第4話 山の化け比べーーその1
10月の山は、昼と夜とで、ずいぶんと顔が変わります。
昼間はまだ、木々の葉に残った緑が目立ちます。しかし、日が傾くと、山の中には早々と夕闇が忍び込んできます。枯れ葉の匂いが濃くなり、風が枝を揺らすたび、乾いた音があちこちで響く。
人間たちは、こうした季節の変化を見て、秋が深まってきたと感じるのでしょう。
けれど、山で暮らすものたちにとって、秋は眺めるだけの季節ではありません。
食べ物を探し、冬に備え、いつもの道を確かめる。木の実が落ちる場所も、水の流れも、去年と同じとは限りません。
山には山の事情があるのです。
さて、その山の一角。
大きなコナラの木の下に、何匹かのタヌキが集まっていました。
「遅いぞ」
最初に来ていたタヌキが言いました。
「俺は今来たところだ」
「だから遅いと言っている」
「どういう理屈だ、それは」
二匹は、しばらく互いの顔を見つめました。
どちらも、相手が納得するまで説明するつもりはなさそうです。
そこへ、少し離れた茂みからキツネが顔を出しました。
「まだやってるのか。始まる前から疲れそうだな」
「お前こそ、ずいぶん余裕じゃないか」
「余裕があるからな」
キツネはそう言って、ゆっくりと尻尾を振りました。
「その尻尾、隠す練習はしたのか?」
タヌキの一匹が尋ねます。
「隠れてるだろ」
「見えてるぞ」
「……あれは、風だ」
「便利な風だな」
キツネは返事をせず、そっぽを向きました。
このあたりで、そろそろ何の集まりなのか説明しておきましょう。
彼らが集まったのは、化け比べのためです。
タヌキやキツネが化けるという話は、人間の世界にも伝わっています。昔話では、木の葉を頭に載せたり、呪文を唱えたりすることもありますね。
しかし、山の中で実際に行われる化け比べは、もう少し気楽なものです。
誰が一番うまく化けられるのか。
どんな姿になれるのか。
そして、化けた姿を見破られずにいられるのか。
そんなことを試し合うのです。
もっとも、全員が真面目に腕を競っているわけではありません。仲間の失敗を見て笑うのが目的のものもいます。
人間の集まりにも、似たようなところがあるのではないでしょうか。
「じゃあ、まずはお前からだ」
年上のタヌキが、若いタヌキを顎で指しました。
「俺か?」
「さっきから口だけは達者だからな」
「見てろよ」
若いタヌキは胸を張りました。
その体が、ふっと揺らぎました。
毛並みが消え、背丈が伸び、二本の足で立つ姿へと変わっていきます。やがてそこには、作業着を着た中年の男が立っていました。
服の汚れ具合も、少し疲れた顔つきも、なかなかのものです。
キツネが目を細めました。
「へえ。悪くないじゃないか」
「だろ?」
男の姿になった若いタヌキは、得意げに歩き始めました。
ところが、三歩ほど進んだところで、足を止めました。
そして、地面をつま先で探るように、こつ、こつ、と触れたのです。
年上のタヌキが、すぐに声を上げました。
「そこだ」
「何がだよ」
「人間に化けたのはいい。だが、お前は歩く前に地面を確かめる癖が抜けていない」
若いタヌキは黙りました。
「人間がみんな、そんな歩き方をするわけじゃないだろう」
「……細かいな」
「化けるなら、最後まで化けきれ」
キツネが横から口を挟みました。
「木の実なら、俺が食べてやる」
「食べるな!」
若いタヌキは、思わず元の声で叫びました。
その瞬間、せっかくの人間の姿が崩れました。
仲間たちの笑い声が、コナラの木の下に広がりました。
「今のは、化け比べじゃなくて、癖比べだな」
キツネが言いました。
「次はお前がやれ!」
若いタヌキが言い返します。
「もちろん、そのつもりだ」
キツネは、まるで待っていましたとばかりに前へ出ました。
体が細く伸び、毛並みが消え、今度は若い女性の姿になりました。
人間の服装も、それらしく整っています。
タヌキたちは、先ほどより真剣な目で見つめました。
キツネは一度、仲間たちの前を歩き、近くの倒木に腰を下ろそうとしました。
しかし、腰を下ろす直前で動きが止まりました。
「……これは、どうするんだ?」
「何がだ?」
「人間は、こんなところに座るのか?」
「座るやつもいるだろう」
「いや、そうじゃない。尻尾が……」
キツネは口をつぐみました。
人間の姿になれば、尻尾はありません。
分かっているはずなのに、長年使ってきた体の感覚が、どうにも邪魔をするようです。
キツネは、倒木の前で妙な格好のまま固まりました。
カラスが、枝の上から笑いました。
「おい。座るだけで、ずいぶん苦労してるな」
「うるさい。人間の暮らしは面倒なんだ」
「化ける前から、言い訳を考えてたんじゃないのか?」
キツネは倒木から離れ、何事もなかったように姿を戻しました。
「今のは、練習だ」
「便利な言葉だな」
先ほどのタヌキが言いました。
「お前にだけは言われたくない」
そんなやり取りを、私は少し離れたところから眺めていました。
山の中には、こういう時間もあります。
誰かが困り、誰かが笑い、笑われたものが言い返す。
人間の目には、ただ動物が集まって騒いでいるように見えるかもしれません。
しかし、彼らにとっては、彼らなりの暮らしの一部なのです。
そのとき、先ほどから枝にとまっていたカラスが、首を傾けました。
「ところで、お前たち。化けて何か得するのか?」
「何だ、急に」
タヌキが見上げます。
「人間に化けたら、食べ物が手に入るのかと思ってな」
「それは、化け方次第だろう」
「じゃあ、俺もイオウに化けられるのか?」
カラスは、自分の翼を広げてみました。
「……いや、俺は飛べるから、このままのほうが便利か」
「自分で結論を出すな」
キツネが呆れた声を出しました。
カラスは気にした様子もなく、枝から枝へと飛び移りました。
「まあ、俺は見ているほうがいい。何かあったら教えてやる」
「何を教えるんだ?」
「面白かったかどうかだ」
誰も反論しませんでした。
どうやら、このカラスは自分を審査員だと思っているようです。
そのとき、草むらがかすかに揺れました。
イタチが顔を出し、集まっているタヌキやキツネを見回しました。
「何を騒いでるんだ?」
「化け比べだ」
「そうか。俺は腹が減ったから、先に行く」
「見ていかないのか?」
「見て腹が膨れるならな」
イタチはそれだけ言うと、落ち葉の間へ姿を消しました。
山の中では、何をするにも、それぞれの都合があります。
化け比べに興味があるものもいれば、食べ物を探すほうが大切なものもいる。仲間の集まりだからといって、全員が同じことを考えているわけではありません。
さて、化け比べは続きました。
若いタヌキは、今度は地面に転がる石に化けました。
色も形も、周囲の石によく似ています。
「おお、今度は分からないぞ」
カラスが言いました。
キツネは石の周りを歩き、じっと見つめました。
年上のタヌキも、少し離れたところから眺めています。
しばらく、誰も何も言いませんでした。
若いタヌキは、うまく化けられたと思ったのでしょう。
そのとき。
「……くしゅん!」
小さなくしゃみが、石のあたりから聞こえました。
全員が、一斉にそちらを向きました。
石は、もう石ではありませんでした。
「石がくしゃみをしたぞ!」
カラスが叫びました。
「石にも鼻があるのか?」
キツネが続けます。
「あるわけないだろ!」
若いタヌキは、元の姿に戻って怒鳴りました。
「だったら、くしゃみをするなよ」
年上のタヌキが言いました。
「我慢できなかったんだ!」
「石になっている間くらい、我慢しろ」
「無茶を言うな!」
また笑い声が上がりました。
私は思わず、水面に小さな波紋を広げてしまいました。
……いえ、笑ったわけではありませんよ。
水というものは、ときどき、周囲の気配に反応することがあるのです。
さて。
ひとしきり笑いが収まったころ、年上のタヌキが、若いタヌキたちを見回しました。
「お前たちは、姿を変えることばかり考えているな」
「化け比べなんだから、当たり前だろ」
キツネが答えました。
「姿を変えるのは、化けることの一つにすぎない」
年上のタヌキは、ゆっくりと言いました。
「声もある。歩き方もある。相手が何を見ているかもある」
「相手が何を見ているか?」
若いタヌキが聞き返しました。
「そうだ。こちらが同じ姿をしていても、見るものによって、受け取り方は違う」
「どういうことだ?」
「それを考えるのが、化けるということだ」
年上のタヌキは、それ以上、説明しませんでした。
若いタヌキは首をひねり、キツネは尻尾を一度だけ振りました。
カラスだけが、何か分かったような顔をしていました。
もっとも、本当に分かっていたのかどうかは、私にも分かりません。
山の中では、こうして言葉だけが残ることがあります。
その意味をすぐに理解するものもいれば、ずっと後になってから気づくものもいる。
そして、言葉を口にした本人でさえ、どこまで分かっていたのか、定かでないこともあるのです。
年上のタヌキは、しばらく黙っていましたが、やがて若いタヌキに尋ねました。
「ところで、お前。イオウに化けるなら、どんなイオウがいいと思う?」
若いタヌキは、すぐには答えませんでした。
さっきまで笑っていたキツネも、今度は口を挟みません。
風が吹き、コナラの葉が一枚、二枚と地面に落ちました。
その葉が止まったところに、妙に整った靴底の跡が一つ。
……これは、あとで考えることにしましょう。
「どんなイオウって……」
若いタヌキが、ようやく口を開きました。
「強そうなイオウか? それとも、優しそうなイオウか?」
「さあな」
年上のタヌキは答えました。
「お前が化けた姿を見て、相手がどう思うか。それも考えなきゃならん」
「面倒だな」
「だから、化けるのは面白いんだ」
その言葉に、キツネが小さく頷きました。
人間の姿になれば、人間と同じになる。
そんな単純な話ではないのでしょう。
姿を変えることと、相手にどう見られるかは、別のことなのです。
私は、その場にいるものたちの様子を眺めながら、ふと思い出しました。
ずっと昔、この山で、あるタヌキが人間の女性に化けたことがありました。
その女性は、傘を差していたそうです。
人間たちの目には、山の中に現れた不思議な女性として映ったのでしょう。
けれど、タヌキたちの間では、また違う話として語り継がれています。
同じ出来事でも、見るものが違えば、話の意味も変わる。
その女性は、いったい何を成し遂げたのでしょう。
人間たちが知らない、その出来事の向こう側には、どんな物語があったのでしょうか。
……私が先回りしてしまいましたね。
今はまだ、その話をする時間ではありません。




