第3話 人間が作った神
朝の空気は、少し冷たかった。
夜の間に降った雨はすでに上がっていたが、木々の葉にはまだ小さな水滴が残っている。風が吹くたび、葉の先にたまった雫がぽたり、ぽたりと地面に落ちた。
気温は十三度ほどだろうか。
日差しはあるものの、日陰に入ると肌寒い。湿った土の匂いに、濡れた落ち葉の匂いが混じっていた。
水の神様は、いつものように歩いていた。
特に急ぐ用事はない。
担当区域の水の状態を確認しながら、少し遠回りをしてみようと思っただけだった。
道路から一本入ったところに、小さな神社があった。
大きな神社ではない。鳥居の塗装はところどころ剥がれ、石段の隅には苔が生えている。境内には数本の木が立ち、雨に濡れた地面には、風で落ちた葉が張りついていた。
鳥居の向こうから、鈴の音が聞こえた。
ちりん。
誰かが参拝しているらしい。
水の神様は、少し離れた場所からその様子を眺めた。
中年の男性が、賽銭箱の前で手を合わせていた。
深く頭を下げ、しばらく動かない。
何かを願っているのだろうか。
それとも、何かを報告しているのだろうか。
やがて男性は頭を上げ、もう一度軽く会釈をすると、石段を下りていった。
その背中を見送りながら、水の神様は小さく首を傾げた。
「……さて。何をお願いしたんでしょうね」
もちろん、本人に聞くつもりはない。
人間には人間の事情がある。
神様にも、そこへ踏み込まない程度の遠慮はあった。
境内に入ると、雨に濡れた石畳が靴底に少し吸いつくような感触がした。
拝殿の前には、古くなった木の賽銭箱が置かれている。屋根の端から落ちる雫が、一定の間隔で石の上に小さな音を立てていた。
水の神様は、その音を聞きながら賽銭箱を眺めた。
「人間は、ずいぶん昔からこういうことをしているんですよね」
誰に向けた言葉でもなかった。
そのとき、背後から声がした。
「何を感心しているんですか?」
振り返ると、そこに別の神様が立っていた。
人間の目には、どこにでもいそうな普通の人に見えるだろう。特別な衣装も、光り輝く姿もない。
「いやあ、ちょっと考え事です」
「考え事?」
「人間って、神様を作るのが上手ですよね」
相手は一瞬、きょとんとした。
「神様を作る?」
「ええ。名前をつけたり、姿を決めたり、物語を作ったり。こういう場所もそうでしょう?」
水の神様は、拝殿の方へ目を向けた。
「人間が何かを恐れたり、ありがたいと思ったり、不思議に感じたりする。そこから神様が生まれることがある。山にも、川にも、岩にも、木にも。人間は、目に見えないものに意味を与えるのが得意なんです」
「それは、悪いことですか?」
「いえいえ。そういうつもりではありませんよ」
水の神様は笑った。
「ただ、面白いなと思いましてね」
境内を風が通り抜けた。
木の枝が揺れ、葉の裏側が一斉に白く見える。頭上から落ちた雫が、神様の肩に当たった。
冷たい。
水の神様は肩を軽く払った。
「人間が神様を作る。神様に名前をつける。神話を作る。そして、祈る。ずいぶん長い時間をかけて、そういうことを繰り返してきたんでしょうね」
「実際に、そうして神になったものもいますからね」
「そうですね」
水の神様は、少しだけ表情を変えた。
「人間が亡くなった後に、神様として祀られることもあります」
江戸幕府を開いた人物も、その一人だった。
その人物は生前、戦乱の時代を生き抜き、国を治める立場にまで上り詰めた。
亡くなった後、その功績や権威は人々によって語り継がれ、やがて神格化されていった。
東照大権現。
人間の歴史の中で、一人の人間が神として祀られるようになった例である。
「亡くなった人間が神様になる。考えてみると、不思議な話ですよね」
「そうでしょうか。人間にとっては、それだけ大きな存在だったということではありませんか?」
「そうかもしれません」
水の神様は、賽銭箱の脇に置かれた小さな花を見た。
誰かが供えたものだろう。雨に濡れた花びらが、少しだけうつむいている。
「人間は、忘れたくないんでしょうね」
「何をです?」
「自分たちを守ってくれたもの。助けてくれたもの。大きなことを成し遂げた人。あるいは、もう二度と会えなくなった人。そういうものを、何かの形で残しておきたいんじゃないでしょうか」
相手の神様は、黙って聞いていた。
「名前を残す。像を作る。神社を建てる。お祭りをする。そうやって、いなくなったものを、いなくなったままにしない。人間なりの方法なのかもしれませんね」
「なるほど」
「ただし、少し厄介なこともあります」
「厄介?」
「ええ。人間の信仰は、ときどき権力と結びつきます」
水の神様の声が、ほんの少し落ち着いたものになった。
「人々の心を支えるために生まれた信仰が、いつの間にか人々を従わせるために使われることもある。誰かが神様の名前を利用して、自分の立場を強くしようとすることもあるでしょう」
「それも、人間の歴史ですか」
「そうです。信仰そのものが悪いわけではありません。けれど、信仰を利用する人間がいる。それは別の話です」
水の神様は、拝殿を見上げた。
屋根の端から落ちた雫が、石畳の上で小さく弾ける。
「祈る人は、きっと真剣なんですよ。家族が無事でいてほしい。病気が治ってほしい。仕事がうまくいってほしい。亡くなった人が安らかであってほしい。そういう気持ちまで、誰かの都合で利用されるのは、あまり気持ちのいいものではありませんね」
「あなたは、人間の信仰をどう思っているんです?」
「どう、と言われましてもねえ」
水の神様は困ったように笑った。
「私は、祈ってほしいわけではありませんし、崇めてほしいわけでもありません。水の状態を見て、記録して、必要なら関係する神様に知らせる。それが私の仕事です」
「ずいぶん、あっさりしていますね」
「そうですか?」
「神様なら、もう少し立派なことを言うのかと思いました」
「いやいや。立派なことを言っても、水はきれいになりませんからね」
水の神様は、少しおどけた顔をした。
「それに、毎日祈られていたら、仕事が増えてしまうかもしれません」
「祈りの対応まで仕事にするんですか?」
「さあ。それは上の方に相談しないと」
二人は、しばらく顔を見合わせて笑った。
境内の空気が、少しだけ和らいだように感じられた。
水の神様は、もう一度、拝殿の方へ目を向けた。
人間が作った神様。
人間が名づけた神様。
人間が物語を与え、祈りを捧げ、長い時間をかけて形にしてきた神様。
それは、人間の歴史の中に存在している。
しかし、山や川や水の流れは、人間が名前をつける前からそこにあった。
誰も見ていなくても、川は流れる。
誰も祈らなくても、雨は降る。
山の中では、地面の下を水が流れ、木々は根を伸ばし、動物たちは季節に合わせて暮らしている。
人間がそれを神と呼ぶ前から、そこには何かがあった。
では、人間が神と呼ぶものは、いったい何なのだろう。
水の神様は、少し考えてから口を開いた。
「人間は、神様を作ったのかもしれませんね」
「ええ」
「でも、人間が作ったものだけが神様というわけでもない。そこが、少し難しいところです」
「私たちにも、よく分からないことはありますからね」
「そうなんですよ。神様も、万能ではありませんから」
水の神様は、そう言って笑った。
そのとき、境内の外から、子供の声が聞こえた。
「お母さん、ここって何の神様?」
「さあね。昔からある神社だから、何かお願いを聞いてくれるんじゃない?」
「何でも?」
「何でもじゃないでしょう」
親子の会話が、石段の方から近づいてくる。
子供は鳥居をくぐると、境内を見回した。
そして、拝殿の前で立ち止まった。
「ねえ、お母さん。神様って、ここにいるの?」
「いるかもしれないね」
「見える?」
「見えないんじゃないかな」
「じゃあ、どうしているって分かるの?」
母親は少し考えた。
「うーん。いるって信じているからかな」
子供は納得したのか、していないのか、よく分からない顔をしていた。
水の神様は、その様子を見ていた。
やがて、子供は母親と一緒に手を合わせた。
小さな手が、胸の前で重なる。
何を願ったのかは分からない。
けれど、その姿には、誰かに何かを届けようとする真剣さがあった。
「……いいものですね」
水の神様が、ぽつりと言った。
「何がです?」
「祈るということですよ」
子供たちが帰っていく。
境内には、また静けさが戻った。
「人間が神様を作ることもある。神様の名前を作ることもある。けれど、祈る人の気持ちまで、作り物というわけではありませんからね」
「そうですね」
「そこは、間違えないようにしたいものです」
水の神様は、鳥居の外へ歩き出した。
石段の脇には、雨で濡れた落ち葉が重なっている。
踏まないように端を歩くと、土の柔らかさが靴底から伝わってきた。
風が吹いた。
木々の葉が揺れ、遠くで車の走る音が聞こえる。
人間の暮らしは、今日も続いている。
祈る人もいれば、祈らない人もいる。
神様を信じる人もいれば、信じない人もいる。
それぞれが、それぞれの世界を生きている。
水の神様は、空を見上げた。
雲の切れ間から、薄い光が差し込んでいる。
「さて。そろそろ水の様子を見に行きましょうか」
そう言って、いつもの調子で歩き始めた。
神様は、祈られるために歩いているわけではない。
ただ、水が流れているから、そこへ行く。
人間が名前をつける前から、そこにあったものを見に行く。
そして、人間がまだ知らないことを、今日も少しずつ記録していくのだった。




