第5話――その5(前編)―大清水(オイズ)に集まる者たち
雨は、夕方になってようやく止んだ。
木々の葉には、まだ水滴が残っている。風が吹くたびに枝先から雫が落ち、積もった落ち葉を濡らした。
地面は柔らかくなっていた。
普段なら足を置ける場所にも水がたまり、斜面の土はところどころ削られている。細い水の流れが、落ち葉や小枝を押し流しながら低い方へ向かっていた。
大清水の水辺にも、雨の影響が残っていた。
水面には細かな木の葉が浮かび、岸辺には流れてきた枝が引っかかっている。水位はわずかに上がり、いつも水から出ている石の一部が隠れていた。
その水辺へ向かう道を、一頭のカモシカが下りてきた。
急がない。
前脚を伸ばし、蹄の先で地面を確かめる。滑らないことを確認してから、ゆっくりと体重を移す。斜面の途中で一度立ち止まり、首を伸ばして周囲の匂いを嗅いだ。
濡れた土。 折れた枝。 草の根元に残る水。
その中に、ほかの動物の匂いも混じっていた。
カモシカは少し進路を変えた。いつも通る場所が、今日は歩きにくい。無理に進む必要はなかった。
やがて、雑木林の入口に近づいた。
そこに、一本の木が立っている。
カモシカは、その前で足を止めた。
しばらく木を見上げる。
それから、首をゆっくりと下げた。
何事もなかったように顔を上げると、雑木林の中へ入っていった。
木の根元には、雨水が流れ込んでいた。
その水は、根の間を通り、さらに地面の低い方へと流れていく。
少し離れた場所では、イノシシが鼻先を地面に押しつけていた。
濡れた落ち葉を鼻で押し分け、土を掘り返す。鼻先を土の中へ差し込み、何かを探していた。
雨で柔らかくなった土の中には、ミミズや昆虫などがいる。イノシシは匂いを頼りに地面を探っていた。
しかし、いつもの場所では思うように見つからなかった。
「土が変わったな」
イノシシが言った。
少し離れたところにいたカモシカが、顔を向ける。
「雨が降ったからだろう」
「それだけじゃない」
イノシシは、もう一度地面を掘った。
「上の方から土が流れてきている。いつもの匂いがしない」
「足元も悪くなっている」
カモシカが答えた。
「歩く場所が減った」
「食べ物を探す場所も変わる」
イノシシは鼻を鳴らした。
それだけ言うと、再び地面に鼻を戻した。
木の上では、カラスが枝に止まっていた。
羽を少し膨らませ、雨で濡れた羽毛を整えている。くちばしを羽の間に入れ、何度か動かしたあと、枝の上を横に歩いた。
下にいる動物たちを見渡す。
「もう来ているのか」
カモシカが言った。
「見れば分かるだろう」
カラスが答えた。
「お前はいつも早いな」
「飛べば早い」
「そういう意味じゃない」
カラスは、カモシカの言葉を聞き流した。
そのとき、林の奥で枯れ枝が折れる音がした。
カラスが首を回す。
キツネだった。
キツネは地面に鼻を近づけながら、ゆっくりと歩いてきた。雨に濡れた毛は少し重そうに見える。耳は前後に動き、周囲の音を拾っていた。
キツネは、イノシシの掘り返した場所を避けて通った。
地面に残った匂いを確かめる。
イノシシの匂い。 カモシカの匂い。
それから、まだ少し遠いところにある大きな獣の匂い。
「熊が来る」
キツネが言った。
カラスが枝の上で首を傾けた。
「もう近いのか?」
「匂いがする」
「姿は?」
「まだ見えない」
キツネは、風上へ顔を向けた。
雨上がりの空気には、濡れた草や土、木の皮、動物の体臭など、いろいろな匂いが混じっている。普段なら分かる匂いも、雨のあとには薄くなったり、別の場所から流れてきたりする。
キツネは、その中から熊の匂いを探していた。
「今日は、あまり風がないな」
カラスが言った。
「だから分かりにくい」
「お前にも分からないことがあるんだな」
「何でも分かると思うな」
キツネはそう言って、木の陰に座った。
そのころ、雑木林の外側からタヌキが歩いてきた。
人間の暮らす場所に近いところを通ってきたらしい。毛には細かな草の種がつき、前脚には乾いた泥が残っていた。
タヌキは、周囲を見回すと、入口に立つ白い木の前で足を止めた。
木を見上げる。
それから、少しだけ頭を下げた。
そのまま雑木林へ入ってくる。
「遅かったな」
カラスが声をかけた。
「そうでもないさ」
「イオウの近くにいたんだろう?」
「イオウの家のそばを通ってきた」
「何かあったか?」
「食べ物の匂いがした」
タヌキは、鼻先を動かした。
「雨が降ったあとでも、イオウは食べ物を外に置いていることがある。あれは不思議だね」
「食べたのか?」
「食べていないよ」
「珍しいな」
「今日は、ここへ来る用事があったからね」
タヌキは、カラスの止まっている枝を見上げた。
「お前が知らせに来たんだろう?」
「そうだ」
「順番が回ってきたのか?」
「そうだよ」
カラスは、羽を一度広げてからたたんだ。
「それだけさ」
タヌキは、何も聞き返さなかった。
「ところで、イオウの近くはどうだった?」
カモシカが尋ねた。
「いつもと変わらないよ。車が通っていたし、家の明かりもついていた」
「危なくないのか?」
「危ないさ」
タヌキは、あっさり答えた。
「車は速い。犬がいる家もある。人間が突然出てくることもある」
「なら、近づかなければいい」
カモシカが言った。
「そう簡単でもない」
タヌキは、カモシカの方を向いた。
「食べ物の匂いがする。通れる場所もある。人間の暮らす場所のすぐそばに、昔から使っている道だってあるんだ」
「道があるから通るのか?」
「通れるから通るんだよ」
「危ないと分かっていても?」
「危ないと分かっているから、気をつけるのさ」
カモシカは、しばらくタヌキを見ていた。
「私は、あまり近づかない」
「お前はそうすればいい」
タヌキは、それ以上言わなかった。
木の根元を、細い影が走り抜けた。
イタチだった。
身体を低くし、落ち葉の隙間を縫うように進んでくる。狭い場所を通り抜けると、鼻先を忙しく動かした。
「何か食べるものはないのか?」
「来て早々、それか」
カラスが言った。
「腹が減っているんだから仕方ないだろう」
「今日は集まりだぞ」
「集まったら腹が膨れるのか?」
「話を聞けば、何か分かるかもしれない」
「話で腹は膨れない」
イタチは、草の根元を探り始めた。
タヌキが笑った。
「相変わらずだな」
「お前だって、さっきから食べ物の話ばかりじゃないか」
「私は、イオウの暮らしを見てきただけさ」
「それで腹が膨れたのか?」
「まだだね」
「なら、一緒だ」
カラスが、短く鳴いた。
水辺では、水の中にいた生き物たちも動き始めていた。
雨で流れが速くなり、岸辺の草は水を含んで垂れ下がっている。水面近くにいた小さな生き物は流れに押され、石の陰へ移動していた。
いつもの場所にいたものが、いつもの場所にいられるとは限らない。
水の中にも、雨のあとの変化があった。
やがて、林の奥から重い足音が聞こえてきた。
熊だった。
濡れた落ち葉を踏み、太い枝を避けながら下りてくる。身体についた水を振り払うこともなく、鼻先を上げて風を確かめていた。
熊は、雑木林の入口に近づくと、白い木の前で足を止めた。
木を見上げる。
しばらく、そのまま動かなかった。
やがて、大きな頭をわずかに下げる。
そして、何事もなかったように林へ入ってきた。
カラスが声をかける。
「来たな」
「呼ばれたからな」
熊は短く答えた。
「道はどうだった?」
タヌキが尋ねた。
「変わっていた」
「またか」
「雨で崩れたところがある。土の匂いも違う。前に通れた場所が通れなくなっていた」
熊は、水辺の方へ目を向けた。
「水も増えている」
「こっちも同じだ」
カモシカが言った。
「斜面が滑る。足を置く場所が減った」
「俺の通るところも崩れていた」
熊は、濡れた前脚を一度持ち上げた。
「土が柔らかい。踏み込むと沈むところもある」
イノシシが鼻を上げた。
「土の下も変わっている。いつもの場所に、いつもの匂いがない」
「食べ物は?」
イタチが尋ねた。
「少ない」
「どこも同じか」
「そうだな」
熊は水辺に近づいた。
水を飲む前に、鼻先を水面へ近づける。水の匂いを確かめ、流れの向きを見てから口をつけた。
何度か水を飲み、顔を上げる。
その間、ほかの動物たちは熊の動きを見ていた。
熊が近くにいると、自然に距離ができる。
カモシカは少し横へ移動し、キツネは木の陰から出てこない。イノシシも、鼻先を地面に戻しながら、熊の位置を気にしていた。
タヌキだけは、熊の近くまで歩いてきた。
「イオウのいる方へ行けば、食べ物が見つかるかもしれないぞ」
熊は水から顔を上げた。
「行かない」
「どうしてだ?」
「車が走る。イオウがいる」
「山の中にもイオウは来る」
「だから気をつけている」
「食べ物があるのは確かだ」
「見つけやすいものが、安全とは限らない」
熊は、タヌキを見た。
「お前は、ずいぶんイオウの近くを知っている」
「知っているだけさ」
「知っているから近づくのか」
「知らないよりはいい」
「知っていても、危ないものは危ない」
「それはそうだ」
タヌキは、あっさり認めた。
しかし、話を終わらせるつもりはないようだった。
「だが、山の中だけで食べていけるとも限らない」
熊は答えなかった。
「食べ物がなければ、ほかを探す。そうしなければ生きていけない。お前だって、そうしているんだろう?」
「探している」
「なら、同じじゃないか」
「同じではない」
熊の声が低くなった。
「何が違う?」
「イオウのいる場所には、行きたくない」
「それでも、腹は減る」
「分かっている」
「分かっているなら、別の場所を探せばいい」
「探している」
熊は、タヌキから目を離した。
「俺の通る道がなくなっているんだ」
タヌキは、しばらく黙った。
「道なら、ほかにもあるだろう」
「通れる道と、通れない道がある」
「それは歩いてみなければ分からない」
「歩いている」
熊の言葉に、タヌキは口を閉じた。
イノシシが、地面を掘るのをやめた。
「道だけじゃない」
イノシシが言った。
「土が変わると、食べ物の場所も変わる。雨が降れば、匂いも流れる。掘れば分かると思っていた場所に、何もないこともある」
「斜面も変わる」
カモシカが続けた。
「足を置く場所がなくなる。無理に進めば滑る」
「水も変わる」
水辺から声がした。
「流れが速くなれば、いつもの場所にはいられない」
イタチは、少し離れたところで草を探っていた。
「食べ物がないのは困るな」
「お前はそればかりだ」
カラスが言った。
「食べなければ生きていけない」
「それはそうだ」
「分かっているなら、いいだろう」
イタチは、見つけた小さな獲物を口にくわえた。
その場で食べ終えると、また別の場所を探し始めた。
「山の奥へ行けばいい」
カモシカが言った。
熊は顔を上げた。
「奥にも道はある。だが、そこも変わっている」
「なら、もっと奥へ行けばいい」
「どこまで行けばいい?」
カモシカは答えなかった。
タヌキが、鼻を鳴らした。
「イオウの暮らす場所を避ける。それは分かる。だが、山の中だけで何とかしろと言われても、食べ物がなければどうにもならない」
「イオウの食べ物に近づけば、イオウが騒ぐ」
熊が言った。
「そうだろうね」
「見つかれば追い払われる。捕まえようとする者もいる」
「罠を置く者もいる」
タヌキは、地面に目を落とした。
「罠は嫌だな」
イタチが小さく言った。
「見つけても近づくなよ」
カラスが言う。
「分かっている」
「分かっていると言うやつほど、近づくんだ」
「お前に言われたくない」
イタチは、草むらの奥へ移動した。
キツネが、木の陰から一歩だけ前に出た。
「イオウも怖いんだろう」
熊がキツネを見た。
「何がだ?」
「熊が近くにいると知れば、家から出たくなくなる。子どもを外で遊ばせたくなくなる。そういうことだ」
「だから、俺たちがいなくなればいいのか?」
「そうは言っていない」
「では、どうすればいい?」
キツネは、すぐには答えなかった。
タヌキが、キツネの方を向いた。
「イオウの子どもも、俺たちの子どもも、生きている」
熊が言った。
「それは、どちらも同じだ」
タヌキは黙っていた。
「イオウの子どもがいる場所には、行かない方がいい」
カモシカが言った。
「分かっている」
熊が答えた。
「分かっていても、出てくることがある」
「道がつながっているからだ」
「なら、道を変えればいい」
「簡単に言うな」
熊の声が、少しだけ強くなった。
カモシカは、黙った。
熊は前脚を地面につけたまま、周囲を見た。
「前に通れた道が通れなくなった。水の場所も変わった。匂いも違う。どこへ行けばいいのか、探している」
誰も、すぐには返事をしなかった。
水の流れる音が聞こえる。
雨のあとの水は、いつもより少し速かった。
「まあ、今日のところは、みんな無事にここまで来た」
カラスが言った。
「それでいいじゃないか」
「お前は簡単に言うな」
タヌキが返した。
「そうか?」
「お前は飛べる。道が塞がっていたら、上を越えればいい」
「飛べるからといって、どこへでも行けるわけじゃない」
カラスは、枝の上で向きを変えた。
「風が強ければ飛びにくい。餌がある場所も決まっている。イオウに追い払われることだってある」
「それでも、俺たちよりは自由だ」
熊が言った。
カラスは、少しだけ羽を広げた。
「そうかもしれないな」
それ以上、言い返さなかった。
熊は、水辺の向こうを見た。
「俺は、道を探しているだけだ」
低い声だった。
誰に聞かせるつもりだったのかは分からない。
その言葉に、誰も答えなかった。
カモシカは足元を確かめ、イノシシは再び地面に鼻を近づけた。キツネは風上に立ち、タヌキは人間の暮らす方角を振り返った。
それぞれが、これから戻る場所を考えているようだった。
集まったからといって、同じ考えになるわけではない。
近くにいるからといって、互いの暮らしが分かるわけでもない。
それでも、彼らはここへ来た。
大清水には、昔からそういう場所があった。
動物たちは、この場所をオイズと呼んでいた。
カラスは、枝の上で羽を整えていた。
今日の知らせを届けたのは自分だった。担当の順番が回ってきたから、いつものように飛び回った。それだけのことだった。
ふと、カラスは水辺の向こうを見た。
白い木がある。
枝の間から、その姿が見えた。
カラスは、そこへ飛んでいくこともなく、ただ一度だけ短く鳴いた。
タヌキが木の方を見た。
「どうした?」
「何でもない」
カラスは答えた。
タヌキは、白い木に目を向けたまま、少しだけ頭を下げた。
熊も、木の方を見た。
それから、ゆっくりと視線を戻した。
誰も、そのことを話題にはしなかった。
私は、成田せせらぎ緑道の水辺にいました。
大清水の方から、動物たちの声が届いています。
熊の声も、タヌキの声も、カラスの声も聞こえていました。
それぞれに言い分があります。
それぞれに、譲れないものがあります。
私は、その様子を見ていました。
人間が暮らす場所も、動物たちが暮らす場所も、同じ土地の上にあります。
そこに暮らす者たちが、同じ道を歩くとは限りません。
雨の水は、斜面を下り、低いところへ流れていきます。
その流れを、私は止めることができません。
ましてや、彼らの行く先を決めることなどできないのです。
「さて、どうしたものでしょうね」
私は、水面を見つめました。
返事はありませんでした。
もっとも、返事を期待していたわけでもないのですが。
大清水の方では、動物たちがまだ集まっていました。
そのとき、風が止まりました。
木々の葉が動かなくなり、水面の小さな波紋が消えていきます。
カラスが、枝の上で顔を上げました。
熊も、何かを感じたように鼻先を動かしました。
水辺の向こうにある白い木。
その枝の先に、何かが浮かんでいるように見えました。
まだ、誰も何も言いませんでした。




