第5話――その5(後編)―山はまだ、そこにある
風が止まっていました。
木々の葉は動かず、枝先に残っていた雨粒も、落ちる気配を見せません。
大清水の水面には、周囲の木々が映っています。
水は流れています。
岸辺から少し離れたところでは、雨で流されてきた細い枝が、水の動きに合わせてゆっくりと向きを変えていました。
けれど、水面には波紋がありません。
カラスは、枝の上で首を伸ばしました。
白い木の枝先に、淡い光が浮かんでいます。
最初は、雨粒が残っているのかと思いました。
しかし、光は落ちません。
枝の先に留まり、ゆっくりと広がっていきます。
カラスは、目を細めました。
「また、始まったな」
誰に言うでもなく、そうつぶやきました。
タヌキが顔を上げました。
「そうだね」
それだけでした。
カラスは、もう一度白い木を見ました。
枝の間に、白いものが増えています。
花でした。
ひとつの枝に、またひとつ。
その隣の枝にも、さらに奥の枝にも。
白い花びらが、暗い夜の中に浮かび上がっていました。
けれど、木そのものに花が咲いているようには見えません。
枝の輪郭は、そこにあります。
幹も、根元も、いつもの白い木のままです。
それなのに、花だけが枝の間に現れています。
やがて、花は木全体へ広がっていきました。
枝先から幹の近くまで。
高いところから、低いところまで。
夜の雑木林に、満開の桜が広がっていきます。
「きれいだな」
タヌキが言いました。
カモシカは、木を見上げていました。
「今年も咲いたな」
「そうだな」
イノシシが鼻先を上げました。
「匂いはしないな」
「花の匂いがする日もあるし、しない日もある」
タヌキが答えました。
「今日は、しない」
イノシシは、もう一度鼻を動かしました。
濡れた土の匂いはします。
落ち葉の匂いもします。
水の匂いも、ほかの動物たちの匂いもあります。
けれど、桜の匂いはありませんでした。
それでも、イノシシは花を見ていました。
キツネは、少し離れた場所に座っていました。
耳を立て、周囲の音を聞いています。
いつもなら、遠くの車の音や、木々の間を動く小さな生き物の気配が聞こえます。
今夜も、音が完全になくなったわけではありません。
水の流れは続いています。
葉から落ちる雫もあります。
けれど、それらの音が、ひとつ遠くに引いたようでした。
キツネは、白い木を見ました。
それから、周囲にいる動物たちへ視線を移しました。
熊は、立ったまま動きません。
鼻先を少し上げています。
花の匂いを探しているわけではありません。
もっと奥にあるものを確かめようとしているようでした。
熊の胸の奥に、古い記憶が浮かんでいました。
水のそば。
湿った土。
木々の間を通る風。
まだ知らない道を歩いていたころの感覚。
それが、いつの記憶なのかは分かりません。
熊は、前脚を一歩だけ動かしました。
白い木の方へ向かうわけではありません。
ただ、足元の土を確かめるように、ゆっくりと踏み出しました。
タヌキは、そんな熊を見ていました。
「何か思い出したのか?」
「分からない」
「そうか」
タヌキは、それ以上聞きませんでした。
自分にも、思い出せない話がありました。
家に伝わる昔話。
人間の姿になった者の話。
山の中で、いつもとは違うものを見たという話。
細かなところは覚えていません。
けれど、昔から聞いてきた話でした。
「昔からそうだった」
タヌキが言いました。
「何が?」
カラスが尋ねました。
「ここは、昔からこういうところさ」
タヌキは白い木を見上げました。
「そうか」
カラスは、それだけ答えました。
それ以上、誰も尋ねませんでした。
イタチは、花を見上げていました。
「今日は、食べ物の匂いがしないな」
「まだ食べることを考えているのか」
カラスが言いました。
「当たり前だろう。花を見ても腹は膨れない」
「それもそうだな」
カラスは、短く鳴きました。
イタチは、草むらへ戻ろうとしました。
しかし、二、三歩進んだところで、もう一度白い木を振り返りました。
そして、何事もなかったように、草の間へ姿を消しました。
水辺では、小さな生き物たちが静かに動いていました。
水の中を泳ぐもの。
石の陰に身を寄せるもの。
岸辺の草に隠れるもの。
それぞれの場所で、いつものように生きています。
水面に映った桜の花は、流れに合わせてわずかに揺れていました。
けれど、実際の水面には、花びらは落ちていません。
水の中にも、花はありません。
それでも、水面には満開の桜が映っていました。
カラスが枝から飛び立ちました。
羽ばたきの音が、夜の空気に広がります。
白い木の上を一度回り、少し離れた枝に止まりました。
「今年も、よく咲いたな」
カラスが言いました。
「そうだね」
タヌキが答えました。
「去年より多いか?」
「どうだろうね」
「お前は覚えていないのか?」
「花の数まで数えていないよ」
タヌキは笑いました。
カラスは、もう一度花を見ました。
数えようとはしませんでした。
熊は、白い木から目を離していました。
今度は、雑木林の奥を見ています。
そこには、雨に濡れた木々が重なっていました。
その先に、道が続いています。
熊は、その道を知っているような気がしました。
しかし、今夜はそこへ行こうとは思いませんでした。
しばらく、そこに立っていました。
やがて、ゆっくりと座り込みました。
タヌキも、カモシカも、キツネも、それぞれの場所にいました。
誰かが何かを願っているようには見えません。
誰かが祈っているわけでもありません。
ただ、そこにいました。
それぞれの身体に、それぞれの時間が流れていました。
腹を満たしたいもの。
帰る道を探すもの。
濡れた足場を気にするもの。
遠くの音を聞いているもの。
人間の暮らす場所を知るもの。
山の奥を覚えているもの。
そのすべてが、同じ場所に集まっていました。
白い木の枝に広がる花は、さらに明るさを増していました。
夜の暗さを消すほどではありません。
周囲の木々を照らすほどでもありません。
けれど、花の一輪一輪が、そこにあることを確かに感じさせます。
花びらの縁が淡く光り、重なった白が、少しずつ深みを増していきました。
幹の白い線も、枝の白い花も、ひとつの景色の中に溶け込んでいます。
それぞれの動物が、そこにいる。
それぞれの身体が、土に触れている。
水を探すもの。
食べ物を探すもの。
道の先を確かめるもの。
風の変化を待つもの。
誰も声を上げてはいませんでした。
けれど、白い木の根元に流れ込んだ雨水が、ほんのわずかに揺れました。
水面に小さな輪が広がります。
その輪は、風もないのに、ゆっくりと外へ向かっていきました。
花の奥で、何かが揺れました。
風はありません。
枝も動いていません。
それなのに、花の一部が、ゆっくりと波打つように揺れました。
一度。
もう一度。
その揺れは、枝から枝へと伝わっていきます。
カモシカが顔を上げました。
キツネの耳が、わずかに動きます。
熊は、再び白い木を見ました。
タヌキは、何も言いませんでした。
花の奥に、白い線が浮かんでいました。
幹に沿って伸びる、細い線。
それは枝の間を通り、花の向こうへ続いているように見えます。
線は、ゆっくりと明るさを増していきました。
その光が、木の幹から外へ広がります。
花びらの一枚一枚が、淡く揺れました。
そして、夜の空気に、かすかな声が混じりました。
「……まだ、道は残っている」
誰かが言ったのか。
どこから聞こえたのか。
その場にいた者たちは、誰も確かめようとはしませんでした。
熊は、白い木を見ていました。
タヌキは、目を細めました。
カラスは、鳴きませんでした。
その声が聞こえたあとも、花は咲き続けていました。
私は、成田せせらぎ緑道の水辺にいました。
大清水の方から、いつもとは違う気配が届いています。
水の流れが、わずかに変わりました。
風は止まっています。
それなのに、水面の上を何かが通り過ぎたように感じられました。
私は、目を閉じました。
動物たちの声が聞こえます。
それぞれの声は違います。
腹を満たしたいものもいれば、道を探しているものもいます。人間の近くを知るものも、山の奥を覚えているものもいます。
私は、白い木のことを知っています。
あの木に桜が現れることも、初めてではありません。
動物たちが、それを特別なこととして騒がないのも知っています。
けれど、今夜は違いました。
いつもと同じように見える花の奥に、何かがありました。
それが何なのか、私には分かりません。
ただ、白い木の枝を伝う光と、水の流れの変化が、どこかでつながっているように感じました。
私は、水面に目を向けました。
そこには、いつもの夜が映っていました。
けれど、遠くの大清水では、満開の桜が咲いています。
「不思議なものですね」
私は、そうつぶやきました。
「長く見ていても、分からないことはあるものです」
水は、何も答えませんでした。
大清水では、動物たちが少しずつ動き始めていました。
カモシカは、足元を確かめながら斜面へ向かいます。
イノシシは、鼻先を地面につけ、落ち葉を掘り返し始めました。
キツネは、風の向きを確かめてから林の奥へ消えていきます。
イタチは、もう食べ物を探しています。
タヌキは、白い木を一度振り返りました。
熊は、最後までその場に残っていました。
白い木の前で、ゆっくりと頭を下げます。
そして、雑木林の奥へ歩き出しました。
カラスは、その姿を枝の上から見送っていました。
やがて、自分も羽を広げました。
夜の森に、羽音が広がります。
白い木には、まだ桜が咲いていました。
花は、誰かに見せるために咲いているわけではありませんでした。
誰かに褒められるためでもありません。
ただ、そこに咲いていました。
山は、まだそこにあります。
人間が知らないだけで。
動物たちが忘れていないだけで。
そして、私にもまだ分からない何かが、そこにあるのです。




