第5話――その1 境界の向こう
夜の街には、昼間とは違う世界があります。
人間の車が道路を走り、住宅の窓には明かりが灯っています。
その光が届かない場所では、別のものたちが動いていました。
2023年10月。
富谷の住宅地を、一台の車が走っていました。
街灯の下を通り過ぎ、交差点を曲がり、見慣れた道路を進んでいきます。
車内ではラジオが流れていました。
『県内では、熊の目撃情報が相次いでいます。住宅地に近い場所でも目撃されており、外出の際には十分注意してください』
運転席の人間は、少しだけラジオの音量を上げました。
「また熊か……」
そうつぶやき、前方に目を戻します。
いつもの道でした。
家へ帰るための道。
仕事へ向かうための道。
道路の先には住宅が並び、街灯が一定の間隔で続いています。
その道路が、昔はどのような場所だったのか。
そこを、どんな生き物が通っていたのか。
考えることは、ほとんどありません。
それは、ごく自然なことです。
人間は、自分たちが暮らす場所を、自分たちの生活に合わせて理解しています。
車は、あっという間にその場所を通り過ぎていきました。
けれど、道路のすぐ脇。
街灯の光が届かない林の中では、一頭の熊が立ち止まっていました。
遠くから聞こえてくる音。
地面を伝わる振動。
近づいてくるエンジンの響き。
熊は、車が近づいてくることを知っていました。
風に乗って、排気ガスの匂いが届きます。
その奥には、人間の匂いもありました。
食べ物の匂い。
住宅から流れてくる生活の匂い。
道路に残された、さまざまな匂い。
熊は鼻先を少し上げました。
風が変わります。
車が通り過ぎると、音は遠ざかっていきました。
熊は、ゆっくりと前足を地面につけます。
以前、このあたりを通ったときには、足の裏に柔らかな土の感触がありました。
湿った落ち葉。
木の根。
斜面に残る土の匂い。
今、足の下にあるのは、硬く平らな地面です。
その先には、知らない匂いが重なっていました。
熊は、少し進みました。
しかし、以前なら続いていたはずの場所に、見慣れないものがありました。
明るい光。
固い地面。
人間の匂い。
熊はそこで立ち止まります。
前へ進めないわけではありません。
けれど、進んだ先に何があるのか分かりません。
熊は、しばらく風を確かめていました。
そして、少しだけ進む方向を変えました。
そのころ、別の場所では、一人の人間が夜道を歩いていました。
草加部です。
急いでいる様子はありません。
自分の足で、一歩ずつ進んでいました。
靴底が道路に触れる音が、一定の間隔で続いています。
歩き始めたころは、短い距離でも身体に負担がかかっていました。
それでも、少しずつ歩くことを続けています。
その夜も、特別な目的があったわけではありません。
ただ、歩くために外へ出てきたのです。
街灯の下を通り、足元を確かめながら進みます。
道路脇の草木が、夜風に揺れていました。
ライトの光が地面を照らし、その先には暗い場所が続いています。
草加部は、いつもの道を歩いていると思っていたでしょう。
実際、そこはいつもの道でした。
歩く速さは、車ほど速くありません。
熊のように、風の匂いを確かめながら進むわけでもありません。
自分の足で、道路の状態を確かめながら、一歩ずつ先へ進んでいました。
その人間から、少し離れた林の中では、熊が別の道を探していました。
草加部は、熊の存在を知りません。
熊もまた、道路の向こうを歩く人間のことを、特別に意識しているわけではありません。
それぞれが、自分の感覚で周囲を確かめながら進んでいました。
同じ夜。
同じ土地。
けれど、見えているものは違います。
人間は、道路を歩いていました。
熊は、以前から知っている場所を進もうとしていました。
どちらも、自分の目的に従っているだけです。
私は、その両方を見ていました。
ただ、熊がどこへ向かおうとしているのかまでは分かりません。
人間がつくった道には、人間の暮らしがあります。
家があり、車が通り、そこに住む人たちの日常があります。
それは、守られるべきものです。
一方で、そこには、以前から別の生き物たちの道もありました。
どちらか一方だけが間違っているという話ではありません。
ただ、同じ場所を、それぞれ違うものが違うように見ているのです。
やがて、車の音が遠ざかりました。
熊は、もう一度風を確かめます。
そのとき、頭上から声がしました。
「そっちは通れないぞ」
カラスでした。
熊は、すぐには返事をしません。
カラスは枝の上から、林の向こうを見ていました。
「道が変わったのか」
熊が尋ねます。
「変わったというより、なくなったところもある。明るくなった場所もあるな」
「イオウの道は、明るくなったな」
「そうだな。夜でも昼間みたいな場所が増えた」
カラスは、少し首を傾けました。
「大清水に知らせが来ている。みんな集まるらしい」
「何の知らせだ」
「詳しいことは知らない。だが、話しておきたいことがあるらしい」
熊は、しばらく黙っていました。
大清水。
その名前を知っているわけではありません。
けれど、そこにある林や水の匂いは知っていました。
「道が通れるなら、行く」
熊はそう答えました。
カラスは、それ以上何も言いませんでした。
やがて羽を広げ、暗い空へ飛び立ちました。
熊は、その姿を見送ると、再び歩き始めました。
人間の暮らす場所を避けるように、木々の間を進んでいきます。
遠くには、住宅の明かりが見えていました。
その明かりは、熊にとって道しるべではありません。
むしろ、近づきすぎないほうがよい場所を知らせるものに近いのでしょう。
一方、草加部は、夜道を歩き続けていました。
靴底が道路に触れる音。
一定の歩調。
街灯の光。
その姿は、やがて暗い道の向こうへ消えていきました。
人間は、いつもの道を歩いて帰ります。
熊は、知っているはずの道を探しながら進みます。
どちらも、自分の目的に従って歩いているだけでした。
人間にとっては、住宅地の夜。
熊にとっては、山の夜。
けれど、その二つは、同じ土地の上にあります。
人間が道をつくり、家を建て、街灯を設置しても、そこにあった山が完全になくなるわけではありません。
少なくとも、そこを歩いてきたものたちの記憶からは。
熊は、林の端で立ち止まりました。
その先には、以前なら通れたはずの場所がありました。
しかし、今は違います。
熊は、暗い向こう側をじっと見つめていました。
そこに道があるのか。
それとも、もう道はないのか。
熊には、まだ分かりません。
ただ、進まなければなりませんでした。
私は、少し離れた場所で、その気配を感じていました。
今夜は、いつもより少し騒がしいようです。
水の音だけではありません。
山のほうからも、何かが動いている気配がします。
……さて、何が起きるのでしょうね。
その夜、富谷では、人間も熊も、それぞれの道を歩いていました。
そして、誰も知らないところで、もう一つの世界もまた、動き始めていたのです。




