第5話――その3 人間の目撃情報
雨が降り始めていました。
最初は、葉の上に小さな音を立てる程度でした。
やがて雨粒は大きくなり、木々の枝を叩き、地面を濡らしていきました。乾いていた土は水を含み、落ち葉は地面に張りつきます。斜面を流れ始めた水は、細い筋となって土を削り、やがて沢へと集まっていきました。
私は、成田せせらぎ緑道の水のそばにいました。
山に降った雨は、土に染み込み、葉を伝い、斜面を流れ、やがて沢へ集まります。街に降った雨は、道路を走り、側溝へ入り、排水路を通っていきます。
同じ雨でも、通る場所によって姿を変えるのです。
近ごろ、人間たちは気候変動や地球温暖化という言葉を、よく口にするようになりました。
雨の降り方も変わってきました。
短い時間に、想定していた量を超える雨が降る。道路や住宅地に設けられた排水設備も、設計時に想定した雨量を超えれば、排水が追いつかなくなることがあります。
側溝から水があふれ、道路が川のようになることもあるでしょう。
人間たちは、こうした変化に対応しようとしています。
けれど、水は人間の都合に合わせて流れてくれるわけではありません。
山に降れば山を流れ、街に降れば街を流れる。
私は、その水の行方を見ています。
なかなか、考えさせられる時代になりましたね。
その夜、街の道路にも雨水が流れていました。
車道の端には水が集まり、側溝へ吸い込まれていきます。ところどころで排水が追いつかず、小さな水たまりができていました。
傘を差した人間が、足元を確かめながら歩いていました。
その人は、住宅地の外れにある林のほうへ目を向けました。
何かが動いたように見えたのです。
一瞬でした。
黒い影が、木々の間を横切ったように見えました。
人間は足を止めました。
息をするのを忘れたように、身体が固まりました。
雨音だけが、急に大きく聞こえた気がしました。
もう一度、林のほうを見ました。
しかし、そこには濡れた木々と暗闇があるだけでした。
熊だったのだろうか。
それとも、雨に揺れた枝だったのだろうか。
人間はスマートフォンを取り出しました。
地域の情報を確認します。
最近、熊の目撃情報が続いていました。少し離れた場所でも、住宅地の近くで目撃されたという話が出ていたのです。
人間は家族に連絡しました。
「念のため、外に出ないほうがいいよ」
それだけ伝えると、傘を持つ手に力を込めました。
その人にとって、林の向こうは安心できる場所ではありませんでした。
熊がいるかもしれない。
そう考えるのは、自然なことです。
家には帰りを待つ人がいます。近所には子どももいます。夜の住宅地に大きな野生動物が現れることを、歓迎できる人はいないでしょう。
私は、その気持ちを知っています。
一方、林の中では、別の時間が流れていました。
熊は、雨に濡れた地面を歩いていました。
毛は水を含み、いつもより重く感じられます。鼻先には湿った土や草の匂いが流れ込んでいました。
雨は、周囲の匂いを変えます。
昨日まであった匂いが薄れ、別の匂いが強くなる。水が流れれば、地面に残った足跡も消えていきます。
熊は、何度か立ち止まりました。
耳を動かし、風の流れを確かめます。
遠くから車の音が聞こえました。
木々の隙間から、白い光が差し込みます。
熊は動きを止めました。
光は林の端を照らし、濡れた葉を一瞬だけ白く浮かび上がらせました。
やがて光は遠ざかっていきました。
熊は、そちらへは進みませんでした。
以前なら通れた場所に、水が流れ込んでいました。
細い沢は雨で膨らみ、土の一部が崩れています。足を置けば滑るかもしれません。
熊は鼻先を地面に近づけました。
水の匂い。
土の匂い。
人間の匂い。
そして、以前とは違う何か。
熊は、しばらくその場に立っていました。
やがて、少し高い場所へと向きを変えました。
私は、その水の流れを見ていました。
雨水は、山から街へ向かって流れていきます。
細い水路には落ち葉が集まり、流れを妨げていました。
私は、少しだけ水の向きを変えました。
落ち葉が動き、水が別の隙間へと流れ込んでいきます。
すると、水の流れが二つに分かれました。
一方は斜面を下り、街の側溝へ向かっていきます。
もう一方は木々の根元へ染み込み、土の中へと消えていきました。
どちらも、同じ雨から生まれた水です。
行き先は違っても、もとは一つなのです。
ほんのわずかな変化でした。
それでも、水の流れは変わりました。
もっとも、私にもできることには限りがあります。
雨を止めることはできません。崩れかけた斜面を、すべて元に戻すこともできません。
水の流れを見守り、できることをする。
それが、私の役目です。
神様というのも、なかなか忙しいものですね。
人間たちがつくった道路には、排水のための設備があります。
山には、昔から水の通り道があります。
どちらも水を流すためのものです。
ただ、その道がいつも同じように機能するとは限りません。
水は、流れやすい場所を探します。
それは、熊が道を探している姿にも、少し似ているのかもしれません。
熊は、雨の中を進んでいました。
斜面を上り、濡れた草をかき分けます。
時折、立ち止まって風を嗅ぎました。
人間の匂いが濃くなる場所は避けました。
水の音が強くなる場所も避けました。
熊にとって、そこにあるのは地図ではありません。
匂いと音と、足の裏に伝わる地面の感触です。
以前に通った場所。
食べ物を見つけた場所。
水を飲んだ場所。
熊は、濡れた地面に鼻先を近づけました。
そこには、以前と同じ匂いは残っていませんでした。
熊は、しばらく動きませんでした。
やがて、顔を上げ、再び歩き始めました。
大清水のほうへ。
私は、その動きを見ていました。
雨はまだ降り続いています。
街の側溝を流れる水も、山の沢を下る水も、同じ雨から生まれたものです。
その水は、どこかでつながっています。
そして、山の中を動くものたちも、また、それぞれの道を探していました。
人間は、熊を目撃したと思いました。
熊は、道が変わっていたことを確かめました。
私は、その両方を見ていました。
けれど、まだ分からないことがあります。
大清水のほうから、雨音とは違う音が聞こえてきたのです。
水の流れに混じった、かすかな声のようなもの。
私は耳を澄ませました。
……今のは、何だったのでしょう。
雨は、何事もなかったかのように降り続いていました。




