第2話 水の向こうにあるもの
朝の空気は、少し冷たくなっていました。
気温は十二度ほどでしょうか。山から吹き下ろす風には、湿った土と枯れ葉の匂いが混じっています。木々の枝先では、黄色くなった葉が一枚、また一枚と離れ、風に押されながら地面へ落ちていきました。
私は、いつものように水の流れを確認していました。
成田せせらぎ緑道から少し離れた場所です。
ここでは、地上を流れる水だけでなく、地面の下を通る水の動きも感じ取ることができます。雨が降れば土に染み込み、地層の隙間を通り、低い場所へ向かう。時間をかけて湧き出す水もあれば、そのまま川へ流れ込む水もあります。
人間には見えない流れです。
しかし、水にとっては、こちらのほうが自然な道なのかもしれません。
「さて……」
私はしゃがみ込み、細い水路に指先を近づけました。
水面に小さな輪が広がります。
流れに乱れはありません。水温も大きく変わっていない。少なくとも、表面から確認できる範囲では、いつもと変わらないように見えました。
ただ、山側から続く地下の水には、まだ気になる気配が残っています。
はっきりとした異常ではありません。
何かが起きていると断定できるほどのものでもない。
けれど、以前とは少し違う。
その感覚が、どうにも頭から離れませんでした。
「考えすぎですかねえ」
独り言を口にしたところで、足元の水面がわずかに揺れました。
風ではありません。
水の中から、何かが伝わってきたのです。
『おはようございます』
聞き覚えのある声でした。
「おはようございます。今日は早いですね」
『そちらこそ。朝から仕事ですか』
「仕事というより、確認ですね。少し気になることがありまして」
『ああ、山側のことですか』
「ご存じでしたか」
『こちらにも、少し伝わってきています。ただ、私の担当する範囲では、今のところ大きな変化はありません』
「そうですか。それならよかった」
『よかった、というほど安心はできませんけどね』
「そうですね」
私は小さく笑いました。
水の流れを通じて話をするのは、私たちにとって特別なことではありません。声を出しているわけでも、電話を使っているわけでもありません。
水がつながっていれば、伝わることがあります。
もちろん、何でも伝わるわけではありません。距離や流れ、土地の状態によって、届く情報には限りがあります。
それでも、水は思っている以上に広い範囲をつないでいます。
『ところで、先日の連絡は確認しましたか』
「先日の連絡?」
『日本支部からのものです。各地の水の動きについて、気になる点があれば報告するように、という話です』
「ああ、あれですか。確認しています」
『返信は?』
「まだです」
『まだですか』
「確認できていないことを報告するわけにもいきませんからね」
『あなたらしいですね』
「そうでしょうか」
『ええ。慎重すぎるくらいです』
「慎重なのは大事ですよ。特に水のことは」
『分かっていますよ。だから、こちらも連絡しているんです』
声の向こうで、少し笑ったような気配がしました。
「ありがとうございます。もう少し様子を見て、何か分かれば連絡します」
『お願いします。それでは、また』
「はい。また」
水面の揺れが静まりました。
私は立ち上がり、周囲を見回しました。
人間の住宅が並び、道路を車が走っています。少し離れた場所では、誰かが庭先の落ち葉を掃いていました。
人間にとっては、いつもの朝です。
しかし、その下では水が動いています。
地面の下を流れ、山から平地へ向かい、やがて川へ合流する。人間が道路を造り、建物を建て、土地の形を変えても、水はその影響を受けながら流れ続けます。
その流れを見守るのが、私たちの仕事でした。
*
神様というのは、案外、たくさんいるものです。
こう言うと、少し驚かれるかもしれません。
水に関わる神様だけでも、相当な数になります。
仙台の水を見ている者、名取の水を見ている者、山の水を見ている者、海へ流れ込む水を見ている者。
私たちは、それぞれ担当する場所を持っています。
もっとも、人間の市町村の境界と、私たちの担当区域がぴったり重なるわけではありません。水はそんなことを気にしませんからね。
山に降った雨が、いくつもの土地を通って川へ流れ込むこともあります。地下水が、思いもよらない場所へつながっていることもあります。
そうなると、隣の担当者と話をすることも増えます。
顔を合わせることもあれば、水を通じて連絡を取ることもあります。
お互い、見ている場所は違っても、水のことで困ったときには相談できる相手です。
以前、仙台で大雨による浸水が広がったときのことです。
あのときは、私の担当区域から少し離れた場所の神様たちとも連絡を取り合いました。
「そちらの川はどうですか」
「まだ大丈夫です。ただ、山からの水が増えています」
「こちらも確認しています。少し注意しておいた方がよさそうですね」
そんなやり取りが続きました。
私たちに雨を止める力があるわけではありません。水をすべて思いどおりに動かせるわけでもありません。
それでも、誰かが気づいたことを伝えれば、別の誰かが確認できます。
ひとりでは分からないことも、何人かで見ていれば気づくことがあります。
神様も、案外、助け合いながら仕事をしているのです。
そうした連絡をまとめたり、必要な情報を各地に伝えたりするために、日本支部があります。
支部長もいます。
ただ、私たちが毎日そこへ通っているわけではありません。それぞれの場所で仕事をしていますから、必要なときに連絡を取り合うのです。
人間の会社とは、少し違いますね。
もっとも、神様が満員電車に乗って通勤する姿を想像しても、あまり面白くないでしょう。
いや、面白いかもしれませんね。
朝の駅で、山の神様と海の神様が隣り合わせになっている。
そんな光景があっても、私は驚きません。
もっとも、海の神様は少し大ざっぱなところがありますから、電車の時間を間違えても平気な顔をしていそうです。
以前、そんな話をしたときには、本人からこう言われました。
『海は広いんだから、少しくらい遅れても問題ないだろう』
私は、思わず笑ってしまいました。
海が広いことと、待ち合わせに遅れてよいことは、別の話です。
神様にも、いろいろな性格があるのです。
*
その日の午後、私は日本支部からの連絡を受けました。
連絡は、水面に現れた小さな光の輪から始まりました。
風のない場所で、水面が円を描くように揺れています。
その輪が二つ、三つと重なり、やがて一つの形になりました。
『担当区域の確認をお願いします』
落ち着いた声でした。
「はい。こちらは確認しています」
『山側の水の動きについて、何か変化はありますか』
「明確な異常は確認できていません。ただ、地下水の流れに、少し気になる気配があります」
『気配、ですか』
「ええ。流れそのものが変わったというより、何かが引っかかっているような感覚です」
『原因は分かりますか』
「まだ分かりません」
『周辺の担当者からも、似たような報告が届いています』
私は少し顔を上げました。
「似たような報告?」
『水の流れが一時的に不安定になった。地下の通り道に、以前とは違う感触がある。そういったものです』
「場所は?」
『複数あります。東北だけではありません』
私は、しばらく黙っていました。
「同じ原因なのでしょうか」
『そこまでは分かりません』
「そうですか」
『それぞれの土地には、それぞれの事情があります。同じように見える現象でも、原因が違うことはあります』
「その通りですね」
『ですから、今の段階では情報を集めてください。無理に結論を出す必要はありません』
「分かりました」
『それと、白い木についての報告もありましたね』
私は、思わず視線を動かしました。
「白い木ですか」
『そちらの担当区域にある木です。何か分かりましたか』
「いえ。まだ、分からないことのほうが多いですね」
『木の記録については、確認できそうですか』
「年輪を調べるつもりです」
『そうですか』
「ただ、普通の木と同じように読めるかどうかは分かりません」
『それでも、調べる価値はあるでしょう』
「私もそう思います」
『では、進展があれば報告してください』
「承知しました」
水面の光が、ゆっくりと消えていきました。
私は、その場に立ったまま、しばらく考えていました。
富谷の山側で感じる気配。
ほかの地域から届いた、似たような報告。
そして、白い木。
それぞれがつながっているのかどうかは、まだ分かりません。
ただ、少なくとも、私の担当区域だけで起きていることではないようです。
*
夕方になりました。
西の空が薄い橙色に染まり、雲の縁が赤く光っています。
風は朝よりも冷たくなっていました。木々の葉が擦れ合い、乾いた音を立てています。
私は、少し離れた水辺に腰を下ろしました。
水面には、夕日の色が細長く映っています。
そのとき、ふと、雨の日のことを思い出しました。
あの日、私は確かに何かを聞きました。
声でした。
しかし、言葉ではありませんでした。
いくつもの声が重なり、互いにぶつかり、途切れながら届いてきたのです。
何かを訴えているようにも聞こえました。
何かを叫んでいるようにも感じました。
けれど、何を言っているのかは分かりませんでした。
白い木に集まった、たくさんの念。
それぞれが違う時間を持ち、違う記憶を持ち、違う思いを抱えている。
その一つ一つが、同時に表へ出てきたのだとしたら。
私に届いたのは、まとまった言葉ではなく、個々の叫びだったのでしょう。
草加部さんが聞いた声については、すでに把握していました。
――まだ、向こうへ行くな。
境界線に関係する言葉です。
私には、あのように明確な言葉としては聞こえませんでした。
同じ白い木に集まった念に関係しているはずなのに、どうして聞こえ方が違うのでしょう。
以前、別の神様と話したときのことを思い出しました。
白い木の話をしていたとき、その神様は、さほど驚いた様子もなく言ったのです。
『感受性が強いとね。聞こえちゃうことがあるんだよね』
「人間にも、ですか?」
『そうそう。草加部さんだけじゃなくてね』
「ほかにも、聞こえる人がいるんですか」
『いるよ。ただ、みんなが同じように聞こえるわけじゃないんだ』
「同じ声を聞くわけではない、と?」
『そうだね。言葉として聞こえる人もいれば、声とも言葉ともつかない何かを感じる人もいる。受け取り方は、それぞれなんだよ』
「それは、私たち神様にも似ていますね」
『そうかもしれないね』
その神様は、少し困ったように笑っていました。
私は、そのときの会話を思い返していました。
草加部さんには、あの言葉が届いた。
私には、いくつもの思いが、それぞれの声となって届いた。
そして、ほかの誰かには、また違う形で伝わっているのかもしれません。
白い木に集まった念は、ひとつの意思ではありません。
それぞれが違う時間を持ち、違う記憶を持ち、違う思いを抱えています。
だから、そこから伝わってくるものも、受け取る者によって違うのでしょう。
人間には人間の感じ方があり、私たち神様には神様の感じ方がある。
同じものに触れていても、見えるもの、聞こえるものが同じとは限らないのです。
私は、もう一度、雨の日のことを思い出しました。
あのとき聞こえたものは、いったい誰の思いだったのでしょう。
そして、草加部さんに届いたあの言葉は、どの思いから生まれたものだったのでしょう。
まだ、分かりません。
「……あれは、何だったのでしょうね」
私は水面を見つめました。
白い木は、何かを伝えようとしていたのでしょうか。
それとも、木に残された念が、何かのきっかけで表に現れただけなのでしょうか。
私は、少し考えてから立ち上がりました。
「やはり、年輪を調べる必要がありますね」
木が何を記録しているのか。
どこまで残しているのか。
そして、そこにあるものが、あの日の声とどう関係しているのか。
年輪には、その木が生きてきた時間が刻まれています。
雨の量、気温、土の状態、周囲の環境。
それだけではない何かが残されているとしたら。
私は、まだそれを知りません。
知っているつもりにもなりたくありませんでした。
*
水辺を離れようとしたとき、近くの草むらで小さな音がしました。
かさり。
枯れ葉が動いたようです。
私は足を止めました。
草の隙間から、黒い鼻先が少しだけ見えました。
タヌキです。
こちらを見ているようでしたが、すぐに顔を引っ込めました。
「おや」
声を掛けても、返事はありません。
もう一度、草むらが動きました。
今度は、反対側です。
どうやら一匹ではなかったようです。
「そんなに急がなくてもいいでしょうに」
私は笑いながら言いました。
もちろん、返事はありませんでした。
タヌキたちは、こちらを気にしているのかもしれません。
あるいは、私など気にも留めず、ただ通り道を探しているだけかもしれません。
動物たちにも、それぞれの暮らしがあります。
私たち神様が知らないことも、たくさんあるのでしょう。
彼らが何を見て、何を感じ、何を覚えているのか。
そのすべてを、私が知る必要はありません。
ただ、彼らの通る道に何か変化が起きているのなら、気づいておきたいと思います。
タヌキの姿は、いつの間にか見えなくなっていました。
*
夜になりました。
住宅地の明かりが一つずつ灯り、道路を走る車の音が遠くから聞こえてきます。
人間たちは、それぞれの家へ帰り、食事をし、テレビを見たり、明日の準備をしたりしているのでしょう。
いつもと変わらない夜です。
しかし、私には、確認しなければならないことが増えていました。
山側の水に感じる気配。
富谷の外にもある、似たような兆候。
白い木に集まった念。
そして、年輪に残されているかもしれない記録。
どれも、まだ答えは出ていません。
私は、空を見上げました。
雲の切れ間から、星が一つ見えています。
「さて、次は白い木ですね」
そう口にして、私は歩き始めました。
急ぐ必要はありません。
分からないことを、分からないままにしておくことも大切です。
けれど、確かめることをやめるつもりはありませんでした。
水は、今日も流れています。
山から平地へ。
地下から地上へ。
そして、どこか遠くの海へ。
その流れの途中で、何かが変わり始めているのかもしれません。
私は、もう一度、白い木のことを考えました。
あの木の年輪には、何が残されているのでしょう。
そして、そこに刻まれた時間は、いったい誰のものなのでしょうか。




