第11話 思いの交錯
狸が去ったあとも、私はしばらく白い木のそばに残っていました。
雑木林の中は静かでした。
池のほうから、ときおり水の音が聞こえてきます。住宅地の明かりは木々の隙間から見え、桜並木の枝は夜の空に黒く浮かんでいました。
私は、白い木を見上げました。
この木は、かつてここにあった大木から続いている。
大木は切り倒されました。しかし、その種から芽を出した木が、すぐそばで育っていた。
木は失われても、命は途切れていなかったのです。
けれど、それだけでは説明できないものもありました。
白い木に残されているもの。
上流の土の中で見つけた古い根。
その根に沿って伸びていた、白い線。
それらは、どこかでつながっているのでしょうか。
私は、もう一度、木の幹に目を向けました。
そのとき、桜並木の向こうから、一人の人間が歩いてきました。
手には小さな明かりを持っています。
人間は、ゆっくりと歩いていました。
やがて、桜並木の途中で足を止めました。
明かりが、林のほうへ向けられます。
木々の間を照らし、しばらく動きません。
その視線は、雑木林の奥にある白い木へ向けられていました。
人間は、何かを確かめるように、しばらくそこに立っていました。
やがて明かりを下ろし、再び歩き始めました。
草加部でした。
私は、その後ろ姿を見送りました。
あの人間は、この木に何かを感じているのでしょうか。
それとも、ただ、そこに木があることに気づいただけなのでしょうか。
私には分かりません。
ただ、あの人間が白い木を見ていたことは確かでした。
狸は、この木が昔からここにあったことを知っていました。
私は、この木に残されたものを調べていました。
そして、人間は、理由も分からないまま、この木を見ていました。
同じ場所に立っていても、見ているものは違うのかもしれません。
私は、もう一度、白い木を見上げました。
そのとき、頬に冷たいものが触れました。
雨でした。
最初は、ほんの数滴でした。
葉の上に落ちた雨粒が、枝を伝い、幹を濡らしていきます。
やがて雨は少しずつ強くなり、雑木林の葉を叩く音が広がりました。
私は空を見上げました。
雨が降ること自体は、珍しいことではありません。
空から落ちた水は、地面に染み込み、土の中を通り、川へ流れていきます。
川の水は海へ向かい、やがて空へ戻る。
そうした水の巡りは、私にとって特別なものではありませんでした。
けれど、その夜は、少し違って感じられました。
雨は、白い木の枝を濡らしていました。
その水は幹を伝い、根元へ落ちていきます。
土に染み込んだ水は、木の根の間を通り、さらに深い場所へと進んでいく。
上流で見つけた古い根にも、かつては水が触れていたのでしょう。
今は姿を変えた土地にも、かつてそこにあった木にも、水は流れていたはずです。
人間が土地を変え、道をつくり、建物を建てる。
動物たちは、その変化の中で暮らす場所を変え、通り道を探してきました。
木はそこに立ち続け、見てきたものを残してきた。
それぞれが、同じ場所で違う時間を過ごしていたのです。
水は、そのすべてに触れていたのかもしれません。
私は、雨に濡れた白い木を見つめました。
木に残されたもの。
動物たちが抱いてきた思い。
人間がこの場所に重ねてきた時間。
それらは、ひとつのものではありません。
同じ場所にあっても、同じ出来事に触れていても、それぞれの思いは違います。
けれど、まったく別々に存在しているわけでもない。
どこかで重なり、どこかでつながりながら、今も続いている。
私は、静かに息を吐きました。
「……思いは、ひとつではないのですね」
その言葉は、雨音に紛れて消えていきました。
まだ、すべてが分かったわけではありません。
白い木に何が残されているのか。
上流で見つけた白い線は何なのか。
そして、あの木に集まった思いは、どこへ向かっているのか。
答えは、まだ見つかっていません。
けれど、調べるべきものは、木だけではないのかもしれません。
私は、もう少し、この場所を見ていくことにしました。
白い木は、雨に濡れていました。
桜並木も、同じ雨を受けていました。
そして、その下の土には、見えない水が静かに染み込んでいきました。
雨は、まだ降り続いていました。




