第5話――その4 神様の見ているもの
雨は、少しずつ弱くなっていました。
成田せせらぎ緑道を流れる水は、まだいつもより勢いがあります。雨水を集めた小さな流れが、落ち葉を押し流しながら、下流へと向かっていました。
私は、その水のそばにいました。
雨が降れば、水の流れは変わります。普段は静かな場所でも、一時的に水かさが増すことがあります。人間は天気予報を見て、道路の状態を確かめ、雨がひどければ外出を控えます。
以前なら問題のなかった場所が、ある日突然、危険な場所になることもあります。
自然の変化は、いつも人間の想定どおりに進むわけではありません。
もっとも、これは人間だけの話ではありませんけれどね。
水の流れも、山の様子も、そこに暮らすものたちの動きも、少しずつ変わっていきます。
そんな水辺に、一羽のゴイサギがいました。
水際に立ち、じっと水面を見つめています。
首を縮め、ほとんど動きません。
雨上がりの水は濁り、流れも速くなっています。水の中にいる小さな生き物を見つけるのは、いつもより難しいでしょう。
それでも、ゴイサギは待っていました。
やがて、水面に小さな動きがありました。
ゴイサギの首が伸びます。
くちばしが水に突き刺さりました。
しかし、獲物は捕れなかったようです。
ゴイサギは、何事もなかったように、また水面を見つめ始めました。
「水が騒がしい」
私は声をかけました。
ゴイサギは、こちらを見ません。
「水の中が見えにくい。流れも違う」
「雨のせいですね」
「そうだろうな」
それだけ言うと、ゴイサギは再び水面に意識を戻しました。
今夜、このあたりでは、いくつもの動きが重なっています。
けれど、ゴイサギにとっては、目の前の水の中に獲物がいるかどうかが大切なのでしょう。
それは、それでよいのです。
私も、すべてのものに同じ景色を見てほしいとは思っていません。
水辺から少し離れたところでは、別の動きがありました。
山のほうから、いくつもの気配が届いています。
熊が動いています。
カモシカも、イノシシも、タヌキも、それぞれの場所から移動を始めているようです。
カラスの姿は、今は見えません。イタチの気配も、草むらや細い通り道の向こうにあります。
それぞれが、何かを感じ取っているのでしょう。
熊は、大清水へ向かっています。
カラスが、動物たちに集まりのことを知らせて回っていたのを、私は知っています。
ただ、何の話をするために集まるのかまでは、私にも分かりません。
動物たちが同じ場所へ向かっているからといって、同じことを考えているとは限らないのです。
彼らには、それぞれの事情があります。
腹を満たすため。
水を探すため。
安全な場所へ移るため。
通り慣れた道を探すため。
あるいは、ほかのものたちの動きに気づいたからかもしれません。
私は、このあたりの山を長く見てきました。
道路ができる前から、ここには水が流れ、木々が育ち、動物たちが暮らしていました。
熊が通る道もありました。
カモシカが斜面を歩き、イノシシが土を掘り返し、タヌキが夜の山を行き来していました。
そのころ、このあたりに今のような道路の名前はありませんでした。
もちろん、住宅地もありません。
やがて人間がやってきました。
土地を測り、道を造り、家を建てました。
それぞれの場所に名前をつけ、境界を決め、暮らしのための場所を広げていきました。
人間には、人間の暮らしがあります。
道も家も、その暮らしを守るために必要なものなのでしょう。
けれど、その土地には、もともと別の暮らしもありました。
長い間、そこを通っていたものたち。
そこで食べ物を探し、水を飲み、身を休めていたものたち。
土地に名前がつき、境界が引かれたとき、その土地に暮らしていた者たちは、どこへ行けばよかったのでしょうね。
私は、その問いに答えを持っていません。
ただ、道ができる前から、そこには道があったのです。
人間が道路と呼ぶものとは違う、動物たちが歩いてきた道が。
水は、土地に引かれた境界を知りません。
雨が降れば、斜面を流れ、低いところへ集まり、土の中へ染み込んでいきます。道路の脇を流れることもあれば、木々の根元へ向かうこともあります。
人間が決めた境界とは関係なく、水は流れていきます。
もっとも、私も水の流れについては、あまり人のことを言えないのですが。
なにしろ、こちらも兼務ですから。
私は水の動きを感じながら、山のほうへ意識を向けました。
大清水に、いくつもの気配が集まり始めています。
熊だけではありません。
それぞれ違う場所から、違う理由で動いてきたものたちが、同じ場所へ近づいているようでした。
今夜は、少し賑やかになりそうですね。
ただ、その中に、私にもよく分からないものが混じっていました。
水の流れとも違う。
風の動きとも違う。
先ほど聞こえた、あの声のようなものと同じなのでしょうか。
どこから届いているのかも、はっきりしません。
けれど、確かに何かがそこにありました。
私は、しばらくその気配を追っていました。
どうやら、今夜は私にも分からないことが起きそうです。
……神様なのに、困ったものですね。
ゴイサギは、まだ水面を見つめていました。
何も知らないような顔で、じっと獲物を待っています。
その間にも、水は流れ続けていました。
夜は、まだ終わりそうにありません。




