願っていたのだろう。
無事を祈ったのか。
帰ってこない誰かを待っていたのか。
病気が治ることを願ったのか。
あるいは、ただ、そこに木があることに感謝していたのか。
私には分からない。
その思いは、動物たちのものとは違っていた。
人間の言葉や形を持っていたようにも感じる。
しかし、言葉として残っているわけではなかった。
誰かの祈り。
誰かの願い。
誰かの悲しみ。
それらが木に残っているのだろうか。
私は、そう考えた。
けれど、それが動物たちの念と同じ仕組みで残っているとは限らない。
同じ場所に重なっているだけなのかもしれない。
人間の思いと動物の思い。
木の成長の記録と、そこに生きたものたちの記憶。
それぞれは別のものなのに、長い時間の中で、同じ場所に存在している。
そして、そこには雨も降っていた。
人間が木の下に立っていた日にも、雨は降ったのだろう。
誰かが祈った日にも、誰かが悲しんだ日にも、季節は巡り、雲は流れ、雨は地面を濡らした。
その雨がどこから来たのか、そこにいた者たちは知らなかったかもしれない。
遠い海から来た水もあっただろう。
別の土地を通り過ぎてきた雲もあっただろう。
雨は、誰かの願いとは関係なく降る。
けれど、その場所に降った雨は、確かにその場所の土に染み込み、木の根に届いた。
人間の思いが残ったかどうかは分からない。
動物たちの念がどう重なったのかも分からない。
ただ、雨は降り続けていた。
木は、それを受け止めていた。
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再び景色が変わった。
大きな木が、倒れていた。
地面には、切り株が残っている。
周囲には、木を切った人間たちがいた。
枝が運ばれ、幹が分けられていく。
木があった場所に、空が広がっていた。
それまで枝に遮られていた光が、地面に直接届いている。
風の通り方も変わった。
土の乾き方も変わった。
木の根元にあった匂いが、少しずつ薄れていく。
私は、その場に立ち尽くした。
あの大きな木は、もうない。
人間が切った。
それは、人間にとっては木を伐採したという出来事なのだろう。
木材を得るためだったのか。土地を使うためだったのか。別の理由があったのか。私は知らない。
けれど、そこに暮らしていたものたちにとっては、違う出来事だった。
木陰がなくなった。
隠れる場所がなくなった。
風の通り道が変わった。
いつも通っていた場所の匂いが変わった。
そこにいたものたちは、別の場所へ移動した。
戻ってきたときには、もう以前の木はなかった。
その変化を、人間はどこまで知っていたのだろう。
私は、倒れた木の近くに目を向けた。
土の上に、小さなものが落ちていた。
種だった。
大きな木から落ちた種。
それは土の中に入り、長い時間をかけて芽を出した。
雨を受け、光を浴び、根を伸ばした。
周囲の草に埋もれそうになりながらも、少しずつ成長していく。
雨が降る。
土が濡れる。
水が根の周囲に集まる。
その水の中には、遠い場所から運ばれてきたものもあったのだろう。
風が吹き、雲が流れ、また雨が降る。
小さな芽は、そうした季節をいくつも越えていった。
そして、そこに新しい木が生まれた。
現在の白い木だった。
私は目の前の幹を見た。
この木は、あの大きな木そのものではない。
切られた幹が、そのまま残っているわけでもない。
別の命だ。
けれど、あの木から落ちた種が、今ここに立っている。
命は、同じ形のまま続くとは限らない。
失われたもののすべてが戻るわけではない。
それでも、何かが残り、別の形で生き続けることがある。
この木は、その一つなのだろう。
私は幹に触れた。
さきほどよりも、少しだけ温かく感じた。
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そのとき、空気が変わった。
風が止まったわけではない。
けれど、林の中を通る風が、どこか遠くへ引いていくようだった。
鳥の声が途切れた。
枝の揺れる音も、少しずつ小さくなる。
私は白い木を見上げた。
枝の先に、淡い色が見えた。
最初は、葉の色が変わったのかと思った。
しかし、そこには花があった。
一輪。
二輪。
それが、枝のあちこちに広がっていく。
桜だった。
白い花びらが、枝いっぱいに開いていた。
満開だった。
季節は違う。
周囲の木々には、まだ花など咲いていない。林の空気にも、春の暖かさはない。頬に触れる風は冷たく、足元の土は湿っている。
それなのに、白い木には桜が咲いていた。
花びらは風に揺れている。
一枚が枝から離れた。
ゆっくりと落ちる。
しかし、地面には届かない。
途中で消えた。
次の花びらも、また一枚。
それは、物理的にそこに咲いている花とは違うのかもしれない。
私はそう感じた。
これは、景色なのだろうか。
記録なのだろうか。
それとも、誰かに何かを知らせるためのものなのだろうか。
木の周囲にいた動物たちは、騒がなかった。
タヌキが顔を上げている。
カラスは枝に止まったまま、花を見ていた。
少し離れたところにいた動物も、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
誰も逃げない。
誰も驚いて走り回らない。
彼らは、花を見ていた。
その表情や仕草から、何かを感じ取っていることは分かる。
懐かしさ。
安心。
あるいは、遠くにあるものを思い出すような気配。
けれど、彼らが何を受け取っているのか、私には分からなかった。
花びらが、もう一枚落ちた。
今度は、地面に近いところまで降りてきた。
その瞬間、林の中に、いくつもの思いが広がった。
懐かしい匂い。
かつて通った道。
誰かの足音。
雨上がりの土。
暖かい日差し。
失われた場所。
戻ってこない仲間。
それらは、一つずつ現れては消えた。
誰かの記憶なのか。
誰かの願いなのか。
あるいは、木に残った記録が、動物たちの念に触れているのか。
私には分からない。
ただ、白い木の周囲に、長い時間が集まっているようだった。
そして、その時間は、今ここにいるものたちだけのものではない。
もう姿を見せないものたち。
ここを通り過ぎたものたち。
かつてこの林で生き、どこかへ移動し、やがていなくなったものたち。
彼らのすべてが、ここに残っているわけではないだろう。
けれど、何かが残っている。
そう感じずにはいられなかった。
そのとき、私はもう一つのことに気づいた。
花の向こうに、雨の気配があった。
今、降っているわけではない。
雲も、林の上を静かに流れているだけだった。
それなのに、幹に触れた手のひらに、雨粒の冷たさがよみがえった。
この場所に降った雨だけではない。
遠い海から来た水。
知らない土地の上を通り、風に運ばれ、長い時間をかけてここへ届いた水。
その雨もまた、この木に触れてきた。
動物たちがここで過ごした時間と同じように。
人間がこの木の下で祈った時間と同じように。
誰にも気づかれずに降り、土に染み込み、根へ届いていた。
白い木は、過去のものだけを受け止めているのではない。
今も、受け止めている。
ここにいるものたちの気配だけではない。
ここから遠く離れた場所を通ってきた水も。
その水が運んできた、私にはまだ読み取れない何かも。
私は、白い木の枝を見つめた。
花びらが揺れている。
その向こうに、いくつもの時間が重なっているように見えた。
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私は、幹に手を当てた。
白い表面に浮かんでいた線が、ゆっくりと明滅している。
年輪のような線。
一本一本が、別々の時間を持っているように見えた。
ある線は、雨の記憶を持っている。
ある線は、強い風の記憶を持っている。
ある線には、動物の足音が重なっている。
別の線には、人間の祈りのようなものが残っている。
そして、また別の線には、遠い場所から運ばれてきた水の気配があるように感じられた。
それらが、同じ場所に存在している。
けれど、すべてが一つになっているわけではない。
それぞれの時間が、それぞれの形を保ったまま、幾重にも重なっている。
木が過ごしてきた年月。
この場所で生きたものたちの時間。
人間が残した思い。
そして、今も世界を巡り続ける水の流れ。
それらは同じものではない。
けれど、白い木の前に立つと、互いに無関係だとも思えなかった。
私は、木の奥に何かを見つけようとしていた。
白い木は、何を受け止めているのか。
どうして動物たちの念が集まるのか。
なぜ、水の流れに異変が起きているのか。
遠い場所から運ばれてくる雨の気配と、各地で感じ始めている変化には関係があるのだろうか。
なぜ、今になってこれほど大きな現象が起きているのか。
季節外れの桜は、何を知らせているのか。
けれど、答えは見つからなかった。
見えたのは、断片だけだった。
その断片さえ、私が正しく受け取ったものなのか分からない。
私は、神です。
水と山を見ています。
流れの変化を感じ、土の状態を知り、雨や雪がどこへ向かうのかを見ています。
遠い場所から水が運ばれてくることも知っています。
けれど、その水が何を運んでいるのか、すべてを知っているわけではありません。
木が抱えている時間のすべてを知っているわけでもありません。
そこに生きたものたちの思いを、すべて理解できるわけでもありません。
神であっても、知らないことはあります。
私は、そう思った。
そのとき、これまで感じてきた異変が、頭の中で重なった。
地下の水の流れ。
逆向きに動いた水。
冷たさの違う水。
古い根のそばに残っていた白い糸。
水底で見つけた、年輪に似た線を持つ白い欠片。
人間が聞いた、あの言葉。
動物たちから伝わってくる、まとまらない思い。
そして、今、目の前に咲いている季節外れの桜。
どれも、まだ説明できない。
同じ原因だと決めることもできない。
けれど、それらを別々の出来事として片づけてしまうには、あまりにも気になるものが多かった。
私は、もう一度、白い木に触れた。
もしかすると、私が見てきたものは、それぞれの異変の一部だったのかもしれない。
水の中にあるもの。
土の中にあるもの。
動物たちの中に残っているもの。
人間が聞いた声。
それらが、白い木の周囲で起きていることと、どこかでつながっているのだろうか。
白い木が原因なのか。
それとも、白い木もまた、何かの影響を受けているのか。
あるいは、もっと広いところで起きている変化を、ここが受け止めているだけなのか。
私には分からない。
ただ、白い木はそこに立っていた。
過去を抱えたまま、今も雨を受け、風に揺れ、根を地中へ伸ばしている。
その姿は、何かを待っているようにも見えた。
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そのとき、白い木の奥から、何かが届いた。
それは言葉になりかけて、消えた。
私には聞き取れなかった。
風の音だったのかもしれない。
幾つもの思いが重なっただけなのかもしれない。
ただ、失われたものばかりではないのだと。
まだ残っているものもあるのだと。
そんな気がした。
私は、白い木を見上げた。
満開の桜は、まだ枝に咲いていた。
その向こうには、いつもの林がある。
住宅地の明かりが、木々の隙間からわずかに見える。
遠くでは、車が走っている。
人間の暮らしは続いている。
動物たちは、そこにいる。
そして、この木も、ここに立っている。
かつての大きな木は失われた。
けれど、その種から生まれた木が、今もここにある。
失われた道がある。
戻らないものがある。
それでも、すべてが消えたわけではないのかもしれない。
私は、もう一度、幹に触れた。
冷たさが指先に伝わる。
その奥に、何かがあるような気がした。
けれど、今度は無理に探ろうとは思わなかった。
木が何を記録しているのか。
どこまでの時間を抱えているのか。
遠い場所から届く雨の中に、何が含まれているのか。
それを知るには、まだ時間が必要なのだろう。
私は手を離した。
風が吹いた。
桜の花びらが、また一枚、枝から離れた。
今度も地面には届かなかった。
林の中には、湿った土の匂いが戻っていた。
私は白い木を背にして、ゆっくりと歩き始めた。
振り返ると、枝の間に白い花が見えた。
あの花は、誰のために咲いているのだろう。
誰かに見せるためなのか。
何かを思い出させるためなのか。
それとも、ここに残っているものと、今も遠くから届き続けるものが、花の形を取っただけなのか。
分からない。
私は、歩きながら考えていた。
木は、何も語らない。
けれど、何も残していないわけではない。
人間が記録した歴史がある。
動物たちが身体で覚えている時間がある。
水が巡ってきた道がある。
そして、神である私にも、まだ知らない記録がある。
白い木は、過去だけを抱えているのではない。
今も、何かを受け止め続けている。
そのことだけは、確かなように思えた。
白い木の年輪は、私が思っていたよりも深いところまで続いているようだった。




