第12話 帰り道
大清水調整池を離れるころには、雨は少し弱くなっていました。
先ほどまで木々の葉を強く叩いていた雨粒は、今では枝先からゆっくりと落ちています。
ぽたり。
ぽたり。
葉の先にたまった水が、重さに耐えきれなくなったように地面へ落ちていました。
雑木林の中には、雨に濡れた土と落ち葉の匂いが漂っています。
赤や黄色に色づいた葉が、枝の間に重なっていました。まだ枝に残っているものもあれば、雨に打たれて地面に落ちたものもあります。
足元には、濡れた落ち葉が幾重にも重なっていました。
踏むと、かすかな音がします。
水を含んだ葉は柔らかく、土に張りついていました。
私は、白い木を振り返りました。
雨の中に立つその姿は、先ほどと何も変わっていないように見えます。
枝を広げ、幹を立て、そこにある。
ただ、それだけです。
けれど、私は先ほどから、その木を以前と同じようには見られなくなっていました。
あの木には、動物たちの思いだけが集まっているわけではない。
かつて、この土地に暮らしていた人間たちの祈りや願い。木を見上げ、手を合わせ、何かを託していった人々の思い。
喜びもあれば、悲しみもあるでしょう。
感謝もあれば、怒りもあるかもしれません。
ここで暮らしたいと願ったものもいれば、ここを離れたくなかったものもいたでしょう。
それらが、どのように残り、どのように重なっているのか。
私には、まだ分かりません。
「……ずいぶん、いろいろなものを抱えていますね」
白い木は、何も答えません。
枝先から落ちた水滴が、地面に小さな跡をつけました。
「まあ、私も人のことは言えませんが」
神様になってから、長い時間が経っています。
水の流れを見て、山の変化を感じ、そこに暮らす生き物たちの様子を眺めてきました。
それなりに知っているつもりだったのですが。
どうやら、まだまだ勉強が足りないようです。
「困りましたね。神様にも分からないことがあるとは」
少し間を置いて、私は付け加えました。
「もっとも、分からないからといって、仕事を辞めるわけにもいきません。辞表をどこへ出せばよいのかも分かりませんしね」
私は、白い木に背を向けました。
帰ることにします。
私の普段の居場所は、成田せせらぎ緑道です。
大清水から成田までは、歩いて帰れる距離です。
神様だからといって、どこへでも一瞬で移動できるわけではありません。
もちろん、そういうことができる神様もいるのでしょう。
ですが、私は水と山の神です。
水の流れを見ながら歩くこともありますし、山道を歩くこともあります。
歩くというのは、なかなか悪くないものです。
……それに、帰り道まで仕事をしているようなものですからね。
私は、濡れた地面を踏みしめながら、雑木林を離れました。
*
林を出ると、人間たちの街がありました。
大清水の住宅地です。
道路は雨に濡れ、街灯の光を受けて鈍く光っていました。
街路樹には、赤や黄色に色づいた葉が残っています。
枝から落ちた葉は歩道の端に集まり、側溝の近くで水に揺れていました。
車が一台通り過ぎます。
タイヤが路面の水を押し分け、シャアッという音を残して遠ざかっていきました。
道路の端には、雨水が細く流れています。
低くなった場所には水が集まり、側溝へ向かっていました。
私は、足を止めました。
側溝の水は、街灯の光を受けながら流れています。
その脇に、一枚の赤い葉が張りついていました。
水は葉の端を揺らし、少しずつ押し動かしています。
「そこにいると、流れていきますよ」
もちろん、葉に聞こえるはずはありません。
やがて葉は水に押され、側溝の奥へと消えていきました。
「……あらら。行ってしまいましたね」
私は、少しだけ水の流れを見つめました。
人間たちが造った道路には、雨水を流すための設備があります。
側溝があり、排水口があり、地下には水を通す管が埋められています。
雨が降れば、そこへ水が集まるように造られているのです。
よく考えられています。
人間たちは、自分たちが暮らす場所を整え、水がどこへ流れるのかを考え、必要な道を造ってきました。
それによって、雨の日でも道路を歩き、車を走らせ、家で暮らすことができます。
もっとも、自然の水は、人間が用意した道だけを通るわけではありません。
舗装のわずかな傾きに沿って流れ、縁石の隙間から土へ染み込み、植え込みの根元へ入り込むこともあります。
「さて、あなたはどちらへ行くのでしょうね」
足元の水たまりに目を向けました。
雨粒が一つ落ち、波紋が広がります。
街灯の光が揺れました。
「ふむ。返事はなしですか」
私は、また歩き始めました。
住宅の窓には明かりがともっています。
カーテンの向こうに、人間たちの暮らしがありました。
食事をしている家もあるでしょう。
テレビを見ている家もあるでしょう。
今日の出来事を話している人もいれば、明日の予定を考えている人もいるかもしれません。
それぞれの家に、それぞれの時間があります。
「みなさん、お忙しそうですね」
私は、窓明かりを眺めながらつぶやきました。
そのすぐ外側では、雨水が流れています。
人間たちは、家の中にいるとき、足元の水の行方まで気にすることは少ないでしょう。
それは、別に悪いことではありません。
人間には人間の暮らしがあります。
私だって、すべての人間の暮らしを見ているわけではありませんから。
*
富谷第二中学校の通りへ出ると、周囲の景色が少し変わりました。
通学路として整備された道路が続いています。
歩道や道路の形状には、車が速度を出しすぎないようにする工夫も見られます。
それでも交通量は意外にあり、車の音が遠くまで届いていました。
車が通るたびに、濡れた路面から水が跳ねます。
歩道の脇には植え込みがあり、その向こうに住宅や建物が並んでいます。
私は、ふと足を止めました。
街路樹の枝に、鳥が一羽とまっています。
ゴイサギでした。
首を縮め、羽を体に寄せています。
灰色の夜空を背景に、じっと周囲を見ていました。
「おや。こんなところにいましたか」
声をかけてみましたが、ゴイサギは少し首を動かしただけでした。
「何か見つけましたか?」
ゴイサギは答えません。
まあ、鳥にも鳥の都合があります。
私がもう一度見上げたとき、ゴイサギは枝を蹴りました。
大きな翼を広げ、住宅の屋根を越えて飛んでいきます。
そして、夜の街に声が響きました。
「おお。元気ですね」
私は、その姿を目で追いました。
ゴイサギは屋根の向こうへ消えていきました。
そのとき、今度は植え込みの奥で、かさりと音がしました。
何かが動いています。
細い体が、葉の隙間をすり抜けました。
イタチです。
地面を低く走り、植え込みの端で立ち止まりました。
鼻先を動かし、周囲の匂いを確かめています。
私と目が合いました。
「こんばんは」
イタチは一瞬こちらを見ましたが、すぐに顔を背けました。
そして、植え込みの向こうへ走り去っていきました。
「……忙しいですね、あなたも」
その直後、車のライトが道路を照らしました。
植え込みの葉が白く浮かび上がり、すぐに暗さへ戻ります。
イタチの姿は、もうありません。
私は、少し笑いました。
人間たちの街は、よく整えられています。
道があり、交差点があり、信号があり、それぞれの場所へ向かうための案内があります。
人間たちは、名前や標識を頼りに目的地へ向かいます。
動物たちは、風の匂いを確かめ、地面の感触を覚え、水のある場所を知り、木々の間を通っていきます。
同じ土地にいても、見ているものは違うのでしょう。
人間たちにとっては、毎日通る道路かもしれません。
動物たちにとっては、いつもの通り道かもしれません。
その道が、ある日変わってしまったら。
私は、道路の端にある水たまりを見ました。
車が通ると、水面が震え、街灯の光が細かく砕けます。
「さて……」
私は、少し考えました。
「あなたたちは、どこへ行くつもりなのでしょうね」
水たまりは、何も答えません。
ただ、車が通り過ぎたあとも、小さな波紋が残っていました。
*
やがて、イオン富谷の近くへ差しかかりました。
その向かいには、カインズホームをはじめ、いろいろな店が入る複合的な施設があります。
店の明かりは、雨の夜にもはっきりと見えました。
駐車場には車が並び、出入りする車のライトが道路を照らしています。
人間たちにとっては、買い物をする場所です。
食料品を買い、必要なものを探し、家へ帰る。
その一つ一つが、暮らしを支えています。
私は、明るい店の方を眺めました。
「便利になりましたねえ」
そのとき、道路脇の植え込みで、また何かが動きました。
今度は、タヌキです。
植え込みの陰から鼻先を出し、左右を確かめています。
車が一台通り過ぎました。
タヌキは、すぐに身を引っ込めました。
しばらくして、もう一度顔を出します。
今度は道路の反対側を見ていました。
「渡るのですか?」
タヌキは、私を見ません。
鼻を動かし、地面の匂いを嗅いでいます。
車が途切れました。
タヌキは、少し小走りに道路を横切り、向こう側の植え込みへ入っていきました。
「おや。無事に渡れましたね」
私は、その後ろ姿を見送りました。
タヌキにとって、道路は道路ではないのかもしれません。
向こう側へ行くために、越えなければならない場所。
それだけなのでしょう。
けれど、その場所も、昔から今の姿だったわけではありません。
建物ができる前には、別の景色があったはずです。
木々があり、草が生え、土があり、水が流れていた。
そこを通っていた生き物もいたでしょう。
今は舗装された場所の下にも、かつての地面が残っています。
私は、道路の端に目を向けました。
舗装の切れ目から、小さな草が伸びています。
その根元には、雨水が染み込んでいました。
「頑張っていますね」
誰に向けた言葉だったのか、自分でもよく分かりません。
人間たちの街は、明るい。
その明かりの下では、多くの人間たちが暮らしています。
けれど、その明かりの届かないところにも、まだ多くのものが暮らしています。
私は、先ほどのタヌキが入っていった植え込みを、もう一度見ました。
もう姿はありません。
*
交差点を抜け、いちょう通りから成田方面へ向かいました。
雨は、ほとんど止んでいました。
街路樹の葉には水滴が残り、風が吹くたびに小さな雨が降るように落ちてきます。
黄色く色づいた葉が、街灯の光を受けていました。
歩道の端には、落ち葉が寄り集まっています。
濡れた葉の隙間を、細い水が流れていました。
私は、歩きながら考えていました。
人間たちは、暮らすための土地を求めます。
食べ物を得るために畑を造り、家を建て、道路を延ばします。
もっと便利に、もっと安全に、もっと豊かに暮らしたい。
その思いが、街を大きくしてきたのでしょう。
動物たちも、場所を求めます。
食べ物を探し、水場を探し、身を隠せる場所を探す。
今いる場所で足りなければ、別の場所へ向かう。
通り道が塞がれれば、別の道を探す。
それだけのことなのかもしれません。
「……どちらも、なかなか大変ですね」
私は、少し笑いました。
「人間も、動物も」
そのとき、後ろの方で、かさりと音がしました。
振り返ると、植え込みの陰に何かがいます。
先ほどのタヌキでしょうか。
それとも、別の個体でしょうか。
暗くてよく分かりません。
「まだ、そこにいるのですか?」
返事はありません。
私が歩き始めると、少し遅れて、また葉が揺れました。
ついてきているのでしょうか。
それとも、たまたま同じ方向へ移動しているだけでしょうか。
「まあ、どちらでもいいですけれどね」
私は振り返らずに歩きました。
人間の車が通ると、植え込みの奥は静かになりました。
ライトが遠ざかると、また小さな音がします。
どうやら、こちらの方が慎重なようです。
私は、少しだけ歩く速度を落としました。
*
道の脇に、小さな水たまりがありました。
雨水がたまり、街灯の光を映しています。
その中に、黄色い葉が一枚浮かんでいました。
風が吹くと、葉がくるりと回ります。
私は、しゃがみ込みました。
「あなたは、どこから来たのですか」
水面に、ぽつりと水滴が落ちました。
波紋が広がり、葉がゆっくりと動きます。
水たまりの端から、細い水が歩道の傾斜に沿って流れ出していました。
「なるほど。ここにとどまるつもりはないようですね」
もちろん、水が返事をしたわけではありません。
ただ、私はその流れを見ていました。
水は、低いところへ向かいます。
途中に葉があれば、押し流すこともあります。
土があれば、染み込んでいくこともあります。
側溝に入れば、見えなくなります。
その先がどこにつながっているのか。
私は知っているつもりでした。
けれど、今夜は少し違って見えます。
大清水で降った雨。
遠くの山に降った雨。
海から空へ上がり、雲となって戻ってきた水。
それらが、どこかでつながっている。
それは、当たり前のことです。
ただ、その水が通ってきた場所には、さまざまなものがあったはずです。
土があり、木があり、生き物がいて、それぞれの暮らしがありました。
私は、水たまりの中の葉を見つめました。
「あなたは、ずいぶん遠くまで行くのかもしれませんね」
葉は、また少し動きました。
そのとき、背後の植え込みで音がしました。
振り返ると、タヌキがこちらを見ています。
少し離れたところに座り、鼻先を動かしていました。
「おや。まだいましたか」
タヌキは、私の声に耳を動かしました。
それから、地面の匂いを嗅ぎ始めました。
「あなたも、何か探しているのですか?」
タヌキは、こちらを見ません。
しばらくすると、植え込みの奥へ歩いていきました。
私は、その姿を見送りました。
「……まあ、そうですよね」
何かを探しているのでしょう。
それが何なのか、私には分かりません。
分からないまま、タヌキは暗がりに消えていきました。
*
成田の住宅地へ入るころには、雨雲の向こうに、わずかな明るさが残っていました。
住宅が並び、道路が続き、植え込みや街路樹が道に沿って配置されています。
昼間なら、子どもたちの声や車の音が聞こえる場所です。
今は、人の姿もまばらでした。
歩道の隅には、濡れた落ち葉が集まっています。
赤くなった葉もあれば、黄色い葉もあります。
その間を、雨水が静かに流れていました。
私は、見慣れた道を進みました。
このあたりの水の流れは、よく知っています。
道路脇の側溝から流れ込む水。
住宅地の植え込みに染み込む水。
地面の下を通り、緑道の流れへ向かう水。
それぞれの水が、どこかでつながっています。
やがて、成田せせらぎ緑道が近づいてきました。
住宅地の明かりが少しずつ遠のき、木々の影が濃くなります。
緑道沿いの木々にも、色づいた葉が残っていました。
雨に濡れた葉は、夜の暗さの中で、ところどころ光を受けています。
緑道に入ると、車の音が遠くなりました。
代わりに、水の音が聞こえてきます。
さらさらと流れる水。
岸辺の草を揺らす風。
枝先から落ちる水滴。
私は、いつもの場所へ戻ってきました。
ここは、私が普段から見守っている場所です。
水の流れを確かめ、周囲の山の気配を感じる。
時には動物たちと話をすることもあります。
ここに戻ると、少し落ち着きます。
「やれやれ。ようやく帰ってきました」
私は、水辺に立ち止まりました。
大清水からここまで、歩いてきただけです。
それなのに、ずいぶん遠くまで考えを巡らせてしまいました。
水面には、街灯の光が細く映っています。
雨の影響で、流れはまだ少し速くなっていました。
光は流れに揺られ、形を変えながら下流へ向かっていきます。
私は、水面を見つめました。
「さて……どう報告したものでしょうね」
神々の世界には、報告というものがあります。
担当する土地で何か変化があれば、必要に応じて伝えなければなりません。
山の異変、水の異変、そこに暮らすものたちの変化。
そうしたことを、私はこれまでも報告してきました。
しかし、今回は少し違います。
白い木の周囲で起きていること。
古い根に残されたもの。
雨の中で感じた、遠くまで広がるような気配。
これらは、私が実際に見たり、感じたりしたことです。
けれど、それらが一つの仕組みでつながっているというのは、まだ私の考えにすぎません。
「確認した事実は事実として。推測は推測として……」
私は、指を折りながら考えました。
「それから、よく分からないものは、よく分からないと」
うん。
それなら、何とか報告できそうです。
ただし。
「遠くの思いが、水を通じて届いているような気がしました」
そう書いたら、どうなるでしょう。
上の神様たちは、どんな顔をするでしょうね。
まさか、私の担当区域で、世界規模の何かが始まっているとでも思われるでしょうか。
「いやいや、まだ決まったわけではありません」
私は、自分に言い聞かせました。
少し落ち着きましょう。
私は水の神です。
山の神も兼務しています。
世界のすべてを知っているわけではありません。
それでも、今夜、私は一つのことを感じました。
白い木のことだけを調べていても、分からないことがあるのかもしれません。
あの木が立つ土地。
そこを通ってきた水。
その場所で暮らしてきたものたち。
そして、遠くにある、私の知らない土地。
それらは、私が考えていたよりも、ずっと深くつながっているのかもしれません。
「……困りましたね」
また、同じ言葉が出てしまいました。
今度は、少し違う意味です。
私の担当区域は、宮城県富谷市。
山と水を見守るのが、私の仕事です。
それなのに、どうやら富谷だけを見ていては済まなくなりそうです。
「これは、報告だけでは終わらないかもしれませんね」
水面が揺れました。
流れてきた小さな葉が、私の足元を通り過ぎていきます。
私は、その葉を目で追いました。
どこから来たのでしょう。
どこへ行くのでしょう。
今は、まだ分かりません。
「……まずは、もう少し調べてみましょう」
そう言って、私は緑道の奥へ歩き始めました。
そのとき、少し離れた茂みで、何かが動きました。
振り返ると、暗がりの中に二つの目が見えたような気がしました。
「まだ、ついてきていたのですか?」
返事はありません。
目はすぐに消え、葉がかすかに揺れました。
「まあ、いいでしょう。帰り道は、まだ続きますからね」
私は、笑いながら歩きました。
神様にも、知らないことはあります。
知らないことがあるからこそ、見に行くのです。
それに。
せっかくここまで歩いて帰ってきたのです。
すぐに座ってしまうのは、少々もったいないでしょう。
私は、水の音を聞きながら、いつもの場所へ戻っていきました。
その夜も、成田せせらぎ緑道の水は流れていました。
大清水に降った雨も、どこか遠い土地に降った雨も、同じ空の下にありました。
水は流れ、葉は運ばれ、生き物たちは、それぞれの場所へ帰っていきます。
その先に何があるのか。
まだ、私には分かりません。
けれど、富谷の外にも、見ておかなければならないものがある。
そんな気がしていました。
私は、流れていく水をもう一度だけ振り返りました。
「さて。次は、どこを見に行きましょうか」
水は答えません。
ただ、静かに流れていました。




