第9話 上流に残るもの
翌朝、空はまだ明るくなりきっていませんでした。
雲の切れ間から薄い光が差し、濡れた木々の葉先が、ところどころ銀色に光っています。
夜の雨は上がっていましたが、土はまだ水を含んでいました。草の間には小さな雫が残り、風が吹くたびに葉が触れ合う音がします。
私は成田せせらぎ緑道の水辺に立っていました。
昨夜見つけた白い欠片は、元の場所に戻してあります。
持ち帰って調べることもできましたが、あの場所にあったものを、私の都合で持ち去るのは違う気がしました。
それに、今はまだ、欠片そのものを調べるよりも、水の流れをたどる方がよさそうです。
昨夜、水底で見つけた逆向きの流れ。
水面に映った大木。
そして、年輪のような筋が刻まれた白い欠片。
あれから、ずっと考えていました。
水は、どこから来て、どこへ向かうのか。
まずは、その流れをたどってみることにしました。
「さて、どちらでしょうね」
私は水面をのぞき込みました。
朝の水は、夜よりも表情がはっきりしています。
小さな泡が石の脇を通り、細い枝が流れに押されて、ゆっくりと下っていきます。
水の音も違います。
夜は周囲の音が少ないため、水の流れが大きく聞こえます。朝は鳥の声や風の音が重なり、その中に水の音が混じっていました。
私は流れの向きを確かめながら、上流へ歩き始めました。
水路の脇には、昨夜の雨で落ちた葉がたまっています。
濡れた土は柔らかく、足を置くと、わずかに沈みました。
人間の道は、歩きやすいように整えられています。
けれど、水の道はそうはいきません。
石にぶつかれば分かれ、低い場所があればそちらへ流れ、土に染み込めば、地面の下へ姿を隠します。
水は、決められた道だけを通るわけではないのです。
しばらく進むと、水路の端に小さな水たまりがありました。
その中で、何かが動きました。
細長い影です。
私は足を止めました。
「おや。こんなところにいましたか」
水の底に、小さな魚が一匹いました。
流れの強い場所を避け、石の陰に身を寄せています。
魚は私の姿を見ても、特に驚く様子はありません。
尾を小さく動かし、石の隙間へ頭を向けました。
「ここは、流れが弱いのでしょうか」
「強いところは、流されるからね」
水の中から声がしました。
魚の声でした。
「ここなら、休めるんだ」
「昨夜も、ここに?」
「いたよ。水が変だったから」
「どのように?」
魚は少しだけ身体の向きを変えました。
「上から来る水は、いつもと同じだった。でも、下の方から押される感じがした」
「下から?」
「うん。石の間を通ってくる水が、いつもと違った。冷たかったし、流れも反対だった」
私は水面を見ました。
昨夜、私が見た逆向きの流れ。
魚もまた、それを感じていたようです。
ただ、魚が知っているのは、水の中のことだけです。
どこから来た水なのか、なぜ流れが変わったのかまでは分かりません。
「今はどうです?」
「もう、いつもどおりだよ」
魚は石の陰から出ると、水たまりの奥へ泳いでいきました。
私は、その場所を見つめました。
同じ変化を、私は流れとして見ていました。
魚は、水温と身体に伝わる水の押し方で感じていたのでしょう。
水の中にいるものには、水の変化が分かる。
当たり前のことですが、私には少し興味深いことでした。
私は水路の先へ目を向けました。
その先は、木々の間へ続いています。
魚が感じた水の流れは、どこから来たのでしょう。
私は再び歩き始めました。
やがて、水路の幅が狭くなりました。
両側には草が生え、ところどころに石が露出しています。
雨水が斜面を伝って流れ込んだ跡もありました。
人間が整えた水路と、自然にできた水の通り道が、ここでは入り交じっています。
私はしゃがみ込み、石の隙間をのぞきました。
水が流れています。
けれど、表面にはほとんど動きがありません。
耳を近づけると、低い音が聞こえました。
石の下を通り抜ける水の音です。
「ここを通っているのですか」
私は石に手を触れました。
冷たさが指先から伝わってきます。
そのとき、足元の草がわずかに揺れました。
草の陰から、細い頭がのぞきました。
イモリでした。
濡れた身体に、朝の光がわずかに反射しています。
イモリは私を見て、それから石の隙間へ目を向けました。
「そこは、通れないよ」
「通れない?」
「前は通れたけどね」
イモリは石の脇をゆっくり進みました。
「土が動いたんだ。石もずれた。水の通り道が変わった」
「雨のせいでしょうか」
「雨だけじゃないよ。もっと前から、少しずつ変わっていた」
私はイモリの言葉を聞きました。
「もっと前から?」
「うん。土が固くなったところもあるし、柔らかくなったところもある。前に水が通っていた場所が、今は乾いている」
イモリは、石の隙間に身体を寄せました。
「こっちなら通れる」
そう言って、草の陰へ消えていきました。
私は石を見ました。
水の通り道が変わったのでしょう。
雨が降れば土が動き、石がずれ、流れが変わることもあります。
しかし、イモリの話では、変化は昨夜始まったものではありません。
もっと長い時間をかけて、土地そのものが変わっていたようです。
私は水路の先へ進みました。
低い木々の間を抜けると、地面が少し傾いていました。
斜面には落ち葉が積もり、その下から湿った土の匂いが立ち上っています。
水は斜面を伝い、ところどころで地面に吸い込まれていました。
その先に、太い木の根が見えました。
地面から大きく露出した根です。
雨に洗われた土の間から、何本もの根が伸びています。
私は近づき、根の表面を見ました。
かなり古いもののようです。
表面には細かな割れ目があり、ところどころ苔が付いています。
その根の脇を、水が流れていました。
私はしゃがみ込みました。
水は根の表面を伝い、途中から土の中へ消えています。
そのとき、根の奥に白いものが見えました。
私は顔を近づけました。
土の中から、細いものが突き出しています。
最初は木の皮かと思いました。
しかし、よく見ると違いました。
白い筋が何本も重なり、根の表面に沿って伸びています。
その一部は、土の中へ入り込んでいました。
私は指先を近づけました。
触れる直前に、手を止めました。
昨夜の欠片と似ています。
けれど、同じものだとは言い切れません。
私は周囲を見回しました。
露出した根は一本ではありません。
土の中から、さらに太い根が続いているようです。
そして、その根は、目の前の木の幹へつながっているようには見えませんでした。
かつて切り倒された、あの大木のことが頭をよぎりました。
「これは……」
私は少し離れた場所から、根の伸びる方向を確かめました。
土の中へ潜り込んだ根は、斜面の奥へ続いています。
その先は、草と落ち葉に覆われて見えません。
私は水の流れを確かめました。
根の脇を通る水は、地面の下へ吸い込まれています。
その流れの中に、昨夜感じたものとよく似た冷たさがありました。
水は、ここから先へ続いている。
私はそう感じました。
そのとき、遠くで鳥の声がしました。
風が吹き、頭上の枝が揺れます。
葉に残っていた雫が落ち、土の上に小さな跡をつくりました。
私は立ち上がりました。
無理に土を掘り返すつもりはありません。
ここにあるものを確かめるには、もう少し周囲を見ておく必要がありそうです。
それに、地面の下にあるものを、私が見つけたからといって、すぐに取り出してよいとは限りません。
水は、そこを通っています。
根もまた、そこにあります。
私は斜面の上を見ました。
木々の向こうに、さらに高い場所が続いています。
あの先に、何があるのでしょう。
私はもう一度、足元の水を見ました。
流れは細く、静かでした。
けれど、その水は確かに、土の中へ続いていました。
「もう少し、上まで行ってみましょうか」
私は歩き始めました。
斜面を上るにつれ、足元の土は少しずつ乾いていきました。
木々の間から差し込む光も、先ほどより明るくなっています。
水の音は遠ざかっていくように聞こえました。
しかし、耳を澄ますと、地面の下からかすかな響きが続いています。
水は、見えなくなっただけでした。
私は足を止めました。
そのとき、斜面の上から、風が吹き下ろしてきました。
湿った土の匂いに混じって、古い木の匂いがしました。
枯れた木の匂いとは違います。
長い間、土の中にあったものが、雨に濡れて、わずかに空気へ触れたときのような匂いでした。
私は斜面の上を見つめました。
そこには、木々の影が重なっています。
その奥に、何か大きなものがあるような気配がしました。
私は目を細めました。
まだ、姿は見えません。
けれど、昨夜水面に映った大木のことを思い出しました。
あの木は、どこにあったのでしょう。
そして、今見つけた根は、どこまで続いているのでしょう。
私は、もう一度歩き始めました。
水の流れを追いかけるつもりが、いつの間にか、土の中に残されたものを追っていました。
水は、今日も流れています。
見えるところでも。
見えないところでも。




