↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜道の向こう側 ―― Beyond the Night Road ――  作者: 静間 透
第三章 人間の知らない森
PR
30/35

第8話 水の底を流れるもの

水は、眠りません。


夜になっても、雨が降っても、山から流れ出た水は、少しずつ姿を変えながら動き続けています。


人間が眠っている間も、動物たちが身を寄せ合っている間も、水は流れています。


私は、その流れを見ています。


もっとも、水は嘘をつきません。ただ、すべてを教えてくれるわけでもありません。


その夜、成田せせらぎ緑道を流れる水に、いつもとは違う動きがありました。


雨が上がってから、しばらく経っていました。


空には雲が残り、街灯の光が濡れた遊歩道に細長く伸びています。風は弱く、木々の葉から落ちる雫が、ときおり水面を叩いていました。


遠くの道路から車の音が聞こえます。


タイヤが濡れた路面を通り過ぎる音は、乾いた夜とは少し違います。低く、長く、地面の奥に残るような音でした。


私は流れのそばに立ち、足元を見ました。


水面は、いつもどおり下流へ向かって流れています。


ところが、その少し下。


石と石の間を通る水の一部が、反対向きに動いていました。


ほんのわずかです。


目で追わなければ、気づかないほどの動きでした。


「おや」


私は膝を曲げ、水面に顔を近づけました。


人間に近い姿をしていると、こういうときには少々不便です。水辺にしゃがみ込めば、衣の裾が濡れますし、夜風が首元に入り込めば寒さも感じます。


神様にも、寒いものは寒いのです。


私は襟元を直し、もう一度、水の動きを確かめました。


やはり、逆向きです。


表面の流れとは別に、底の方で何かが動いている。


そのとき、少し離れた水際から声がしました。


「そっちじゃないよ」


小さなカエルでした。


水草の陰から、丸い目だけをこちらに向けています。


「何がです?」


「魚だよ。さっきから、あそこにいる」


カエルが示した先には、浅い水のたまりがありました。


小さな魚が数匹、石の陰に集まっています。


「いつもは、もっと向こうにいるんだけどね」


「場所が変わったのですか」


「うん。水が変だからかな」


カエルは水面に浮かぶ小さな虫を見つけると、話の途中で舌を伸ばしました。


虫は消えました。


「まあ、魚がどこにいるかは、私には分かりませんからね」


「神様なのに?」


「神様にも、得意なことと、そうでないことがあります」


私は笑いました。


カエルは、もう私の話を聞いていませんでした。


水面に浮かんだ虫の方が、今は大事だったのでしょう。


それでいいのです。


同じ水辺にいても、私が見ているものと、カエルが見ているものは違います。


私は流れを見ていました。


カエルは魚を見ていました。


どちらも、同じ場所で起きていることです。


私は再び、水の中へ目を向けました。


水の神だからといって、水の記憶を自由に読み取れるわけではありません。


水は流れ、地形に沿い、石にぶつかり、土の中へ染み込んでいきます。その一つひとつの動きには理由があります。


けれど、その理由がいつも私に分かるとは限りません。


私は手を水面に近づけました。


指先に冷たさが伝わります。


表面の水は、確かに下流へ向かっていました。


しかし、底の方から伝わってくる冷たさは違いました。


水底の石に沿って、細い流れが逆向きに走っています。


その流れに押されるように、一枚の枯れ葉が石の隙間へ入り込みました。


葉は一度、そこで止まりました。


そして、ゆっくりと上流側へ動き始めたのです。


「これは……」


私は手を引きました。


水面に、緑道沿いの木々が映っています。


街灯の光が揺れ、枝の影が細かく分かれていました。


けれど、その景色の奥に、もう一つの景色が重なっていました。


太い幹。


低く伸びた枝。


今はないはずの斜面。


そこには、現在の緑道には見当たらない木々が立っていました。


私は息を止めました。


水面に映る景色は、風に揺れることなく、静かにそこにありました。


その奥に、大きな木が見えます。


幹は太く、枝は地面に届きそうなほど低く伸びていました。


そして、枝の分かれ目に、白いものが絡んでいました。


糸のようにも見えます。


細い根のようにも見えました。


風もないのに、それだけがかすかに揺れていました。


私は顔を上げました。


目の前にあるのは、街灯に照らされた緑道の木々です。


大きな木も、白いものもありません。


もう一度、水面を見ました。


景色は消えていました。


残っていたのは、夜空と街灯の光、それから水草の影だけです。


「神様?」


カエルがこちらを見ています。


「どうしました?」


「今、何か見てたでしょ」


「ええ。少し気になるものを見ました」


「魚?」


「いいえ。魚ではありません」


カエルは首を傾けました。


「ふうん」


それ以上、尋ねることはありませんでした。


カエルにとっては、魚の居場所の方が重要だったのでしょう。


私は水辺から立ち上がりました。


濡れた指先を衣で拭います。


そのとき、上の枝から声が降ってきました。


「何を見ていたんだ?」


カラスでした。


いつからそこにいたのか、分かりません。


枝の上で片足を上げ、こちらを見下ろしています。


「水の中です」


「水の中なら、魚でも見ていたのか」


「魚ではありませんよ」


「じゃあ、何だ?」


「それを確かめているところです」


カラスは首を傾けました。


「オイズの方で、何かあったのか?」


「今のところ、そういう話は聞いていません」


「イオウの道は、雨のあとも騒がしいけどな」


「人間の道ですか」


「そうだよ。車が通る。灯りがつく。夜中でも音がする。あれは、ずいぶん忙しい」


カラスは羽を少し広げました。


濡れた羽毛を整えるように、嘴で肩のあたりをつついています。


「それで、何を見たんだ?」


「まだ、話せるほどのことではありません」


「ふうん。神様も秘密があるんだな」


「秘密というほどのものではありません。私にも、まだ説明がつかないだけです」


「似たようなもんだろ」


カラスは短く鳴きました。


そして、枝から飛び立ちました。


羽ばたく音が、夜の空気を二度、三度と叩きます。


カラスは緑道の向こうへ飛んでいきました。


何かを見つけたのかもしれません。


あるいは、ただ別の場所へ移動しただけかもしれません。


私は、その姿を見送りました。


水辺に戻ると、流れは元に戻っていました。


水面は下流へ向かい、石の間を通る水も、先ほどのような逆向きの動きを見せていません。


けれど、石の隙間には、あの枯れ葉が残っていました。


上流側へ進んだはずの葉は、途中で何かに引っかかったように、細い枝の下に挟まっています。


私はしゃがみ込みました。


その枝のそばに、小さな白いものがありました。


木の皮のようにも見えます。


薄く、細く、指先ほどの大きさです。


私はそれを拾い上げました。


表面には、細い筋が何本も走っています。


年輪のようにも見えました。


しかし、これがどの木から剥がれたものなのか、私には分かりませんでした。


水に濡れたそれは、手の中で静かに冷えていました。


私は白い欠片を、しばらく見つめました。


持ち帰って調べることもできるでしょう。


けれど、ここにあったものを、私の都合で持ち去るのは違う気がしました。


私は欠片を、元の場所へ戻しました。


先ほど水面に映った大木。


枝の分かれ目に絡んでいた白いもの。


そして、この小さな欠片。


関係があるのかもしれません。


ただ、今ここで結びつけるのは早いでしょう。


水は、何事もなかったように流れていきます。


遠くで車の音がしました。


カエルは水草の陰に戻り、カラスの姿はもう見えません。


夜の緑道には、いつもの音が戻っていました。


けれど、水底の石の隙間には、まだ冷たさが残っています。


私はもう一度、水面を見ました。


そこには、今の景色しか映っていません。


それでも、先ほど見た大木の姿は、頭から離れませんでした。


あの木は、どこにあったのでしょう。


そして、枝に絡んでいた白いものは、何だったのでしょう。


私は水の流れに目を向けました。


水は、何も答えません。


ただ、底の方で、ほんのわずかに流れが揺れました。


「さて……」


私は襟元を直しました。


「明日は、少し上流まで見に行ってみましょうか」


水の神にも、歩いて確かめなければならないことがあるのです。


水は眠りません。


その底で、何かが動いている間は。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。