第11話 床屋さん
10月も終わりに近づくと、夕方の空気は目に見えて変わってくる。
日が落ちるのが早くなり、ついこの間まで明るかった時間帯にも、気がつけば家々の窓に灯りがともっている。昼間はそれほど寒くなくても、日が傾いてから外に出ると、頬に触れる風が少し冷たい。
自分は、玄関を出る前に壁の時計を見た。
17時45分。
予約は18時だった。
今日は仕事が休みだった。普段なら夜勤に備えて夕方まで寝ていることもあるが、休日は必ずしもそうではない。用事があれば起きるし、何もなければ家で動画を見たり、スマートフォンをいじったりして時間を過ごす。
髪が伸びてきたことは、少し前から気になっていた。
耳の上あたりが膨らみ、後ろ髪も襟に触れるようになっている。そろそろ切らないとな。そう思いながら、何日かが過ぎていた。
自分は上着を羽織り、車の鍵を手に取った。
駐車場に置いた軽自動車まで歩き、運転席に乗り込む。ドアを閉めると、外の音が一段遠くなった。
エンジンをかけ、暖房を入れる。吹き出し口から出てくる風は、まだ冷たかった。
シートベルトを締め、ミラーを確認して道路に出る。
住宅街には帰宅する車が少しずつ増え始めていた。ヘッドライトが反対方向から通り過ぎ、歩道には買い物袋を提げた人や、自転車を押す人の姿が見える。
空はまだ完全には暗くなっていなかったが、西の空に残る明るさは、建物の向こうへ少しずつ沈んでいった。
信号で止まる。
横断歩道を渡る人の姿が目に入った。
夜道を歩くようになってから、車を運転しているときにも、歩行者の見え方を気にするようになった。暗い服を着ていると、街灯の位置や背景によっては、思った以上に見えにくい。
歩く側に立ってみて、初めて気づくこともある。
信号が青に変わった。
自分はアクセルを踏んだ。
理髪店に着いたのは、予約時刻の少し前だった。
店の前に車を止め、エンジンを切る。暖房の風が止まると、車内は急に静かになった。
ドアを開けると、冷えた空気が首元に入り込んできた。
上着の襟を少し立て、店の入口へ向かう。
ガラス越しに見える店内は明るかった。鏡の前には理髪椅子が並び、壁際には整髪料やシャンプーなどが置かれている。
いつもの店だった。
入口のドアを開けると、小さなベルが鳴った。
カラン。
「いらっしゃい。どうぞ」
店主が顔を上げた。
「こんばんは。お願いします」
「はい、18時で予約の草加部さんですね。ちょうどいい時間です」
「ええ。少し早く着きました」
「上着をどうぞ」
上着を脱いで渡すと、店主は「こちらへ」と理髪椅子に案内してくれた。
店内は暖かかった。
整髪料の甘い匂い、シャンプーの香り、それに床を掃除したときの洗剤か消毒液のような匂いが混ざっていた。
不思議なもので、理髪店には理髪店の匂いがある。
どこの店でも同じというわけではないが、ここには何度も来ている。入口を入っただけで、いつもの場所に戻ってきたような感じがした。
椅子に腰を下ろすと、背もたれがわずかに沈んだ。
「今日は、いつもくらいでいいですか?」
「はい。耳の周りと後ろを、少し短めにお願いします」
「分かりました。だいぶ伸びましたね」
「そうなんですよ。切ろうと思ってから、けっこう経ちました」
「髪は、気づくと伸びてますからね」
店主は笑いながら、首にタオルを巻き、その上から散髪用のケープを掛けた。
首元に布が触れ、ケープの端が肩に広がる。
店主は鏡越しに髪の状態を確かめ、櫛で髪をすいた。
ハサミが動き始める。
シャキ、シャキ。
乾いた音が、店内に小さく響いた。
切られた髪がケープの上に落ちてくる。黒い毛が何本か、白い布の上で丸まった。店主が櫛を入れるたび、頭皮に軽い刺激が伝わってくる。
自分は鏡の中の自分を見ていた。
散髪中は、何かをする必要がない。
スマートフォンを見ることもできないし、歩くこともできない。じっと座っているだけだ。
普段は、じっとしている時間がそれほど長くない。
仕事がない日でも、気が向けば外を歩く。15kmほど歩けば、時間は3時間前後かかる。途中で信号に引っかかり、道を確認し、飲み物を買えば、もう少し長くなる。
普通に考えれば、散歩というより、ちょっとした遠出だろう。
しかし、自分にとっては、いつの間にか特別なことではなくなっていた。
「最近、寒くなってきましたね」
店主が言った。
「そうですね。朝晩は、けっこう冷えます」
「このままだと、あっという間に冬ですよ。雪も降りますしね」
「そろそろタイヤ交換もしないと」
「もう替えました?」
「いや、まだなんですよ」
鏡を見たまま答えた。
雪が降る前に準備しなければならないと分かっているのに、まだ大丈夫だと思っているうちに、時期が近づいてくる。
今年は、早めに予約しておいた方がいいかもしれない。
「タイヤ交換って、予約が混むんですよね」
「そうなんですよ。雪の予報が出ると、みんな一斉に動きますから」
「ですよね。降ってからじゃ遅いですし」
「ええ。早めがいいですよ」
店主はそう言いながら、ハサミを動かした。
自分は、タイヤ交換のことから、冬の道路のことを考えた。
雪が積もれば、いつもの道でも歩きにくくなる。路面が凍れば、足の置き方にも気を使う。気温や風の強さによって、同じ距離でも身体の感じ方が違う。
冬は、歩く前の準備が増える。
上着をどうするか。手袋は厚いものにするか。靴は防水性を優先するか、それとも滑りにくさを優先するか。
歩くだけなら、そんなことを考えなくてもいいと思う人もいるだろう。
けれど、自分にとっては、そこも含めて歩くことだった。
「草加部さん、最近も歩いてます?」
店主が尋ねた。
「歩いてますよ」
「前に、けっこう長い距離を歩くって話してましたよね」
「そうですね。15kmくらい歩くこともあります」
店主の手が、一瞬止まった。
「15kmですか?」
「ええ」
「散歩で?」
「まあ、ウォーキングですね」
「いやあ、すごいですね。私だったら、途中で嫌になりそうです」
「慣れですよ」
自分は、特別なことを話しているつもりはなかった。
最初から15km歩けたわけではない。短い距離から始めて、少しずつ歩く距離が伸びていった。気づけば、長い距離を歩くことが日常の一部になっていた。
だからといって、誰にでも勧めるつもりはない。
歩くのが好きな人もいれば、苦手な人もいる。休日に家でゆっくり過ごす方が楽しい人だっている。
それだけのことだ。
「3時間くらいですか?」
「休まず歩けば、そのくらいですね。途中で止まることもありますけど」
「3時間……。いやあ、私には無理だなあ」
店主は笑った。
「でも、車で走っていると、すぐ近くに感じる場所でも、歩くと意外に遠いんですよ」
「それはありますね。車だと、あっという間ですから」
「逆に、歩いていると、こんなところに道があったのか、って気づくこともあります」
「へえ」
「車だと通り過ぎてしまうような場所でも、歩いていると目に入るんですよ」
自分は、いつもの道を思い浮かべた。
車で走っていると、目的地までの時間を考える。信号が何回あるか、渋滞しているか、どこで曲がるか。
歩いていると、それとは別のものが目に入る。
道路脇の草。側溝を流れる水。家の裏に続く細い道。街灯の下にできる影。昼間には気づかなかった建物の明かり。
それらを見つけたからといって、何か特別なことが起きるわけではない。
ただ、見えるものが増える。
それだけでも、歩く理由にはなった。
「夜に歩くことも多いんですか?」
店主が尋ねた。
「そうですね。仕事の関係もありますけど、夜に歩くことが多いです」
「夜道は、気をつけないといけませんね」
「ええ。車もありますしね」
「この辺りも、暗いところがありますから」
店主は櫛を置き、ハサミを持ち替えた。
「そういえば、最近は熊の話ばかりですよ」
その言葉に、自分は鏡の中で少しだけ目を上げた。
「やっぱり、そうですか」
「ええ。お客さんが来るたびに、熊の話になります。どこで見たとか、あそこにも出たとか」
店主は、耳の周りの髪を慎重に切りながら続けた。
「この前も、大清水の方で見たって話がありましたよね。日吉台の方も聞きましたし、高屋敷の方も。穀田の辺りも話題になってました」
「そうですね」
短く答えた。
どれも聞き覚えのある地名だった。
歩いている場所、車で通る場所、買い物に行く場所。日常の中にある地名ばかりだ。
熊の目撃情報を聞くたびに、その場所を地図の上で考えるようになっていた。
どこから来たのか。
どちらへ向かったのか。
その間に、何があるのか。
ただし、目撃された場所が近いからといって、同じ熊が移動したとは限らない。日にちが違えば、なおさらだ。
別々の熊かもしれないし、たまたま別々の場所で目撃されただけかもしれない。
「お客さんの中に、警察の方もいらっしゃるんですか?」
自分が尋ねると、店主はうなずいた。
「ええ。来られることがありますよ。それで、熊の話を聞いたんです」
「現場にも行くんですか?」
「そうらしいですね。通報があると、現場を確認して、市役所に連絡したり、関係するところと話をしたりするそうです」
店主はハサミを動かしながら続けた。
「その方が言うには、熊は頭の骨も硬いし、拳銃を持っているからといって、簡単にどうにかできる相手じゃないそうです」
少し間を置いて、店主は付け加えた。
「まあ、私も詳しいことは分かりませんけどね。お客さんから聞いた話ですから」
「なるほど」
「相手は野生動物ですからね。人間の思いどおりにはならないんでしょう」
「そうでしょうね」
熊が危険な動物であることは分かっている。
目撃情報が出たからといって、すべての熊が人間を襲おうとしているわけではないだろう。しかし、人間の都合に合わせて行動してくれるわけでもない。
腹が減っていれば食べ物を探すだろうし、驚けば逃げようとするかもしれない。
「熊も、いろんなところに出ますね」
店主が言った。
「そうですね」
「この辺りに住んでいる人からすれば、どこに出ても不思議じゃない、という感じになってきましたよ」
店主は苦笑した。
「前は、山の方の話だと思っていたんですけどね。今は、普通に買い物に行く場所の名前が出てくるでしょう」
「ええ」
「お客さん同士でも、話が違うことがあるんですよ。あそこに出たって聞いた人もいれば、いや、違う場所だったって言う人もいる」
「目撃した人から直接聞いた話なのか、誰かから聞いた話なのかでも、違いますからね」
「そうそう。そういうことなんでしょうね」
店主は納得したようにうなずいた。
「でも、みんな気になりますからね。どこに出たのか、次はどこに出るのか」
「まあ、そうですよね」
自分も、気にならないわけではなかった。
歩く道の近くで熊が目撃されたと聞けば、いつもより周囲を見るようになる。暗い場所では耳を澄ませることもあるし、見通しの悪い場所では、先に何があるのかを気にする。
情報を知ることで、注意の向け方が変わる。
それだけでも、知らないまま歩くのとは違っていた。
店主は、後ろ髪の長さを確認した。
「後ろは、これくらいでいいですか?」
「はい。お願いします」
ハサミの音が、再び続いた。
シャキ、シャキ。
短くなった髪が、ケープの上に落ちていく。
熊の話は、そこでいったん終わった。
店主は別の話題に移り、最近の天気や、冬になると店の前の道路がどうなるかといった話をした。自分も相づちを打ちながら聞いていた。
熊について話していたかと思えば、タイヤ交換の話になり、次には髪の伸びる速さの話になる。
散髪屋の会話とは、そういうものなのかもしれなかった。
しばらくして、店主がハサミを置いた。
「だいたい、こんなところですね」
「はい」
「後ろを確認しますね」
店主は、自分の背後に回った。
鏡の中で、店主の姿が少し動く。
店主は手鏡を持ち上げ、後頭部が見えるように角度を調整した。
「ここが、こうなっています。大丈夫ですか?」
「はい。いいと思います」
鏡の中の後ろ髪を確認した。
短く整えられている。
襟足もすっきりしていた。
そのときだった。
手鏡の中に、店主の腰のあたりが映った。
白い散髪用の上着。その下にあるズボン。
そして、その脇から、何かが動いた。
茶色いものだった。
毛がふさふさしている。
腰のあたりから、横に伸びるように現れ、ゆっくりと揺れた。
尻尾。
そう思った。
ほんの一瞬のことだった。
茶色い毛の塊が、店主の身体の後ろで揺れたあと、すっと引っ込んだ。
鏡を見たまま、動かなかった。
店主も、ほんのわずかに動きを止めた。
しかし、次の瞬間には何事もなかったように手鏡の角度を直し、後頭部を確認していた。
「後ろは、こんな感じですね。よろしいですか?」
「はい。大丈夫です」
店主の声も、手の動きも、いつもと変わらなかった。
先ほどのものが何だったのか、聞こうと思えば聞けた。
けれど、何も言わなかった。
見間違いかもしれない。
腰の後ろにあったタオルか、何かの道具が、身体を動かした拍子に見えただけかもしれない。
そう考えれば、説明がつかないわけではなかった。
ただ、あの動きは、布が揺れたときのものとは少し違っていたような気もする。
鏡の中で店主と目が合った。
店主は軽くうなずき、手鏡を下ろした。
「では、仕上げますね」
「お願いします」
それだけだった。
店主は襟足を整え、首元についた髪をブラシで払った。細かな毛が肌をかすめ、少しくすぐったい。
やがてケープが外され、肩に残っていた髪が床に落ちた。
「はい、終わりました」
「ありがとうございます」
椅子から立ち上がり、鏡で髪型を確認した。
耳の周りがすっきりし、後ろ髪も整っている。いつもどおりの仕上がりだった。
会計を済ませる間も、店主は普段と変わらなかった。
天気の話を少しして、自分はまた来ますと答えた。
入口のドアを開けると、ベルが鳴った。
カラン。
外の空気は、店内よりもずっと冷たかった。
散髪したばかりの首筋に風が触れる。髪が短くなったぶん、肌に当たる空気の感触がはっきりしていた。
上着の襟を立て、車まで歩いた。
運転席に座ると、車内には外の冷気が入り込んでいた。ドアを閉め、エンジンをかける。暖房を入れると、しばらくして吹き出し口から温かい風が出てきた。
シートベルトを締め、店の前から車を出す。
道路は、すっかり暗くなっていた。
ヘッドライトが路面を照らし、前を走る車のテールランプが赤く光っている。
頭の中には、冬のタイヤ交換と、熊の目撃情報が残っていた。
それから、理髪店の鏡に映ったもの。
あれは、本当に尻尾だったのだろうか。
ほんの一瞬だった。見間違いだった可能性もある。
店主は何事もなかったように仕事を続けていた。
だから、自分も何も聞かなかった。
前方の信号が赤に変わった。
ブレーキを踏み、停止線の手前で車を止める。
歩道を自転車が1台通り過ぎていった。その後ろを、買い物袋を提げた女性が歩いている。
どこにでもある、夕方から夜にかけての風景だった。
信号が青に変わる。
自分はアクセルを踏んだ。
帰宅したら、タイヤ交換の予定を確認しよう。
そのあと、時間と体調に余裕があれば、少し歩いてもいい。
今日は休日だ。
歩くかどうかは、家に帰ってから決めればいい。
散髪は終わった。
ただ、手鏡の中で見たものが何だったのかは、分からないままだった。




