第5話――その2 山の住人たち
夜の山には、昼間とは違う時間が流れています。
人間の街に明かりがともり、車が行き交うころ、山の中では、ようやく動き始めるものたちがいます。
私は、成田せせらぎ緑道の水のそばから、その様子を眺めていました。
水は、いつも同じように流れているように見えます。
けれど、よく聞いていると、日によって音が違います。雨のあとには少し勢いを増し、風の強い日には、木々のざわめきに隠れてしまうこともあります。
人間は、水の音を聞きながら散歩をしたり、立ち止まって景色を眺めたりします。
私も、こうして水のそばにいることが多いのですが、水辺だけを見ているわけではありません。
山のほうにも、気になるものたちがいます。
なにしろ兼務ですから。
神様にも、なかなか忙しい事情があるのです。
例えば、あそこにいるカモシカです。
斜面の途中で、じっと立っています。
動いていないように見えるかもしれませんが、耳は絶えず小さく動いています。片方が風の音を拾い、もう片方が背後の気配を探っているのでしょう。
カモシカは、急な斜面を移動するのが得意です。
今も、前脚を一度持ち上げ、地面にそっと置きました。
すぐには体重をかけません。
蹄の感触を確かめてから、ようやく後ろ脚を進めます。
その先には、以前なら通れた斜面がありました。
かつての獣道は、途中で人間の手によって断ち切られています。地面の一部は削られ、土は固く踏み固められていました。
カモシカは、しばらくその場所を見つめていました。
それから、首を少し傾け、別の斜面へ向きを変えました。
無理をして進む必要はありません。
このあたりの山を知っているものは、ほかにもいます。
少し下の斜面では、イノシシが落ち葉を掘り返していました。
鼻先を地面に押しつけ、左右に動かしています。
ザッ、ザッ。
落ち葉がめくれ、湿った土が現れました。
何かの匂いを見つけたのでしょう。
鼻先を押し込み、土を跳ね上げました。
ところが、途中で動きを止めました。
鼻を少し上げ、空気を吸い込んでいます。
人間の残した匂いが混じっていたようです。
イノシシは、短く鼻を鳴らしました。
気に入らなかったのでしょう。
少し離れた場所へ移り、また地面を掘り始めました。
まったく、頑固なものです。
気に入った場所を見つけると、なかなか譲りません。
もっとも、私も水の流れについては、あまり人のことを言えないのですが。
さて、こちらにはキツネがいます。
キツネは、身を低くして藪の中を進んでいました。
細い体を草の間に滑り込ませ、耳を使って獲物の気配を探っています。
今も、藪の中で立ち止まっています。
耳が、道路のほうを向きました。
車の音が近づいてきます。
キツネは、頭を少し傾けました。
音が遠ざかっても、すぐには動きません。
風の向きを確かめ、匂いを探っています。
やがて、草むらの奥で小さな動きがありました。
キツネの体が低くなります。
視線は一点に向けられ、前脚がゆっくりと地面を踏みました。
一歩。
もう一歩。
けれど、獲物は姿を見せませんでした。
キツネは、しばらく待っていましたが、やがて藪の奥へ消えていきました。
あれは、なかなか用心深い性格です。
以前、タヌキたちが化け比べをしていたときも、少し離れたところから様子を見ていました。
もっとも、用心深いからといって、いつも正しい判断をするとは限りません。
それは人間も同じでしょう。
住宅地に近い場所では、タヌキが一匹、草むらの陰から顔を出していました。
鼻を上げ、空気の匂いを探っています。
どこかから食べ物の匂いが流れてきたようです。
タヌキは、そちらへ顔を向けました。
しかし、すぐには進みません。
車の音が聞こえたからです。
体を低くして、草の陰に身を寄せます。
車が通り過ぎると、今度は少しだけ顔を出しました。
右を見て、左を見て、もう一度、鼻を動かします。
それから道路を渡るのではなく、道路の縁に沿って歩き始めました。
タヌキは、人間の暮らしの近くでも食べ物を見つけます。
だからといって、人間を怖がらなくなったわけではありません。
このタヌキも、食べ物の匂いには引かれているようですが、車の音には敏感でした。
欲張りなのか、慎重なのか。
まあ、両方なのでしょう。
その様子を、頭上の枝から眺めているものがいました。
カラスです。
カラスは、枝の上で片足を少しずらし、タヌキの動きを見ていました。
首を傾けたり、くちばしを枝にこすりつけたりしています。
どうやら、退屈しているようです。
「ずいぶん慎重だな」
カラスが声をかけました。
タヌキは顔を上げました。
「見ているなら、手伝ってくれてもいいんだぞ」
「俺が地面を歩いたら、せっかくの翼がもったいないだろう」
「そういう問題か?」
「そういう問題だ」
カラスは、何食わぬ顔で答えました。
このカラスは、何かにつけて人間や動物の行動を眺めるのが好きです。
自分ではあまり動かず、少し高いところから様子を見ています。
そして、何か面白いことがあると、すぐに口を挟みます。
以前も、タヌキとキツネの化け比べを見ながら、自分は審査員のようなものだと言っていました。
何を審査するのかと聞かれて、面白かったかどうかだと答えたのです。
まったく、ずいぶん勝手な審査員です。
もっとも、カラスにはカラスなりの能力があります。
人間の暮らしをよく観察し、周囲の変化を覚え、仲間に伝えることもできます。
高い場所から広い範囲を見渡せるのも、彼らの強みです。
今夜も、枝の上から住宅地と山の境目を眺めていました。
そのとき、足元の草むらが動きました。
細長い影が、落ち葉の間から現れます。
イタチでした。
地面に鼻を近づけ、何かの匂いを追っています。
イタチは、草むらや狭い隙間をすばやく移動します。
今も、鼻先を地面につけたまま、落ち葉の間を進んでいました。
カラスが声をかけます。
「おい、少し話がある」
イタチは顔を上げました。
「後にしてくれ。今、忙しい」
「まだ何も話していないぞ」
「話があると言っただろう」
イタチは、すぐに鼻先を地面へ戻しました。
カラスは、少しだけ首を傾けました。
「大清水に動物たちが集まるらしい」
その言葉に、イタチの動きが止まりました。
「何のために?」
「それを確かめに行くんだろう」
「お前が?」
「俺は情報を運んでいるだけだ」
カラスは、胸を張るように羽を膨らませました。
「集まるかどうかは、それぞれの勝手だ」
「そうだな」
イタチは短く答えました。
「俺は食べ物を探す」
「興味はないのか?」
「腹が減っている」
「話を聞いてからでもいいだろう」
「話を聞いて腹が膨れるならな」
イタチはそう言うと、草の隙間へ潜り込んでしまいました。
カラスは、その後ろ姿を見送りました。
「まったく。世の中には、面白いことが分からないやつもいる」
そう言いながら、自分の羽を整えています。
私は、少し笑ってしまいました。
面白いことを探しているカラスと、食べ物を探しているイタチ。
どちらが正しいということもありません。
それぞれ、自分に必要なものを探しているだけです。
カラスは、今度は少し離れた斜面にいるカモシカのところへ飛んでいきました。
「大清水に動物たちが集まるらしいぞ」
カモシカは、足元から目を離さず、蹄で地面を確かめました。
「歩ける場所なら行く」
それだけ答えると、再び斜面を進み始めました。
カラスは、しばらくその後ろ姿を眺めていました。
「まあいい。伝えることは伝えたからな」
そう言って、また別の枝へ移りました。
山の中では、同じ知らせを聞いても、すぐに動くものもいれば、今の暮らしを優先するものもいます。
集まりに興味を持つものもいます。
そうでないものもいます。
私は、彼らの暮らしを長く見てきました。
人間には、ただ暗い山に見えるかもしれません。
けれど、その中には、それぞれの暮らしがあります。
そして今夜、その暮らしの間を、一つの知らせが通り始めていました。
大清水。
その名前を聞いて、足を止めるものがいました。
このあたりに水が流れ、動物たちが行き来していた時間は、人間が今の景色をつくるよりも、ずっと長いのかもしれません。
昔から知っている場所だからでしょうか。
最近は近づかなくなった場所だからでしょうか。
あるいは、そこに何かがあると感じているからかもしれません。
カラスは、もう一度、枝の上から山を見渡しました。
人間の明かりが、木々の向こうに並んでいます。
その明かりの下にも、暗い斜面にも、草の間にも、見えない場所にも、夜を生きるものたちがいました。
「さて。今度は、どんな話が聞けるかな」
カラスはそう言って、翼を広げました。
向かう先は、大清水でした。
私は、水の流れに耳を澄ませました。
今夜は、いつもより少しだけ、山の気配が騒がしいようです。




