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夜道の向こう側 ―― Beyond the Night Road ――  作者: 静間 透
第三章 人間の知らない森
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第5話――その5(後編)―山はまだ、そこにある

風が止まっていました。


木々の葉は動かず、枝先に残っていた雨粒も、落ちる気配を見せません。


大清水の水面には、周囲の木々が映っています。


水は流れています。


岸辺から少し離れたところでは、雨で流されてきた細い枝が、水の動きに合わせてゆっくりと向きを変えていました。


けれど、水面には波紋がありません。


カラスは、枝の上で首を伸ばしました。


白い木の枝先に、淡い光が浮かんでいます。


最初は、雨粒が残っているのかと思いました。


しかし、光は落ちません。


枝の先に留まり、ゆっくりと広がっていきます。


カラスは、目を細めました。


「また、始まったな」


誰に言うでもなく、そうつぶやきました。


タヌキが顔を上げました。


「そうだね」


それだけでした。


カラスは、もう一度白い木を見ました。


枝の間に、白いものが増えています。


花でした。


ひとつの枝に、またひとつ。


その隣の枝にも、さらに奥の枝にも。


白い花びらが、暗い夜の中に浮かび上がっていました。


けれど、木そのものに花が咲いているようには見えません。


枝の輪郭は、そこにあります。


幹も、根元も、いつもの白い木のままです。


それなのに、花だけが枝の間に現れています。


やがて、花は木全体へ広がっていきました。


枝先から幹の近くまで。


高いところから、低いところまで。


夜の雑木林に、満開の桜が広がっていきます。


「きれいだな」


タヌキが言いました。


カモシカは、木を見上げていました。


「今年も咲いたな」


「そうだな」


イノシシが鼻先を上げました。


「匂いはしないな」


「花の匂いがする日もあるし、しない日もある」


タヌキが答えました。


「今日は、しない」


イノシシは、もう一度鼻を動かしました。


濡れた土の匂いはします。


落ち葉の匂いもします。


水の匂いも、ほかの動物たちの匂いもあります。


けれど、桜の匂いはありませんでした。


それでも、イノシシは花を見ていました。


キツネは、少し離れた場所に座っていました。


耳を立て、周囲の音を聞いています。


いつもなら、遠くの車の音や、木々の間を動く小さな生き物の気配が聞こえます。


今夜も、音が完全になくなったわけではありません。


水の流れは続いています。


葉から落ちる雫もあります。


けれど、それらの音が、ひとつ遠くに引いたようでした。


キツネは、白い木を見ました。


それから、周囲にいる動物たちへ視線を移しました。


熊は、立ったまま動きません。


鼻先を少し上げています。


花の匂いを探しているわけではありません。


もっと奥にあるものを確かめようとしているようでした。


熊の胸の奥に、古い記憶が浮かんでいました。


水のそば。

湿った土。

木々の間を通る風。


まだ知らない道を歩いていたころの感覚。


それが、いつの記憶なのかは分かりません。


熊は、前脚を一歩だけ動かしました。


白い木の方へ向かうわけではありません。


ただ、足元の土を確かめるように、ゆっくりと踏み出しました。


タヌキは、そんな熊を見ていました。


「何か思い出したのか?」


「分からない」


「そうか」


タヌキは、それ以上聞きませんでした。


自分にも、思い出せない話がありました。


家に伝わる昔話。


人間の姿になった者の話。


山の中で、いつもとは違うものを見たという話。


細かなところは覚えていません。


けれど、昔から聞いてきた話でした。


「昔からそうだった」


タヌキが言いました。


「何が?」


カラスが尋ねました。


「ここは、昔からこういうところさ」


タヌキは白い木を見上げました。


「そうか」


カラスは、それだけ答えました。


それ以上、誰も尋ねませんでした。


イタチは、花を見上げていました。


「今日は、食べ物の匂いがしないな」


「まだ食べることを考えているのか」


カラスが言いました。


「当たり前だろう。花を見ても腹は膨れない」


「それもそうだな」


カラスは、短く鳴きました。


イタチは、草むらへ戻ろうとしました。


しかし、二、三歩進んだところで、もう一度白い木を振り返りました。


そして、何事もなかったように、草の間へ姿を消しました。


水辺では、小さな生き物たちが静かに動いていました。


水の中を泳ぐもの。


石の陰に身を寄せるもの。


岸辺の草に隠れるもの。


それぞれの場所で、いつものように生きています。


水面に映った桜の花は、流れに合わせてわずかに揺れていました。


けれど、実際の水面には、花びらは落ちていません。


水の中にも、花はありません。


それでも、水面には満開の桜が映っていました。


カラスが枝から飛び立ちました。


羽ばたきの音が、夜の空気に広がります。


白い木の上を一度回り、少し離れた枝に止まりました。


「今年も、よく咲いたな」


カラスが言いました。


「そうだね」


タヌキが答えました。


「去年より多いか?」


「どうだろうね」


「お前は覚えていないのか?」


「花の数まで数えていないよ」


タヌキは笑いました。


カラスは、もう一度花を見ました。


数えようとはしませんでした。


熊は、白い木から目を離していました。


今度は、雑木林の奥を見ています。


そこには、雨に濡れた木々が重なっていました。


その先に、道が続いています。


熊は、その道を知っているような気がしました。


しかし、今夜はそこへ行こうとは思いませんでした。


しばらく、そこに立っていました。


やがて、ゆっくりと座り込みました。


タヌキも、カモシカも、キツネも、それぞれの場所にいました。


誰かが何かを願っているようには見えません。


誰かが祈っているわけでもありません。


ただ、そこにいました。


それぞれの身体に、それぞれの時間が流れていました。


腹を満たしたいもの。

帰る道を探すもの。

濡れた足場を気にするもの。

遠くの音を聞いているもの。

人間の暮らす場所を知るもの。

山の奥を覚えているもの。


そのすべてが、同じ場所に集まっていました。


白い木の枝に広がる花は、さらに明るさを増していました。


夜の暗さを消すほどではありません。


周囲の木々を照らすほどでもありません。


けれど、花の一輪一輪が、そこにあることを確かに感じさせます。


花びらの縁が淡く光り、重なった白が、少しずつ深みを増していきました。


幹の白い線も、枝の白い花も、ひとつの景色の中に溶け込んでいます。


それぞれの動物が、そこにいる。


それぞれの身体が、土に触れている。


水を探すもの。

食べ物を探すもの。

道の先を確かめるもの。

風の変化を待つもの。


誰も声を上げてはいませんでした。


けれど、白い木の根元に流れ込んだ雨水が、ほんのわずかに揺れました。


水面に小さな輪が広がります。


その輪は、風もないのに、ゆっくりと外へ向かっていきました。


花の奥で、何かが揺れました。


風はありません。


枝も動いていません。


それなのに、花の一部が、ゆっくりと波打つように揺れました。


一度。


もう一度。


その揺れは、枝から枝へと伝わっていきます。


カモシカが顔を上げました。


キツネの耳が、わずかに動きます。


熊は、再び白い木を見ました。


タヌキは、何も言いませんでした。


花の奥に、白い線が浮かんでいました。


幹に沿って伸びる、細い線。


それは枝の間を通り、花の向こうへ続いているように見えます。


線は、ゆっくりと明るさを増していきました。


その光が、木の幹から外へ広がります。


花びらの一枚一枚が、淡く揺れました。


そして、夜の空気に、かすかな声が混じりました。


「……まだ、道は残っている」


誰かが言ったのか。


どこから聞こえたのか。


その場にいた者たちは、誰も確かめようとはしませんでした。


熊は、白い木を見ていました。


タヌキは、目を細めました。


カラスは、鳴きませんでした。


その声が聞こえたあとも、花は咲き続けていました。


私は、成田せせらぎ緑道の水辺にいました。


大清水の方から、いつもとは違う気配が届いています。


水の流れが、わずかに変わりました。


風は止まっています。


それなのに、水面の上を何かが通り過ぎたように感じられました。


私は、目を閉じました。


動物たちの声が聞こえます。


それぞれの声は違います。


腹を満たしたいものもいれば、道を探しているものもいます。人間の近くを知るものも、山の奥を覚えているものもいます。


私は、白い木のことを知っています。


あの木に桜が現れることも、初めてではありません。


動物たちが、それを特別なこととして騒がないのも知っています。


けれど、今夜は違いました。


いつもと同じように見える花の奥に、何かがありました。


それが何なのか、私には分かりません。


ただ、白い木の枝を伝う光と、水の流れの変化が、どこかでつながっているように感じました。


私は、水面に目を向けました。


そこには、いつもの夜が映っていました。


けれど、遠くの大清水では、満開の桜が咲いています。


「不思議なものですね」


私は、そうつぶやきました。


「長く見ていても、分からないことはあるものです」


水は、何も答えませんでした。


大清水では、動物たちが少しずつ動き始めていました。


カモシカは、足元を確かめながら斜面へ向かいます。


イノシシは、鼻先を地面につけ、落ち葉を掘り返し始めました。


キツネは、風の向きを確かめてから林の奥へ消えていきます。


イタチは、もう食べ物を探しています。


タヌキは、白い木を一度振り返りました。


熊は、最後までその場に残っていました。


白い木の前で、ゆっくりと頭を下げます。


そして、雑木林の奥へ歩き出しました。


カラスは、その姿を枝の上から見送っていました。


やがて、自分も羽を広げました。


夜の森に、羽音が広がります。


白い木には、まだ桜が咲いていました。


花は、誰かに見せるために咲いているわけではありませんでした。


誰かに褒められるためでもありません。


ただ、そこに咲いていました。


山は、まだそこにあります。


人間が知らないだけで。


動物たちが忘れていないだけで。


そして、私にもまだ分からない何かが、そこにあるのです。

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