第4話 山の化け比べーーその2 化けるということ
時は、2023年10月。
人間たちは、物価の上昇に頭を悩ませていました。
食料品や日用品の値段が上がり、電気代やガソリン代も気になります。遠い国では戦争が続き、新たな戦闘も始まりました。海の向こうで起きた出来事が、巡り巡って、こちらの暮らしにも影響を及ぼしていたのです。
人間の世界は、ずいぶんと忙しそうでした。
けれど、この山にも、この山なりの事情があります。
木の実は十分に実るのか。
いつもの道は安全なのか。
イオウたちは、山の近くで何をしようとしているのか。
動物たちも、自分たちの暮らしを守るために、周囲の変化を気にしていました。
ただ、彼らのやり方は、人間とは少し違います。
森を歩き、匂いを嗅ぎ、仲間の話を聞く。鳥たちは空から様子を見て、地面を歩く者たちは、いつもと違う足跡や気配を探します。
そして、中にはイオウの姿に化け、人間の暮らしの中へ入り込む者たちもいました。
誰もができることではありません。
化ける力を持っているだけでは、役目を任せてもらえないのです。
姿を変えること。
相手に気づかれないこと。
見たものを覚えて帰ること。
そして、仲間に伝えること。
どれも簡単そうに聞こえますが、実際にやってみるとなかなか難しいものです。
そのため、山の動物たちの中には、年長者を中心に、若い者たちを鍛える場がありました。
コナラの大木の下では、先ほどから集まっていた動物たちが、まだ話を続けていました。
化け比べを楽しんでいた若いタヌキやキツネたち。その様子を見ていた年上のタヌキは、ひとつ大きく息を吐くと、集まった者たちを見回しました。
「さて、遊びはここまでだ」
「ええっ、もう終わりか?」
若いタヌキが不満そうに声を上げました。
「遊びに来たのなら、帰ってもいいぞ」
「いや、帰らない」
「なら、こちらへ来い」
年上のタヌキは、木の根元に場所を作りました。
ここに集まっているのは、ただ化けることが好きな者たちではありません。
それぞれの仲間から見込まれ、山の外の様子を知る役目を期待されている者たちです。
誰でも参加できるわけではありません。化ける力だけでなく、周囲をよく見ること、仲間の話を聞くこと、そして自分の役目を理解することも求められます。
年上のタヌキは、長い間そうした者たちを見てきました。
若い者たちの得意なことも、苦手なことも、よく知っています。
「まずは、今日は何を見てきたか、話してみろ」
年上のタヌキは、若いキツネに目を向けました。
「お前は、あちらにいるイオウたちの様子を見てきたんだったな」
「ああ。ちゃんと見てきたぞ」
「何をしていた?」
「何かを食べていた」
「それだけか?」
「うまそうだった」
「食べ物の話ではない」
キツネは、少し考えました。
「……そうだった。話も聞いてきたぞ」
「何を話していた?」
「山の近くで何かをするらしい」
「何をするんだ?」
「そこまでは聞いていない」
年上のタヌキは、目を細めました。
「もう一度、よく思い出してみろ。何人いた? どちらを向いていた? 何かを指さしていなかったか?」
「ええと……」
キツネは、耳を動かしながら記憶をたどりました。
「二匹……いや、二人いた。片方が山のほうを指していたような気がする」
「それで?」
「もう片方は、何かを持っていた」
「何を?」
「そこまでは見えなかった」
「次に行くときは、話の中身だけでなく、周りの様子も見てこい。何を話しているかだけが情報ではない」
「わかった」
「それから、食べ物に気を取られるな」
「それは難しいな」
キツネは、少しだけ目をそらしました。
年上のタヌキは、呆れたように鼻を鳴らしました。
「お前は、まずそこからだな」
その様子を見ていた若いタヌキが笑いました。
「お前も人のことは言えないぞ」
「何だと?」
「さっきから、木の実のことばかり考えているじゃないか」
「それは別の話だ!」
また、笑い声が起こりました。
少し離れた枝の上では、カラスが首を傾けていました。
「それなら、俺たちは何をすればいい?」
年上のタヌキが見上げました。
「お前たちは、空から見えるものを教えてくれればいい。地面を歩いている者には、見えないものもある」
「例えば?」
「人間がどこから来て、どちらへ向かったのか。森の近くに、いつもと違うものがないか。道の様子が変わっていないか」
「なるほどな」
カラスは、枝から枝へと飛び移りました。
「それなら任せておけ」
「ただし、見たものをそのまま伝えるんだ。勝手に話を大きくするなよ」
「俺がそんなことをするか?」
別のカラスが、すぐに口を挟みました。
「この前だって、畑にいた人間を三人と言ったが、実際には二人だったじゃないか」
「あれは、影が一つ余計に見えたんだ!」
「影まで数に入れるな」
年上のタヌキは、また小さく息を吐きました。
私は水辺から、その様子を眺めていました。
なかなか思うようにはいかないものですね。
けれど、年上のタヌキは、若い者たちをただ叱っているわけではありません。
それぞれの得意なことを見極め、何を任せられるのかを考えているのです。
空から周囲を見渡すカラスには、地上からでは見えないものを探してもらう。鼻の利く者には、いつもと違う匂いを見つけてもらう。そして、人間の姿に化けられる者には、人間の暮らしの中でしかわからないことを探ってもらう。
動物たちは、人間のように学校を作って学ぶわけではありません。
経験を積んだ者が、若い者に教える。
自分が覚えたことを伝え、失敗したことを伝え、危険だったことを伝える。
それが、彼らのやり方なのです。
もちろん、見込まれたからといって、すぐに一人前になれるわけではありません。
「ところで、お前たちは何のために化けるんだ?」
年上のタヌキが、若い者たちに尋ねました。
「イオウのところへ行くためだろう?」
若いタヌキが答えました。
「それだけか?」
「イオウの話を聞くためだ」
キツネが続けました。
「それから、イオウを驚かせるためだな」
「お前は、そればかりだ」
年上のタヌキは、少し困った顔をしました。
「イオウのことを知るのは、姿を変えるためだけではない。何をしているのか、何を考えているのか。自分たちの暮らしに、どんな影響があるのか。それを知るためだ」
「でも、イオウの姿になれば、イオウの気持ちもわかるんじゃないのか?」
若いタヌキが尋ねました。
年上のタヌキは、首を横に振りました。
「そう簡単なものではない」
「どうして?」
「イオウの姿になったからといって、イオウになったわけではないからだ」
キツネが、得意そうに言いました。
「それならわかるぞ。イオウになったら、俺は尻尾がなくなる」
「そこか!」
若いタヌキが笑いました。
年上のタヌキは、二匹を見てから、静かに続けました。
「前にも言ったが、姿を変えただけで、相手のことまでわかるわけではない。相手が何を気にしているのか、何を怖がっているのか、何を大切にしているのか。そういうことは、よく見て、聞いて、考えなければわからない」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「自分たちと同じだと思わないことだ。イオウにはイオウの暮らしがある。こちらの都合だけで考えていても、本当のことは見えてこない」
年上のタヌキは、若い者たちを見回しました。
「イオウになったつもりでいると、イオウのことが見えなくなることもある」
その言葉に、若いタヌキもキツネも、今度は笑いませんでした。
「化けるというのは、姿を変えることだけではない。相手の世界を知ろうとすることでもある」
私は、その言葉を聞きながら、水面に小さな波紋を広げました。
この山の動物たちは、人間とは違う世界に生きています。
けれど、人間のことを知らずに暮らしていけるわけではありません。
人間が森に近づけば、動物たちの暮らしも変わります。道ができれば、通り道が変わることもある。水辺の様子が変われば、そこに暮らす生き物たちにも影響が出ます。
だからこそ、彼らは知ろうとしているのです。
人間のことを。
自分たちの暮らす場所のことを。
もっとも、動物たちがみな同じ考えを持っているわけではありません。人間に近づきたい者もいれば、できるだけ関わりたくない者もいます。
それぞれの考えがあり、それぞれの暮らしがある。
それは、人間の世界と同じなのかもしれませんね。
「なあ」
若いタヌキが、ふと思い出したように尋ねました。
「イオウに化けるときって、何を持っていけばいいんだ?」
「何の話だ?」
「イオウの姿になるなら、イオウの持ち物も必要だろう?」
「場合によるな」
「じゃあ、傘は?」
その一言で、年上のタヌキの耳が、ぴくりと動きました。
キツネも、尻尾を揺らすのをやめました。
「……傘?」
「ああ。イオウの女は、傘を持っていることがあるだろう?」
「雨が降ればな」
「晴れているときは?」
若いタヌキは、首を傾げました。
「晴れているときに傘を持っていたら、変なのか?」
年上のタヌキは、しばらく黙っていました。
そして、ゆっくりと口を開きました。
「今のイオウなら、晴れた日に傘を差していても、さほど不思議には思わないだろう。日差しを避けるために、日傘を使う者もいるからな」
「日傘?」
「ああ。だが、あの頃は違った。晴れた日に傘を差して歩くイオウなど、ほとんどいなかった」
「ほとんど?」
「まして、山の中だ。雨も降っていないのに、女が傘を差して歩いていたら、誰だって不思議に思うだろう」
年上のタヌキは、遠くの木々を眺めました。
「昔、うちの一族に、イオウの女に化けたタヌキがいた」
「イオウの女に?」
「ああ」
「それで、どうしたんだ?」
「その女は、傘を差して山を歩いていたそうだ」
若いタヌキは、身を乗り出しました。
「何のために?」
「それは、まだ話していない」
「なんだよ。教えてくれたっていいだろう?」
年上のタヌキは、少しだけ笑いました。
「お前たちが、もう少し化けることを覚えたらな」
私は、その様子を静かに眺めていました。
今から四十年ほど前のことです。
人間たちの暮らしは、今とは違っていました。晴れた日に傘を差すという光景も、今ほど当たり前ではありませんでした。
だからこそ、山の中で傘を差した女性を見た中学生たちは、不思議に思ったのでしょう。
人間たちには、奇妙な女性の目撃談として残った出来事。
けれど、タヌキたちにとっては、一族に伝わる誇りある出来事でした。
同じ出来事でも、見る者が違えば、その意味は変わります。
そして、あの女性が何をしようとしていたのか。
それを知っている者は、今もこの山にいるのかもしれません。
年上のタヌキは、まだ若い者たちに、その話の続きをしていません。
けれど、彼らがこれから何を学び、どんな役目を担っていくのか。
それを見ていれば、いずれ話す日も来るのでしょう。




