第10話 木は残っていた
上流をたどるうちに、日はすっかり暮れていました。
大清水の調整池の水面には、夜の明かりが細く揺れていました。
風が吹くたびに、水面の一部がさざ波を立て、岸辺に残った草がかすかに揺れます。
この池は、人間が土地を整え、造ったものです。
けれど、動物たちにとっては、水を飲み、魚を探し、喉を潤すための水辺でした。
池の向こうには住宅街の明かりがありました。
窓に灯る光。道路を走る車の音。遠くから聞こえる人間の声。
そのすぐ横には、雑木林が残っています。
人間が暮らす場所と、山の名残が隣り合っている場所でした。
私は池の脇を歩いていました。
水の流れを追って上流まで来たはずでしたが、気がつけば、雑木林の入口近くまで来ていました。
「ここでしたか」
思わず、そう口にしました。
足元には湿った土がありました。
雨の名残でしょうか。落ち葉の下から、土の匂いが立ち上がっています。
少し先には桜並木が続いていました。
今は花の季節ではありません。枝には葉が残り、風が通るたびに、乾いた音を立てています。
その向こうには道路があり、さらに先には住宅が並んでいました。
ここは、山の中ではありません。
けれど、山がなくなった場所でもありません。
人間の目には住宅街の片隅に残された雑木林でしょう。
しかし、動物たちにとっては、今も山の一部なのです。
人間が土地を整え、道を通し、住宅を建てたあとにも、残されたものがありました。
雑木林の奥に目を向けました。
木々の間に、一本の木が立っています。
周囲の木と比べても、特別に大きいわけではありません。
幹は太く、枝は広がっています。
けれど、私には、その木が何であるか分かっていました。
「あなたは、ここに残っていたのですね」
私は木に近づきました。
枝の隙間から、住宅街の明かりが見えます。
人間が作った道路の向こうから、車の走る音が聞こえていました。
この場所に、かつて大きな木がありました。
今、目の前に立っている木とは違います。
もっと大きく、もっと太い木でした。
その枝は広く伸び、周囲の景色を覆うほどでした。
長い年月を、この場所で過ごしていた木です。
人間がまだこの土地を今のように整える前から、そこにありました。
山の斜面に根を張り、雨を受け、風を受け、季節が巡るたびに枝を伸ばしていました。
動物たちは、その木の周囲を通っていました。
鳥は枝に止まり、木の根元には小さな生き物が暮らしていました。
木の下を通る獣もいました。
木にとって、それは特別なことではありません。
ただ、そこに立ち、そこに生きていただけです。
やがて、人間がこの土地に手を入れました。
道が作られ、土地が切り開かれ、住宅が建てられていきました。
大きな木も、その変化から逃れることはできませんでした。
人間の手によって、木は切り倒されました。
私は、そのときのことを覚えています。
幹が倒れる音。
地面に伝わる振動。
枝が折れ、葉が散り、長い年月を生きてきた木が、地面に横たわりました。
私は、その様子を見ていました。
けれど、止めることはできませんでした。
雨を止めることができないように、私にも、すべての変化を止める力があるわけではないのです。
木が倒れたあと、その場所には、しばらくの間、切り株と根が残っていました。
土の中には、地上から見えなくなった根が広がっていました。
木は倒されました。
けれど、すべてがなくなったわけではありませんでした。
その木の近くに、一本の小さな木が育っていました。
元の木から落ちた種から芽を出した木です。
最初は、周囲の草や低い木に隠れてしまうほど小さなものでした。
誰も気に留めなかったでしょう。
人間にとっては、そこに生えた一本の若木にすぎません。
けれど、その木は少しずつ成長していきました。
季節を重ね、枝を伸ばし、幹を太くしていきました。
そして、今、私の目の前に立っています。
「あなたは、あの木から生まれたのですね」
風が吹きました。
枝が揺れ、葉が擦れ合う音がしました。
私は幹に手を触れました。
冷たい感触が、手のひらに伝わってきます。
木の表面には、長い年月を経てできた凹凸がありました。
その下には、土の中へ伸びる根があります。
あの大木と同じ木ではありません。
けれど、あの木の種から生まれ、あの木が生きていた場所の近くで育ちました。
命は、形を変えて続いていたのです。
「木は、なくなったと思われていたのでしょうね」
私は、少し離れて木を見上げました。
人間は、木を切り倒しました。
土地を整え、道を作り、暮らしの場所を広げました。
そのことを、私は責めるつもりはありません。
ただ、木がなくなったと思っていたとしても、そこにあった時間まで消えたわけではありません。
種は芽を出し、別の木として育ちました。
そして、その木は今もここに立っています。
私は、もう一度、幹に触れました。
そのとき、周囲の気配がわずかに変わりました。
風が止まったわけではありません。
池の水も揺れています。
住宅街から聞こえる音も、消えてはいませんでした。
けれど、木の周囲だけ、時間の重なり方が違っているように感じました。
私は目を閉じました。
そこに見えたのは、今の雑木林だけではありませんでした。
大きな木が立っていた頃の景色。
切り倒されたあとの地面。
小さな芽が土から顔を出した頃。
そして、成長した木の下に、人間が立っている姿。
人間たちは、この木を見上げていました。
ある者は、手を合わせていました。
ある者は、静かに頭を下げていました。
何かを願う者もいました。
木に向けられた思いは、一人ひとり違っていたのでしょう。
願いも、祈りも、感謝も。
それらは木に向けられ、長い時間をかけて積み重なっていきました。
私は目を開けました。
「そうでしたか」
木は、何も答えません。
ただ、そこに立っています。
私は、この木がどのようにして今の姿になったのかを知っています。
けれど、木に積み重なったものすべてを、私が理解しているわけではありません。
木が記録しているもの。
人間が残していったもの。
動物たちが、この場所に寄せてきたもの。
それらは、同じではありません。
けれど、どれも、この場所にあった時間です。
「ずいぶん、いろいろなものを抱えていますね」
私は、少し笑いました。
「私も、あまり人のことは言えませんが。なにしろ兼務ですから」
返事はありません。
木の枝が、もう一度揺れました。
そのとき、周囲の気配がわずかに変わりました。
落ち葉を踏む音が聞こえました。
振り向くと、タヌキがこちらを見ていました。
「神さま、こんなところにいたんですか」
「ええ。少し確認したいことがありまして」
「木ですか」
「そうです」
タヌキは木を見上げました。
それから、何でもないことのように言いました。
「ここは、昔から木があるところですよ」
「昔から、ですか」
「ええ。イオウの家が増える前から、ここには木がありました。道も、今とは違いましたけどね」
タヌキは、雑木林の外側を見ました。
住宅街の明かりが、木々の隙間から見えています。
「イオウは、ずいぶん変えましたね」
「そうですね」
「でも、全部なくなったわけじゃない」
タヌキは、そう言って鼻を動かしました。
「ここを通るものは、今もいますよ。昼間はイオウが歩いていますけど、夜になれば、こっちを通るものもいる」
「あなたも、その一匹ですね」
「まあ、そういうことです」
タヌキは、少し得意そうに尻尾を揺らしました。
私は木を見上げました。
この木は、人間の目には、雑木林に立つ一本の木に見えるでしょう。
動物たちにとっては、昔から続く暮らしの場所にある木です。
そして、私にとっては、切り倒された大木から続く命の痕跡でした。
同じ木を見ていても、見えているものは違います。
それでも、木はそこに立っています。
住宅街の明かりのすぐそばで。
調整池の水辺の横で。
桜並木の近くで。
山の名残が残る、この境界の場所で。
私は、木から手を離しました。
今朝、上流で見つけた、あの古い根と白い筋のことが頭をよぎりました。
あの根は、何につながっているのでしょう。
目の前の木の根なのか。
かつて切り倒された大木のものなのか。
それとも、私がまだ知らない何かなのか。
今は、まだ分かりません。
木の由来を知ったからといって、土の中に残されたものまで分かったわけではないのです。
「あの根のことは、もう少し調べてみましょう」
私は、誰に聞かせるでもなく、そう言いました。
「もう少し、ここを見ていくことにします」
「好きにすればいいですよ。私は腹が減ったので、先に行きます」
「ええ。気をつけて」
タヌキは落ち葉を踏みながら、雑木林の奥へ歩いていきました。
私は、しばらくその背中を見送っていました。
やがて、調整池のほうから風が吹いてきました。
水面が揺れ、桜並木の枝が音を立てます。
住宅街では、どこかの家の窓に明かりがついていました。
人間の暮らしは、今日も続いています。
動物たちの暮らしも、ここで続いています。
そして、木もまた、ここに立っています。
切り倒された大木は、もうありません。
けれど、その木から生まれた命は、確かに残っていました。
木は、なくなっていなかったのです。




