第8話 水の底を流れるもの
水は、眠りません。
夜になっても、雨が降っても、山から流れ出た水は、少しずつ姿を変えながら動き続けています。
人間が眠っている間も、動物たちが身を寄せ合っている間も、水は流れています。
私は、その流れを見ています。
もっとも、水は嘘をつきません。ただ、すべてを教えてくれるわけでもありません。
その夜、成田せせらぎ緑道を流れる水に、いつもとは違う動きがありました。
雨が上がってから、しばらく経っていました。
空には雲が残り、街灯の光が濡れた遊歩道に細長く伸びています。風は弱く、木々の葉から落ちる雫が、ときおり水面を叩いていました。
遠くの道路から車の音が聞こえます。
タイヤが濡れた路面を通り過ぎる音は、乾いた夜とは少し違います。低く、長く、地面の奥に残るような音でした。
私は流れのそばに立ち、足元を見ました。
水面は、いつもどおり下流へ向かって流れています。
ところが、その少し下。
石と石の間を通る水の一部が、反対向きに動いていました。
ほんのわずかです。
目で追わなければ、気づかないほどの動きでした。
「おや」
私は膝を曲げ、水面に顔を近づけました。
人間に近い姿をしていると、こういうときには少々不便です。水辺にしゃがみ込めば、衣の裾が濡れますし、夜風が首元に入り込めば寒さも感じます。
神様にも、寒いものは寒いのです。
私は襟元を直し、もう一度、水の動きを確かめました。
やはり、逆向きです。
表面の流れとは別に、底の方で何かが動いている。
そのとき、少し離れた水際から声がしました。
「そっちじゃないよ」
小さなカエルでした。
水草の陰から、丸い目だけをこちらに向けています。
「何がです?」
「魚だよ。さっきから、あそこにいる」
カエルが示した先には、浅い水のたまりがありました。
小さな魚が数匹、石の陰に集まっています。
「いつもは、もっと向こうにいるんだけどね」
「場所が変わったのですか」
「うん。水が変だからかな」
カエルは水面に浮かぶ小さな虫を見つけると、話の途中で舌を伸ばしました。
虫は消えました。
「まあ、魚がどこにいるかは、私には分かりませんからね」
「神様なのに?」
「神様にも、得意なことと、そうでないことがあります」
私は笑いました。
カエルは、もう私の話を聞いていませんでした。
水面に浮かんだ虫の方が、今は大事だったのでしょう。
それでいいのです。
同じ水辺にいても、私が見ているものと、カエルが見ているものは違います。
私は流れを見ていました。
カエルは魚を見ていました。
どちらも、同じ場所で起きていることです。
私は再び、水の中へ目を向けました。
水の神だからといって、水の記憶を自由に読み取れるわけではありません。
水は流れ、地形に沿い、石にぶつかり、土の中へ染み込んでいきます。その一つひとつの動きには理由があります。
けれど、その理由がいつも私に分かるとは限りません。
私は手を水面に近づけました。
指先に冷たさが伝わります。
表面の水は、確かに下流へ向かっていました。
しかし、底の方から伝わってくる冷たさは違いました。
水底の石に沿って、細い流れが逆向きに走っています。
その流れに押されるように、一枚の枯れ葉が石の隙間へ入り込みました。
葉は一度、そこで止まりました。
そして、ゆっくりと上流側へ動き始めたのです。
「これは……」
私は手を引きました。
水面に、緑道沿いの木々が映っています。
街灯の光が揺れ、枝の影が細かく分かれていました。
けれど、その景色の奥に、もう一つの景色が重なっていました。
太い幹。
低く伸びた枝。
今はないはずの斜面。
そこには、現在の緑道には見当たらない木々が立っていました。
私は息を止めました。
水面に映る景色は、風に揺れることなく、静かにそこにありました。
その奥に、大きな木が見えます。
幹は太く、枝は地面に届きそうなほど低く伸びていました。
そして、枝の分かれ目に、白いものが絡んでいました。
糸のようにも見えます。
細い根のようにも見えました。
風もないのに、それだけがかすかに揺れていました。
私は顔を上げました。
目の前にあるのは、街灯に照らされた緑道の木々です。
大きな木も、白いものもありません。
もう一度、水面を見ました。
景色は消えていました。
残っていたのは、夜空と街灯の光、それから水草の影だけです。
「神様?」
カエルがこちらを見ています。
「どうしました?」
「今、何か見てたでしょ」
「ええ。少し気になるものを見ました」
「魚?」
「いいえ。魚ではありません」
カエルは首を傾けました。
「ふうん」
それ以上、尋ねることはありませんでした。
カエルにとっては、魚の居場所の方が重要だったのでしょう。
私は水辺から立ち上がりました。
濡れた指先を衣で拭います。
そのとき、上の枝から声が降ってきました。
「何を見ていたんだ?」
カラスでした。
いつからそこにいたのか、分かりません。
枝の上で片足を上げ、こちらを見下ろしています。
「水の中です」
「水の中なら、魚でも見ていたのか」
「魚ではありませんよ」
「じゃあ、何だ?」
「それを確かめているところです」
カラスは首を傾けました。
「オイズの方で、何かあったのか?」
「今のところ、そういう話は聞いていません」
「イオウの道は、雨のあとも騒がしいけどな」
「人間の道ですか」
「そうだよ。車が通る。灯りがつく。夜中でも音がする。あれは、ずいぶん忙しい」
カラスは羽を少し広げました。
濡れた羽毛を整えるように、嘴で肩のあたりをつついています。
「それで、何を見たんだ?」
「まだ、話せるほどのことではありません」
「ふうん。神様も秘密があるんだな」
「秘密というほどのものではありません。私にも、まだ説明がつかないだけです」
「似たようなもんだろ」
カラスは短く鳴きました。
そして、枝から飛び立ちました。
羽ばたく音が、夜の空気を二度、三度と叩きます。
カラスは緑道の向こうへ飛んでいきました。
何かを見つけたのかもしれません。
あるいは、ただ別の場所へ移動しただけかもしれません。
私は、その姿を見送りました。
水辺に戻ると、流れは元に戻っていました。
水面は下流へ向かい、石の間を通る水も、先ほどのような逆向きの動きを見せていません。
けれど、石の隙間には、あの枯れ葉が残っていました。
上流側へ進んだはずの葉は、途中で何かに引っかかったように、細い枝の下に挟まっています。
私はしゃがみ込みました。
その枝のそばに、小さな白いものがありました。
木の皮のようにも見えます。
薄く、細く、指先ほどの大きさです。
私はそれを拾い上げました。
表面には、細い筋が何本も走っています。
年輪のようにも見えました。
しかし、これがどの木から剥がれたものなのか、私には分かりませんでした。
水に濡れたそれは、手の中で静かに冷えていました。
私は白い欠片を、しばらく見つめました。
持ち帰って調べることもできるでしょう。
けれど、ここにあったものを、私の都合で持ち去るのは違う気がしました。
私は欠片を、元の場所へ戻しました。
先ほど水面に映った大木。
枝の分かれ目に絡んでいた白いもの。
そして、この小さな欠片。
関係があるのかもしれません。
ただ、今ここで結びつけるのは早いでしょう。
水は、何事もなかったように流れていきます。
遠くで車の音がしました。
カエルは水草の陰に戻り、カラスの姿はもう見えません。
夜の緑道には、いつもの音が戻っていました。
けれど、水底の石の隙間には、まだ冷たさが残っています。
私はもう一度、水面を見ました。
そこには、今の景色しか映っていません。
それでも、先ほど見た大木の姿は、頭から離れませんでした。
あの木は、どこにあったのでしょう。
そして、枝に絡んでいた白いものは、何だったのでしょう。
私は水の流れに目を向けました。
水は、何も答えません。
ただ、底の方で、ほんのわずかに流れが揺れました。
「さて……」
私は襟元を直しました。
「明日は、少し上流まで見に行ってみましょうか」
水の神にも、歩いて確かめなければならないことがあるのです。
水は眠りません。
その底で、何かが動いている間は。




