↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜道の向こう側 ―― Beyond the Night Road ――  作者: 静間 透
第三章 人間の知らない森
PR
26/40

第5話――その5(前編)―大清水(オイズ)に集まる者たち

雨は、夕方になってようやく止んだ。

木々の葉には、まだ水滴が残っている。風が吹くたびに枝先から雫が落ち、積もった落ち葉を濡らした。

地面は柔らかくなっていた。

普段なら足を置ける場所にも水がたまり、斜面の土はところどころ削られている。細い水の流れが、落ち葉や小枝を押し流しながら低い方へ向かっていた。

大清水の水辺にも、雨の影響が残っていた。

水面には細かな木の葉が浮かび、岸辺には流れてきた枝が引っかかっている。水位はわずかに上がり、いつも水から出ている石の一部が隠れていた。

その水辺へ向かう道を、一頭のカモシカが下りてきた。

急がない。

前脚を伸ばし、蹄の先で地面を確かめる。滑らないことを確認してから、ゆっくりと体重を移す。斜面の途中で一度立ち止まり、首を伸ばして周囲の匂いを嗅いだ。

濡れた土。 折れた枝。 草の根元に残る水。

その中に、ほかの動物の匂いも混じっていた。

カモシカは少し進路を変えた。いつも通る場所が、今日は歩きにくい。無理に進む必要はなかった。

やがて、雑木林の入口に近づいた。

そこに、一本の木が立っている。

カモシカは、その前で足を止めた。

しばらく木を見上げる。

それから、首をゆっくりと下げた。

何事もなかったように顔を上げると、雑木林の中へ入っていった。

木の根元には、雨水が流れ込んでいた。

その水は、根の間を通り、さらに地面の低い方へと流れていく。

少し離れた場所では、イノシシが鼻先を地面に押しつけていた。

濡れた落ち葉を鼻で押し分け、土を掘り返す。鼻先を土の中へ差し込み、何かを探していた。

雨で柔らかくなった土の中には、ミミズや昆虫などがいる。イノシシは匂いを頼りに地面を探っていた。

しかし、いつもの場所では思うように見つからなかった。

「土が変わったな」

イノシシが言った。

少し離れたところにいたカモシカが、顔を向ける。

「雨が降ったからだろう」

「それだけじゃない」

イノシシは、もう一度地面を掘った。

「上の方から土が流れてきている。いつもの匂いがしない」

「足元も悪くなっている」

カモシカが答えた。

「歩く場所が減った」

「食べ物を探す場所も変わる」

イノシシは鼻を鳴らした。

それだけ言うと、再び地面に鼻を戻した。

木の上では、カラスが枝に止まっていた。

羽を少し膨らませ、雨で濡れた羽毛を整えている。くちばしを羽の間に入れ、何度か動かしたあと、枝の上を横に歩いた。

下にいる動物たちを見渡す。

「もう来ているのか」

カモシカが言った。

「見れば分かるだろう」

カラスが答えた。

「お前はいつも早いな」

「飛べば早い」

「そういう意味じゃない」

カラスは、カモシカの言葉を聞き流した。

そのとき、林の奥で枯れ枝が折れる音がした。

カラスが首を回す。

キツネだった。

キツネは地面に鼻を近づけながら、ゆっくりと歩いてきた。雨に濡れた毛は少し重そうに見える。耳は前後に動き、周囲の音を拾っていた。

キツネは、イノシシの掘り返した場所を避けて通った。

地面に残った匂いを確かめる。

イノシシの匂い。 カモシカの匂い。

それから、まだ少し遠いところにある大きな獣の匂い。

「熊が来る」

キツネが言った。

カラスが枝の上で首を傾けた。

「もう近いのか?」

「匂いがする」

「姿は?」

「まだ見えない」

キツネは、風上へ顔を向けた。

雨上がりの空気には、濡れた草や土、木の皮、動物の体臭など、いろいろな匂いが混じっている。普段なら分かる匂いも、雨のあとには薄くなったり、別の場所から流れてきたりする。

キツネは、その中から熊の匂いを探していた。

「今日は、あまり風がないな」

カラスが言った。

「だから分かりにくい」

「お前にも分からないことがあるんだな」

「何でも分かると思うな」

キツネはそう言って、木の陰に座った。

そのころ、雑木林の外側からタヌキが歩いてきた。

人間の暮らす場所に近いところを通ってきたらしい。毛には細かな草の種がつき、前脚には乾いた泥が残っていた。

タヌキは、周囲を見回すと、入口に立つ白い木の前で足を止めた。

木を見上げる。

それから、少しだけ頭を下げた。

そのまま雑木林へ入ってくる。

「遅かったな」

カラスが声をかけた。

「そうでもないさ」

「イオウの近くにいたんだろう?」

「イオウの家のそばを通ってきた」

「何かあったか?」

「食べ物の匂いがした」

タヌキは、鼻先を動かした。

「雨が降ったあとでも、イオウは食べ物を外に置いていることがある。あれは不思議だね」

「食べたのか?」

「食べていないよ」

「珍しいな」

「今日は、ここへ来る用事があったからね」

タヌキは、カラスの止まっている枝を見上げた。

「お前が知らせに来たんだろう?」

「そうだ」

「順番が回ってきたのか?」

「そうだよ」

カラスは、羽を一度広げてからたたんだ。

「それだけさ」

タヌキは、何も聞き返さなかった。

「ところで、イオウの近くはどうだった?」

カモシカが尋ねた。

「いつもと変わらないよ。車が通っていたし、家の明かりもついていた」

「危なくないのか?」

「危ないさ」

タヌキは、あっさり答えた。

「車は速い。犬がいる家もある。人間が突然出てくることもある」

「なら、近づかなければいい」

カモシカが言った。

「そう簡単でもない」

タヌキは、カモシカの方を向いた。

「食べ物の匂いがする。通れる場所もある。人間の暮らす場所のすぐそばに、昔から使っている道だってあるんだ」

「道があるから通るのか?」

「通れるから通るんだよ」

「危ないと分かっていても?」

「危ないと分かっているから、気をつけるのさ」

カモシカは、しばらくタヌキを見ていた。

「私は、あまり近づかない」

「お前はそうすればいい」

タヌキは、それ以上言わなかった。

木の根元を、細い影が走り抜けた。

イタチだった。

身体を低くし、落ち葉の隙間を縫うように進んでくる。狭い場所を通り抜けると、鼻先を忙しく動かした。

「何か食べるものはないのか?」

「来て早々、それか」

カラスが言った。

「腹が減っているんだから仕方ないだろう」

「今日は集まりだぞ」

「集まったら腹が膨れるのか?」

「話を聞けば、何か分かるかもしれない」

「話で腹は膨れない」

イタチは、草の根元を探り始めた。

タヌキが笑った。

「相変わらずだな」

「お前だって、さっきから食べ物の話ばかりじゃないか」

「私は、イオウの暮らしを見てきただけさ」

「それで腹が膨れたのか?」

「まだだね」

「なら、一緒だ」

カラスが、短く鳴いた。

水辺では、水の中にいた生き物たちも動き始めていた。

雨で流れが速くなり、岸辺の草は水を含んで垂れ下がっている。水面近くにいた小さな生き物は流れに押され、石の陰へ移動していた。

いつもの場所にいたものが、いつもの場所にいられるとは限らない。

水の中にも、雨のあとの変化があった。

やがて、林の奥から重い足音が聞こえてきた。

熊だった。

濡れた落ち葉を踏み、太い枝を避けながら下りてくる。身体についた水を振り払うこともなく、鼻先を上げて風を確かめていた。

熊は、雑木林の入口に近づくと、白い木の前で足を止めた。

木を見上げる。

しばらく、そのまま動かなかった。

やがて、大きな頭をわずかに下げる。

そして、何事もなかったように林へ入ってきた。

カラスが声をかける。

「来たな」

「呼ばれたからな」

熊は短く答えた。

「道はどうだった?」

タヌキが尋ねた。

「変わっていた」

「またか」

「雨で崩れたところがある。土の匂いも違う。前に通れた場所が通れなくなっていた」

熊は、水辺の方へ目を向けた。

「水も増えている」

「こっちも同じだ」

カモシカが言った。

「斜面が滑る。足を置く場所が減った」

「俺の通るところも崩れていた」

熊は、濡れた前脚を一度持ち上げた。

「土が柔らかい。踏み込むと沈むところもある」

イノシシが鼻を上げた。

「土の下も変わっている。いつもの場所に、いつもの匂いがない」

「食べ物は?」

イタチが尋ねた。

「少ない」

「どこも同じか」

「そうだな」

熊は水辺に近づいた。

水を飲む前に、鼻先を水面へ近づける。水の匂いを確かめ、流れの向きを見てから口をつけた。

何度か水を飲み、顔を上げる。

その間、ほかの動物たちは熊の動きを見ていた。

熊が近くにいると、自然に距離ができる。

カモシカは少し横へ移動し、キツネは木の陰から出てこない。イノシシも、鼻先を地面に戻しながら、熊の位置を気にしていた。

タヌキだけは、熊の近くまで歩いてきた。

「イオウのいる方へ行けば、食べ物が見つかるかもしれないぞ」

熊は水から顔を上げた。

「行かない」

「どうしてだ?」

「車が走る。イオウがいる」

「山の中にもイオウは来る」

「だから気をつけている」

「食べ物があるのは確かだ」

「見つけやすいものが、安全とは限らない」

熊は、タヌキを見た。

「お前は、ずいぶんイオウの近くを知っている」

「知っているだけさ」

「知っているから近づくのか」

「知らないよりはいい」

「知っていても、危ないものは危ない」

「それはそうだ」

タヌキは、あっさり認めた。

しかし、話を終わらせるつもりはないようだった。

「だが、山の中だけで食べていけるとも限らない」

熊は答えなかった。

「食べ物がなければ、ほかを探す。そうしなければ生きていけない。お前だって、そうしているんだろう?」

「探している」

「なら、同じじゃないか」

「同じではない」

熊の声が低くなった。

「何が違う?」

「イオウのいる場所には、行きたくない」

「それでも、腹は減る」

「分かっている」

「分かっているなら、別の場所を探せばいい」

「探している」

熊は、タヌキから目を離した。

「俺の通る道がなくなっているんだ」

タヌキは、しばらく黙った。

「道なら、ほかにもあるだろう」

「通れる道と、通れない道がある」

「それは歩いてみなければ分からない」

「歩いている」

熊の言葉に、タヌキは口を閉じた。

イノシシが、地面を掘るのをやめた。

「道だけじゃない」

イノシシが言った。

「土が変わると、食べ物の場所も変わる。雨が降れば、匂いも流れる。掘れば分かると思っていた場所に、何もないこともある」

「斜面も変わる」

カモシカが続けた。

「足を置く場所がなくなる。無理に進めば滑る」

「水も変わる」

水辺から声がした。

「流れが速くなれば、いつもの場所にはいられない」

イタチは、少し離れたところで草を探っていた。

「食べ物がないのは困るな」

「お前はそればかりだ」

カラスが言った。

「食べなければ生きていけない」

「それはそうだ」

「分かっているなら、いいだろう」

イタチは、見つけた小さな獲物を口にくわえた。

その場で食べ終えると、また別の場所を探し始めた。

「山の奥へ行けばいい」

カモシカが言った。

熊は顔を上げた。

「奥にも道はある。だが、そこも変わっている」

「なら、もっと奥へ行けばいい」

「どこまで行けばいい?」

カモシカは答えなかった。

タヌキが、鼻を鳴らした。

「イオウの暮らす場所を避ける。それは分かる。だが、山の中だけで何とかしろと言われても、食べ物がなければどうにもならない」

「イオウの食べ物に近づけば、イオウが騒ぐ」

熊が言った。

「そうだろうね」

「見つかれば追い払われる。捕まえようとする者もいる」

「罠を置く者もいる」

タヌキは、地面に目を落とした。

「罠は嫌だな」

イタチが小さく言った。

「見つけても近づくなよ」

カラスが言う。

「分かっている」

「分かっていると言うやつほど、近づくんだ」

「お前に言われたくない」

イタチは、草むらの奥へ移動した。

キツネが、木の陰から一歩だけ前に出た。

「イオウも怖いんだろう」

熊がキツネを見た。

「何がだ?」

「熊が近くにいると知れば、家から出たくなくなる。子どもを外で遊ばせたくなくなる。そういうことだ」

「だから、俺たちがいなくなればいいのか?」

「そうは言っていない」

「では、どうすればいい?」

キツネは、すぐには答えなかった。

タヌキが、キツネの方を向いた。

「イオウの子どもも、俺たちの子どもも、生きている」

熊が言った。

「それは、どちらも同じだ」

タヌキは黙っていた。

「イオウの子どもがいる場所には、行かない方がいい」

カモシカが言った。

「分かっている」

熊が答えた。

「分かっていても、出てくることがある」

「道がつながっているからだ」

「なら、道を変えればいい」

「簡単に言うな」

熊の声が、少しだけ強くなった。

カモシカは、黙った。

熊は前脚を地面につけたまま、周囲を見た。

「前に通れた道が通れなくなった。水の場所も変わった。匂いも違う。どこへ行けばいいのか、探している」

誰も、すぐには返事をしなかった。

水の流れる音が聞こえる。

雨のあとの水は、いつもより少し速かった。

「まあ、今日のところは、みんな無事にここまで来た」

カラスが言った。

「それでいいじゃないか」

「お前は簡単に言うな」

タヌキが返した。

「そうか?」

「お前は飛べる。道が塞がっていたら、上を越えればいい」

「飛べるからといって、どこへでも行けるわけじゃない」

カラスは、枝の上で向きを変えた。

「風が強ければ飛びにくい。餌がある場所も決まっている。イオウに追い払われることだってある」

「それでも、俺たちよりは自由だ」

熊が言った。

カラスは、少しだけ羽を広げた。

「そうかもしれないな」

それ以上、言い返さなかった。

熊は、水辺の向こうを見た。

「俺は、道を探しているだけだ」

低い声だった。

誰に聞かせるつもりだったのかは分からない。

その言葉に、誰も答えなかった。

カモシカは足元を確かめ、イノシシは再び地面に鼻を近づけた。キツネは風上に立ち、タヌキは人間の暮らす方角を振り返った。

それぞれが、これから戻る場所を考えているようだった。

集まったからといって、同じ考えになるわけではない。

近くにいるからといって、互いの暮らしが分かるわけでもない。

それでも、彼らはここへ来た。

大清水には、昔からそういう場所があった。

動物たちは、この場所をオイズと呼んでいた。

カラスは、枝の上で羽を整えていた。

今日の知らせを届けたのは自分だった。担当の順番が回ってきたから、いつものように飛び回った。それだけのことだった。

ふと、カラスは水辺の向こうを見た。

白い木がある。

枝の間から、その姿が見えた。

カラスは、そこへ飛んでいくこともなく、ただ一度だけ短く鳴いた。

タヌキが木の方を見た。

「どうした?」

「何でもない」

カラスは答えた。

タヌキは、白い木に目を向けたまま、少しだけ頭を下げた。

熊も、木の方を見た。

それから、ゆっくりと視線を戻した。

誰も、そのことを話題にはしなかった。

私は、成田せせらぎ緑道の水辺にいました。

大清水の方から、動物たちの声が届いています。

熊の声も、タヌキの声も、カラスの声も聞こえていました。

それぞれに言い分があります。

それぞれに、譲れないものがあります。

私は、その様子を見ていました。

人間が暮らす場所も、動物たちが暮らす場所も、同じ土地の上にあります。

そこに暮らす者たちが、同じ道を歩くとは限りません。

雨の水は、斜面を下り、低いところへ流れていきます。

その流れを、私は止めることができません。

ましてや、彼らの行く先を決めることなどできないのです。

「さて、どうしたものでしょうね」

私は、水面を見つめました。

返事はありませんでした。

もっとも、返事を期待していたわけでもないのですが。

大清水の方では、動物たちがまだ集まっていました。

そのとき、風が止まりました。

木々の葉が動かなくなり、水面の小さな波紋が消えていきます。

カラスが、枝の上で顔を上げました。

熊も、何かを感じたように鼻先を動かしました。

水辺の向こうにある白い木。

その枝の先に、何かが浮かんでいるように見えました。

まだ、誰も何も言いませんでした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。