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夜道の向こう側 ―― Beyond the Night Road ――  作者: 静間 透
第三章 人間の知らない森
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第4話 山の化け比べーーその3 傘を差した女性

さて。

あのとき、年上のタヌキが口にした、傘を差した女性の話を覚えていますか?

その女性は、いったい何を成し遂げたのでしょう。

今回は、その話をしましょう。

ただし、少し時間をさかのぼらなければなりません。

今から、およそ四十年前。

まだ、あの山の景色が今とはずいぶん違っていたころの話です。

もちろん、これから登場するタヌキやキツネは、先ほどの化け比べをしていたものたちとは別の世代です。

山には、山の時間があります。

人間の暦で四十年といえば、ずいぶん長い時間でしょう。

けれど、山で暮らすものたちにとっては、親から子へ、子から孫へと、暮らしや記憶が受け継がれていく時間でもあるのです。

さて、そのころ。

この山では、人間たちによる開拓が進み始めていました。

木々が切り倒され、斜面の一部が削られ、土が運び出されていきます。

それまで木々に覆われていた場所に、少しずつ空が見えるようになりました。

人間たちは、重機を動かし、土地を整え、新しい道を造ろうとしていました。

朝になると、山の向こうから機械の音が聞こえてきます。

木を切る音。

土を掘り起こす音。

大きな車両が地面を踏み固める音。

それまで風の音や鳥の声が中心だった山に、聞き慣れない音が入り込んできたのです。

動物たちは、最初から人間を敵だと思っていたわけではありません。

人間が山に入ってくることも、昔からありました。

木の実を拾うものもいれば、山道を歩くものもいる。

時には、山の中で人間の声が聞こえることもありました。

しかし、今回の変化は、それまでとは違いました。

人間が帰ったあとも、山の姿が元に戻らないのです。

昨日まであった木がなくなり、通り慣れた場所に土の壁ができる。

獣道が途中で途切れ、草むらが消えてしまう。

タヌキにとっては、毎晩のように通っていた道がなくなるということです。

キツネにとっても、獲物を探していた場所や、身を隠す場所が変わってしまいます。

鳥たちは、いつもの枝にとまれなくなり、巣を作れる場所も少しずつ変わっていきました。

それぞれの生き物が、それぞれの場所で変化を感じていたのです。

そこで、動物たちは何度か集まり、これからどうするべきかを話し合っていました。

もちろん、人間のように議事録を作ったり、難しい規則を決めたりするわけではありません。

集まれるものが集まり、見てきたことを伝え、考えを出し合う。

そんな話し合いです。

「このままでは、通れる道がなくなってしまう」

「食べ物を探す場所も変わってきた」

「イオウたちは、どこまで山を変えるつもりなんだろう」

さまざまな声が上がりました。

けれど、誰も人間たちが何を考えているのか、正確には知りません。

そこで、一つの案が出ました。

人間の世界へ行って、様子を確かめてこよう。

実際に人間たちが何をしているのか。

どこまで土地を変えようとしているのか。

それを自分たちの目で確かめてくるのです。

その役目を担うことになったのが、タヌキとキツネでした。

二匹は、以前から人間の姿に化ける練習を重ねていました。

姿を変えるだけではありません。

人間の声をまねること。

二本の足で歩くこと。

立ち止まったときの姿勢。

周囲を見回すときの顔の動き。

そして、人間がどんなことに気づき、何を気に留めないのか。

年上のタヌキから、いろいろなことを教わっていたのです。

「お前たち、準備はいいか?」

出発の日、年上のタヌキが尋ねました。

「もちろんだ」

若いタヌキが答えます。

「歩き方も、声も練習した。座る練習だってしたぞ」

「座る練習は、そんなに大事なのか?」

キツネが横から口を挟みました。

「大事だろう。イオウは、ずっと立っているわけじゃない」

「それもそうだな」

キツネは、少し考えるように首を傾けました。

年上のタヌキは、二匹を見比べました。

「いいか。姿を変えることだけに気を取られるな。人間の世界に入れば、こちらの都合だけでは動けない。向こうが何を見ているのか、何を不思議に思うのか、それも考えるんだ」

「分かっているよ」

若いタヌキは胸を張りました。

「本当に分かっているのか?」

「たぶん」

「たぶんでは困るな」

キツネが笑いました。

「お前も笑っている場合じゃないぞ」

年上のタヌキがキツネを見ました。

「お前も、しっかり見てくるんだ。人間の姿に化けたからといって、何でも分かるわけではない」

「分かっているさ。俺は目がいいからな」

「目がいいことと、よく見ていることは違うぞ」

「……分かったよ」

こうして、二匹は山を下りることになりました。

*

人間たちが作業をしている場所に近づくと、木を切る音や機械の音が聞こえてきました。

ゴオオオ……。

ガガガガ……。

少し離れたところでは、大きな機械が土を掘り起こしています。

人間が運転する機械の先端が地面に食い込み、土が大きく持ち上がりました。

その土は、別の場所へ運ばれていきます。

木々の間から見ていたタヌキは、思わず足を止めました。

以前は、ここにも木がありました。

その根元には、小さな動物が通る隙間がありました。

少し先には、雨が降ったあとに水がたまる場所もありました。

けれど、今は違います。

木はなくなり、地面は削られ、見慣れた景色が別のものになっていました。

「……本当に、変わってしまったな」

タヌキは小さくつぶやきました。

その声は、機械の音にかき消されました。

一方、キツネは少し離れた場所から、周囲の様子を観察していました。

人間たちがどこから来るのか。

どこへ向かっているのか。

何人くらいで作業しているのか。

機械はどちらの方向へ動いているのか。

キツネは、見たことを一つずつ覚えていきました。

やがて、二匹は別々に行動することにしました。

タヌキは人間に近づいて、直接話を聞いてみる。

キツネは少し離れた場所から、工事の範囲や人間の動きを調べる。

同じことを二匹で繰り返すより、そのほうが多くのことを知ることができると考えたのです。

若いタヌキは、人間の女性の姿に化けました。

姿は、これまで練習してきたとおりです。

髪を整え、服装を整え、二本の足で立つ。

顔つきも、なるべく自然に見えるようにしました。

ただ、まだ一つ、気になることがありました。

「……何か足りないな」

タヌキは、自分の姿を確かめました。

すると、近くに置いてあった傘が目に入りました。

作業員が休憩のときに置いたものだったのでしょうか。それとも、誰かが置いていったものだったのでしょうか。

「そうだ。これだ」

タヌキは傘を手に取りました。

雨が降っているわけではありません。

日差しを避けるためでもありません。

ただ、傘を持って歩いていれば、人間の女性らしく見えるのではないかと考えたのです。

もっとも、当時は晴れた日に山の中で傘を差して歩く女性など、そうそういませんでした。

人間の世界を知っているつもりでも、まだまだ勉強が足りなかったようですね。

さて。

傘というものは、なかなか便利な道具です。

雨を防ぎ、日差しを遮り、頭上を覆ってくれる。

しかし、風が吹けば話は別です。

特に、山の中では。

そのことを、この若いタヌキは、まだ十分に理解していませんでした。

*

タヌキは傘を開き、山の斜面をゆっくりと歩き始めました。

足元を確かめるような動きは、もうありません。

人間らしく、歩幅をそろえて歩きます。

時折、立ち止まって周囲を眺める。

少し考えるように顔を傾け、それからまた歩き出す。

自分では、なかなかうまく化けられているつもりでした。

しばらく歩くと、作業員の姿が見えました。

一人の男性が、機械のそばで作業の様子を確認しています。

タヌキは、できるだけ自然に近づきました。

「こんにちは」

男性が声をかけてきました。

タヌキは、少し驚いたような表情を作りました。

「こんにちは」

「こんなところを歩いているんですか?」

「ええ。ちょっと散歩を」

「この先は工事をしていますから、気をつけてくださいね」

「分かりました。ありがとうございます」

男性は、タヌキの姿を一度見ました。

それから、手にしている傘にも目を向けました。

「今日は、雨も降っていないのに傘ですか?」

タヌキの耳が、ぴくりと動きました。

いえ、人間の姿をしているのですから、耳を動かしてはいけません。

「日差しが少し強いので」

タヌキは、落ち着いた声で答えました。

男性は空を見上げました。

空には雲が広がり、日差しはそれほど強くありません。

「そうですか。まあ、気をつけてください」

「ありがとうございます」

男性は、それ以上追及しませんでした。

タヌキは、心の中で胸をなで下ろしました。

危ないところでした。

傘を持っていれば人間らしく見えると思ったのに、かえって不思議がられてしまったのです。

やはり、人間の世界は難しい。

タヌキは、そう思いながら歩き続けました。

しかし、しばらく進んだところで、山の斜面を吹き下ろす風が強くなりました。

ビュウッ!

突然、傘が大きくあおられました。

「うわっ!」

タヌキは、思わず声を上げました。

傘の骨が反り返り、手元がぐらりと揺れます。

風に持っていかれそうになり、タヌキは両手で柄を握りしめました。

その拍子に、身体の重心が崩れました。

人間なら、足を踏ん張って姿勢を立て直すところです。

ところが、タヌキの身体は、長年の習性を思い出してしまいました。

前足を地面につきそうになったのです。

「いけない!」

タヌキは、寸前で踏みとどまりました。

しかし、傘はまだ風にあおられています。

そのとき、先ほどの作業員が声をかけました。

「大丈夫ですか!」

「だ、大丈夫です!」

「風が強いから、気をつけてくださいよ」

「ありがとうございます!」

タヌキは、何とか傘を閉じました。

風に向かって傘を差すのは、どうやら得策ではなかったようです。

私は、その様子を見て、思わず小さく波紋を広げてしまいました。

……いえ、笑ったわけではありません。

山の風というものは、ときにいたずらをするのです。

タヌキは、閉じた傘を手に持ったまま、今度は慎重に歩き始めました。

どうにか正体を見破られずに済んだようです。

もっとも、本人はずいぶん肝を冷やしたことでしょう。

*

そのころ、キツネは別の場所で人間たちの様子を観察していました。

人間の姿に化け、作業現場から少し離れた道を歩いてみます。

ときには立ち止まり、工事の範囲を眺める。

また、近くを通る人間たちの会話にも耳を傾けました。

「このあたりも、ずいぶん変わるんだな」

「そうだな。これから、もっと整備されるらしいぞ」

「道も新しくなるんだろう?」

「ああ。今までとは、ずいぶん様子が変わるだろうな」

キツネは、その会話を聞き逃しませんでした。

人間たちは、今ある場所を変えようとしている。

しかも、今回の工事だけで終わるわけではなさそうです。

キツネは、周囲を見渡しました。

人間の目には、まだ何もない土地に見えるのかもしれません。

しかし、動物たちにとっては、そこにも道があり、隠れる場所があり、暮らしがありました。

キツネは、そのことを忘れないようにしました。

そして、二匹はそれぞれの調査を終え、山へ戻ることになりました。

*

山では、ほかのタヌキたちが待っていました。

「どうだった?」

年上のタヌキが尋ねます。

若いタヌキは、見てきたことを話しました。

木が切られていたこと。

地面がならされていたこと。

以前の道がなくなっていたこと。

そして、人間たちは、これからも土地を変えていくつもりらしいこと。

キツネも、自分が見聞きしたことを伝えました。

「イオウたちは、まだまだ何かを造るつもりらしい」

「そうか……」

年上のタヌキは、しばらく考えていました。

「山は、これからどうなるんだろうな」

若いタヌキは、すぐには答えられませんでした。

人間たちが何を考えているのか、すべてを知ることはできません。

ただ、これまでの山が、少しずつ変わっていくことだけは分かりました。

「それで、お前はイオウたちと話をしたのか?」

年上のタヌキが尋ねました。

「少しだけな」

「何を話した?」

若いタヌキは、作業員とのやり取りを説明しました。

「ここには、昔から道があったんです、って言ったんだ」

「それで、イオウは何と答えた?」

「ここはこれから変わっていきますからね、だってさ」

その場にいたタヌキたちは、しばらく黙っていました。

「イオウたちには、昔からの道が見えていないのかもしれないな」

年上のタヌキが言いました。

「見えていないというより、別のものを見ているんじゃないか?」

キツネが答えました。

「人間たちは、新しい道を造ろうとしている。俺たちは、今までの道を残したいと思っている」

「同じ場所を見ていても、考えていることは違うというわけか」

「そういうことだろうな」

年上のタヌキは、ゆっくりとうなずきました。

若いタヌキは、手に持っていた傘を見つめました。

「ところで、お前」

年上のタヌキが、傘を指さしました。

「その傘は、どうだった?」

「どうって?」

「イオウらしく見えたのか?」

若いタヌキは、少し考えました。

「まあ、最初はな」

「最初は?」

キツネが笑いました。

「風にあおられて、ひどい目に遭ったんだよ」

「やっぱりな」

「お前も笑うな!」

若いタヌキは、むっとした顔をしました。

「イオウに不思議がられたうえに、風にまで邪魔されたんだぞ」

「それでも、正体は見破られなかったんだろう?」

「まあ、それはそうだけど」

「だったら、上出来じゃないか」

年上のタヌキは、若いタヌキを見ました。

「イオウの世界へ行って、見てきたことを持ち帰った。それだけでも、十分な役目を果たしたんだ」

若いタヌキは、少し照れくさそうに顔をそらしました。

そのとき、カラスが枝の上から声を上げました。

「ところで、お前たち。イオウたちには何か伝わったのか?」

「何かって?」

若いタヌキが尋ねます。

「山のことだよ。イオウたちに、山のことを分かってもらえたのか?」

若いタヌキは、少し考えました。

「山には、昔から道があったんだって話したよ」

「それで?」

「これから変わっていくと言われた」

「そうか……」

カラスは、枝の上で首を傾けました。

「それじゃあ、あまり伝わらなかったのかもしれないな」

若いタヌキは、返事をしませんでした。

人間たちに山のことを理解してもらえたのか。

それは、分かりません。

ただ、山の様子を確かめ、仲間たちに伝えることはできました。

その日の調査は、決して無駄ではなかったのでしょう。

動物たちは、これからも山の変化を見守っていくことになりました。

人間たちの開拓を止めることはできなくても、自分たちの暮らしを守るために、できることを考えていくのです。

*

さて。

人間の世界にも、この出来事は別の形で残ることになりました。

舞台は、中学校です。

校庭の向こう側には、山が見えていました。

中学生たちにとっては、毎日目にしている、いつもの風景だったのでしょう。

ところが、ある日、その山の斜面に、一人の女性が現れました。

女性は、傘を差していました。

雨が降っているわけでもないのに、木々の間をゆっくりと歩いています。

その姿に気づいた生徒が、山の方を指さしました。

隣にいた生徒も振り返り、やがて何人もの生徒が同じ方向を見つめます。

ちょうどそのとき、山から吹き下ろした風が傘を揺らしたのかもしれません。

その動きが、校庭にいた生徒たちの目を引いたのでしょう。

「女の人がいるぞ」

「何であんなところに?」

生徒たちは、不思議そうに眺めていました。

誰かが先生を呼んだのかもしれません。

先生が振り返ったときには、女性の姿は木々の陰に隠れ始めていました。

やがて、その姿は見えなくなりました。

人間の世界では、これが「山に傘を差した女性がいた」という話として残ったのです。

*

一方、タヌキたちの間では、あの日の出来事は別の意味を持っていました。

山の様子を確かめるために、人間の世界へ出向いた若いタヌキ。

人間の姿に化け、工事の様子を調べ、作業員と話をし、風に傘をあおられながらも、何とか正体を見破られずに帰ってきた出来事。

それが、タヌキたちの間で語り継がれていったのです。

人間たちは、山に現れた不思議な女性を覚えていました。

タヌキたちは、山を確かめに行った仲間のことを覚えていました。

……そうそう。

この話を聞いた人間の中には、ずいぶん早く正体に気づいた人もいたそうです。

ある少年が、母親にこの目撃談を話したところ、母親はあっさりと答えました。

「狸だね」

……どうやら、その母親の勘は正しかったようですね。

もっとも、なぜそう思ったのかまでは、私にも分かりません。

人間の中にも、森のことをよく知っている人がいるのかもしれませんね。

さて。

あのとき、若いタヌキが差していた傘は、何のためだったのでしょう。

人間の目には、山の中に現れた不思議な女性の姿として映りました。

けれど、タヌキにとっては、人間の世界へ出向くための工夫の一つだったのです。

山を守ろうとした動物たちの、小さな試み。

人間たちの開拓を止めることはできなかったかもしれません。

それでも、彼らは自分たちの暮らす場所を知ろうとし、変わっていく山を確かめようとしました。

その行動は、タヌキたちにとって、仲間に誇れる出来事だったのでしょう。

同じ出来事でも、人間には不思議な目撃談として、タヌキたちには仲間の武勇伝として残りました。

そして、私も、すべてを知っているわけではありません。

……神様なのに、知らないことがあるのかって?

ありますよ。

神様だからといって、山の隅々まで見張っているわけではありませんからね。

それに、知らないことがあるからこそ、こうしてお話しできることもあるのです。

さて。

傘を差した女性の話は、これでおしまいです。

ただし、山の話は、まだ終わりません。

人間の知らない森には、まだまだ不思議な出来事が残っているのですから。

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