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夜道の向こう側 ―― Beyond the Night Road ――  作者: 静間 透
第三章 人間の知らない森
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第9話 上流に残るもの

翌朝、空はまだ明るくなりきっていませんでした。

雲の切れ間から薄い光が差し、濡れた木々の葉先が、ところどころ銀色に光っています。

夜の雨は上がっていましたが、土はまだ水を含んでいました。草の間には小さな雫が残り、風が吹くたびに葉が触れ合う音がします。

私は成田せせらぎ緑道の水辺に立っていました。

昨夜見つけた白い欠片は、元の場所に戻してあります。

持ち帰って調べることもできましたが、あの場所にあったものを、私の都合で持ち去るのは違う気がしました。

それに、今はまだ、欠片そのものを調べるよりも、水の流れをたどる方がよさそうです。

昨夜、水底で見つけた逆向きの流れ。

水面に映った大木。

そして、年輪のような筋が刻まれた白い欠片。

あれから、ずっと考えていました。

水は、どこから来て、どこへ向かうのか。

まずは、その流れをたどってみることにしました。

「さて、どちらでしょうね」

私は水面をのぞき込みました。

朝の水は、夜よりも表情がはっきりしています。

小さな泡が石の脇を通り、細い枝が流れに押されて、ゆっくりと下っていきます。

水の音も違います。

夜は周囲の音が少ないため、水の流れが大きく聞こえます。朝は鳥の声や風の音が重なり、その中に水の音が混じっていました。

私は流れの向きを確かめながら、上流へ歩き始めました。

水路の脇には、昨夜の雨で落ちた葉がたまっています。

濡れた土は柔らかく、足を置くと、わずかに沈みました。

人間の道は、歩きやすいように整えられています。

けれど、水の道はそうはいきません。

石にぶつかれば分かれ、低い場所があればそちらへ流れ、土に染み込めば、地面の下へ姿を隠します。

水は、決められた道だけを通るわけではないのです。

しばらく進むと、水路の端に小さな水たまりがありました。

その中で、何かが動きました。

細長い影です。

私は足を止めました。

「おや。こんなところにいましたか」

水の底に、小さな魚が一匹いました。

流れの強い場所を避け、石の陰に身を寄せています。

魚は私の姿を見ても、特に驚く様子はありません。

尾を小さく動かし、石の隙間へ頭を向けました。

「ここは、流れが弱いのでしょうか」

「強いところは、流されるからね」

水の中から声がしました。

魚の声でした。

「ここなら、休めるんだ」

「昨夜も、ここに?」

「いたよ。水が変だったから」

「どのように?」

魚は少しだけ身体の向きを変えました。

「上から来る水は、いつもと同じだった。でも、下の方から押される感じがした」

「下から?」

「うん。石の間を通ってくる水が、いつもと違った。冷たかったし、流れも反対だった」

私は水面を見ました。

昨夜、私が見た逆向きの流れ。

魚もまた、それを感じていたようです。

ただ、魚が知っているのは、水の中のことだけです。

どこから来た水なのか、なぜ流れが変わったのかまでは分かりません。

「今はどうです?」

「もう、いつもどおりだよ」

魚は石の陰から出ると、水たまりの奥へ泳いでいきました。

私は、その場所を見つめました。

同じ変化を、私は流れとして見ていました。

魚は、水温と身体に伝わる水の押し方で感じていたのでしょう。

水の中にいるものには、水の変化が分かる。

当たり前のことですが、私には少し興味深いことでした。

私は水路の先へ目を向けました。

その先は、木々の間へ続いています。

魚が感じた水の流れは、どこから来たのでしょう。

私は再び歩き始めました。

やがて、水路の幅が狭くなりました。

両側には草が生え、ところどころに石が露出しています。

雨水が斜面を伝って流れ込んだ跡もありました。

人間が整えた水路と、自然にできた水の通り道が、ここでは入り交じっています。

私はしゃがみ込み、石の隙間をのぞきました。

水が流れています。

けれど、表面にはほとんど動きがありません。

耳を近づけると、低い音が聞こえました。

石の下を通り抜ける水の音です。

「ここを通っているのですか」

私は石に手を触れました。

冷たさが指先から伝わってきます。

そのとき、足元の草がわずかに揺れました。

草の陰から、細い頭がのぞきました。

イモリでした。

濡れた身体に、朝の光がわずかに反射しています。

イモリは私を見て、それから石の隙間へ目を向けました。

「そこは、通れないよ」

「通れない?」

「前は通れたけどね」

イモリは石の脇をゆっくり進みました。

「土が動いたんだ。石もずれた。水の通り道が変わった」

「雨のせいでしょうか」

「雨だけじゃないよ。もっと前から、少しずつ変わっていた」

私はイモリの言葉を聞きました。

「もっと前から?」

「うん。土が固くなったところもあるし、柔らかくなったところもある。前に水が通っていた場所が、今は乾いている」

イモリは、石の隙間に身体を寄せました。

「こっちなら通れる」

そう言って、草の陰へ消えていきました。

私は石を見ました。

水の通り道が変わったのでしょう。

雨が降れば土が動き、石がずれ、流れが変わることもあります。

しかし、イモリの話では、変化は昨夜始まったものではありません。

もっと長い時間をかけて、土地そのものが変わっていたようです。

私は水路の先へ進みました。

低い木々の間を抜けると、地面が少し傾いていました。

斜面には落ち葉が積もり、その下から湿った土の匂いが立ち上っています。

水は斜面を伝い、ところどころで地面に吸い込まれていました。

その先に、太い木の根が見えました。

地面から大きく露出した根です。

雨に洗われた土の間から、何本もの根が伸びています。

私は近づき、根の表面を見ました。

かなり古いもののようです。

表面には細かな割れ目があり、ところどころ苔が付いています。

その根の脇を、水が流れていました。

私はしゃがみ込みました。

水は根の表面を伝い、途中から土の中へ消えています。

そのとき、根の奥に白いものが見えました。

私は顔を近づけました。

土の中から、細いものが突き出しています。

最初は木の皮かと思いました。

しかし、よく見ると違いました。

白い筋が何本も重なり、根の表面に沿って伸びています。

その一部は、土の中へ入り込んでいました。

私は指先を近づけました。

触れる直前に、手を止めました。

昨夜の欠片と似ています。

けれど、同じものだとは言い切れません。

私は周囲を見回しました。

露出した根は一本ではありません。

土の中から、さらに太い根が続いているようです。

そして、その根は、目の前の木の幹へつながっているようには見えませんでした。

かつて切り倒された、あの大木のことが頭をよぎりました。

「これは……」

私は少し離れた場所から、根の伸びる方向を確かめました。

土の中へ潜り込んだ根は、斜面の奥へ続いています。

その先は、草と落ち葉に覆われて見えません。

私は水の流れを確かめました。

根の脇を通る水は、地面の下へ吸い込まれています。

その流れの中に、昨夜感じたものとよく似た冷たさがありました。

水は、ここから先へ続いている。

私はそう感じました。

そのとき、遠くで鳥の声がしました。

風が吹き、頭上の枝が揺れます。

葉に残っていた雫が落ち、土の上に小さな跡をつくりました。

私は立ち上がりました。

無理に土を掘り返すつもりはありません。

ここにあるものを確かめるには、もう少し周囲を見ておく必要がありそうです。

それに、地面の下にあるものを、私が見つけたからといって、すぐに取り出してよいとは限りません。

水は、そこを通っています。

根もまた、そこにあります。

私は斜面の上を見ました。

木々の向こうに、さらに高い場所が続いています。

あの先に、何があるのでしょう。

私はもう一度、足元の水を見ました。

流れは細く、静かでした。

けれど、その水は確かに、土の中へ続いていました。

「もう少し、上まで行ってみましょうか」

私は歩き始めました。

斜面を上るにつれ、足元の土は少しずつ乾いていきました。

木々の間から差し込む光も、先ほどより明るくなっています。

水の音は遠ざかっていくように聞こえました。

しかし、耳を澄ますと、地面の下からかすかな響きが続いています。

水は、見えなくなっただけでした。

私は足を止めました。

そのとき、斜面の上から、風が吹き下ろしてきました。

湿った土の匂いに混じって、古い木の匂いがしました。

枯れた木の匂いとは違います。

長い間、土の中にあったものが、雨に濡れて、わずかに空気へ触れたときのような匂いでした。

私は斜面の上を見つめました。

そこには、木々の影が重なっています。

その奥に、何か大きなものがあるような気配がしました。

私は目を細めました。

まだ、姿は見えません。

けれど、昨夜水面に映った大木のことを思い出しました。

あの木は、どこにあったのでしょう。

そして、今見つけた根は、どこまで続いているのでしょう。

私は、もう一度歩き始めました。

水の流れを追いかけるつもりが、いつの間にか、土の中に残されたものを追っていました。

水は、今日も流れています。

見えるところでも。

見えないところでも。

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