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第10話 最初の違和感

いつものコースでは、少し物足りなくなっていた。

大清水から成田へ向かい、明石台、大沢を回って戻る。最初のころは、それだけでも十分に長かった。歩き終えて帰宅すると、脚には疲れが残り、布団に入れば自然と眠くなった。

けれど、歩くことが日常になり、少しずつ距離を延ばせるようになると、同じ道だけでは足りなくなってきた。

「もう少し歩けるんじゃないか」

そんな気持ちから、いくつかのコースを組み合わせるようになった。

大清水と成田を回り、大沢方面にも足を延ばす。さらに泉ヶ丘、富ケ丘、鷹乃杜の外周をつなぐ。住宅地の端をなぞるように歩き、街の明かりが途切れる場所まで進んでから、別の道へ抜けていく。

コースを組み合わせると、およそ15キロになる。反対回りにすれば、少し長くなって16キロほどだった。

歩き続ければ、3時間半ほどが過ぎる。

同じ富谷でも、道ごとに夜の表情は違っていた。

家が並び、街灯が続く場所もあれば、住宅が途切れ、道路の向こうに暗い林が広がる場所もある。人の気配が薄くなり、車の音だけが遠くから聞こえてくる道もあった。

季節も変わり始めていた。

秋の初めには、それほど気にならなかった冷たい空気が、夜の終わりには身に染みるようになっていた。住宅地では気にならなかった風が、建物の途切れた場所へ出ると、首元を通り抜けていく。

木々や建物に囲まれた場所では風が弱まり、開けた場所では急に強く感じられる。同じ夜でも、歩く場所によって肌に触れる空気は違っていた。

「真冬になったら、どうなるんだろうな」

富谷の深夜は、真冬になれば氷点下になる。

今のうちから、寒さへの備えを考えておく必要があった。

手袋も必要になってきた。ただ、厚着をすればいいというわけでもない。歩いているうちに体は温まる。汗をかいたあとに風が吹けば、今度は体が冷えてしまう。

何を着るか。何を持っていくか。

試してみなければ分からないことが多かった。

最近は、トレイルランニング用のザックも使うようになっていた。

普通のリュックとは感覚が違う。肩に荷物をぶら下げて背負うというより、体に着せるような感じだった。

胸の前でベルトを留めると、ザックが背中から脇腹にかけて密着する。歩いているあいだも大きく揺れず、体の動きを邪魔しにくい。

「背負うというより、着る、か」

長い時間、夜の屋外にいるのだから、必要なものは持っておきたい。けれど、荷物を増やせば重くなる。

「あれも必要か。いや、これはいらないか……」

何を入れて、何を持たないか。使いながら考えていくしかなかった。

歩くための準備が、いつの間にか、歩き続けるための準備に変わっていた。

その夜も、いつものように家を出た。

冷たい空気が頬に触れた。息を吐いても、まだ白く見えるほどではない。空を見上げると、星がきれいに見えた。

足元の舗装路は乾いていた。街灯の光が道路に丸く落ち、その間には濃い影ができている。

遠くで車が走り抜ける音がした。音は近づき、少しずつ大きくなり、やがて背後へ流れていった。

歩きながら、昔、山を歩いたときのことを思い出した。

登山道では、足元ばかり見ているわけにはいかない。先の道を確認し、木の根や石を避け、呼吸を整えながら一歩ずつ進む。登りが続けば息が上がり、下りでは脚に負担がかかる。

「山歩きも、結局は一歩ずつなんだよな」

ふと、トレイルランニングのことも頭に浮かんだ。

山道を走る人たちの映像を見たことがある。実際にレースへ出たことはない。けれど、自分が参加したら、どこまで走れるだろうと思うことがあった。

スタート地点に並び、合図とともに走り出す。周囲の選手たちは軽い足取りで先へ進んでいく。自分も負けじと走るが、登りで息が上がり、下りでは脚が追いつかない。

それでも、止まらずに走ろうとする。

実際に出場したこともないレースなのに、頭の中では勝手に競争が始まっていた。

考え事は、それだけではなかった。

テレビやインターネットで見たニュースが、ふいに頭に浮かぶ。物価、ガソリン価格、金利。世界のどこかで続く争いや、遠い国の政治の動き。

「この先、どうなるんだろうな」

そんなことを考えていたかと思えば、仕事のことが頭に浮かぶ。家に帰ったら何を食べようか。そういえば、あれはどうなっただろう。

ひとつの考えが浮かび、しばらくすると別のことへ移る。

歩いていると、頭の中はいろいろなところへ飛んでいった。

住宅地の外周へ出ると、周囲の明かりが少なくなった。

道の片側には家が並び、反対側には木々の影が続いている。街灯の光が届く範囲は限られていた。少し先に進むだけで、道路の端も林の奥も黒く沈んでしまう。

「この辺も、熊が出るんだよな……」

頭に浮かぶのは、出没情報に載っていた地名だった。

大清水。日吉台。高屋敷。穀田。

どこも、普段の生活圏から大きく離れた場所ではない。買い物に出かけるときに通る道もあれば、いつものウォーキングコースの近くもある。

「熊は、どこから来て、どこへ行くんだろう」

出没したという情報は分かる。けれど、その前にどこにいたのか。そのあと、どこへ向かったのか。発表される情報だけでは、詳しい動きまでは分からない。

頭の中に、地図を広げてみる。

住宅地と住宅地のあいだには道路がある。林があり、斜面があり、人の目が届きにくい場所もある。

人間は道路を使って移動する。

では、熊はどうなのだろう。

「こっちから来て、あの林を抜けて……いや、そんな単純な話じゃないか」

熊に、人間の地図は関係ない。

人間が道路だと思っている場所を避けるのか。それとも、人間が気に留めないような場所を通っているのか。

考えても、答えは出なかった。

林の向こうから、風に揺れた葉の音が聞こえた。

「なんだ、風か」

風が吹けば木々は揺れる。夜の林が暗く見えるのも、街灯が届かないからだ。

分かっている。

それでも、明るい住宅地を歩いているときとは、周囲への意識が少し違っていた。

暗い場所では、見えるものが少ない。

見えないからといって、何かがいるとは限らない。

けれど、見えていないものが何もないとも言い切れなかった。

やがて、横断歩道に差しかかった。

以前、車にひやりとさせられたことがあってから、横断歩道では慎重になっていた。

信号が青でも、車がこちらに気づいているとは限らない。

ライトを持っていても、運転席からどう見えているかまでは分からない。車の動きや速度を見ながら、渡るタイミングを考えるようになった。

最近は、横断歩道の手前でライトをいったん消すこともあった。そして渡るときには、明るさを一段上げる。

「見えてるだろう、なんて思わないほうがいい」

すべての運転手が危険なわけではない。こちらに気づいて止まってくれる車もある。

それでも、一度怖い思いをすると、次も同じように大丈夫だとは思えなくなる。

信号を確認する。車の動きを見る。そして、横断歩道を渡る。

渡り終えてから、ライトの明るさを元に戻した。

その先は、成田せせらぎ通りへ続いていた。

見慣れた道だった。

住宅地の街灯が道路を照らし、歩道の端には植え込みが続いている。車の通る音はときどき聞こえるが、時間が遅いせいか、人の姿はほとんどなかった。

そのとき、前方に人影が見えた。

走っていた。

ランナーだった。

街灯の下を通った一瞬、その姿がはっきりと見えた。自分よりも年配に見える男性だった。

若者のように勢いよく走っているわけではない。背中を大きく揺らすこともなく、腕を必要以上に振ることもない。

ただ、一定のリズムで走っていた。

足音が聞こえた。

タッ、タッ、タッ。

路面を叩く音が、静かな通りに規則正しく響いている。

「走ってるな……」

その姿を見ているうちに、ふと思った。

「自分も、走れるようになりたいな」

今はまだ、長い距離を走ることなど考えられない。少し走っただけで息が上がり、脚が重くなることは分かっている。

それでも、歩くことを続けてきた先に、走るという選択肢があってもいいのではないか。

気づくと、足が少し速くなっていた。

そして、走り始めた。

最初は、思ったほど苦しくなかった。

ウォーキングで使っている道だ。路面の状態も分かる。前を走る男性との距離も、まだそれほど離れてはいなかった。

少しずつ近づけるかもしれない。

そう思った。

だが、数十秒もしないうちに、呼吸が変わり始めた。

息を吸っても、十分に入ってこない。吐く息が短くなり、胸の奥が熱くなる。脚は歩いているときとは違う動きを求められ、ふくらはぎや太ももに、じわじわと負荷がかかってきた。

「……あれ? こんなにきつかったか」

それでも、前の男性は同じように走っていた。

背中が遠ざかっていく。

追いつこうとして、もう少しだけ速度を上げる。

だが、速度を上げたぶんだけ、呼吸が苦しくなった。足を前に出すたび、地面から返ってくる衝撃が強くなる。腕を振り、息を吐き、次の一歩を出す。

たったそれだけの動作が、歩いているときよりもずっと難しかった。

男性は振り返らなかった。

走る速度が変わったようにも見えなかった。

こちらは必死だった。けれど、向こうは淡々と走り続けている。

街灯の下で、男性の姿が明るく浮かび上がる。

次の街灯へ向かう。

その光の輪を抜けると、姿はいったん暗がりに沈む。

そして、次の光の下に現れる。

その繰り返しだった。

距離が開いていく。

追いつけない。

最初は、少し頑張れば届くと思っていた。ところが、呼吸が苦しくなり、脚が重くなるにつれて、男性の背中は少しずつ小さくなっていった。

走ることに慣れていない自分と、走ることを日常にしている人との差なのだろう。

そう考えれば、不思議なことは何もない。

それでも、妙だった。

男性は、特別に速く走っているようには見えなかった。

「そんなに飛ばしてるようには見えないんだけどな……」

むしろ、こちらが無理をしているだけなのかもしれない。

そう思いながら、もう一度、前方へ目を向けた。

背中が見えた。

まだ、見えている。

追いかける。

呼吸が乱れる。

足音が大きくなる。

自分の靴が路面を擦る音が、耳の近くで響いていた。

前方の足音は、相変わらず一定だった。

タッ、タッ、タッ。

こちらの呼吸が荒くなるほど、その音が遠く感じられた。

やがて、脚が重くなった。

これ以上走れば、歩くことに戻るのさえつらくなりそうだった。

足を緩める。

走るのをやめ、歩き始めた。

胸が大きく上下していた。息を整えようとしても、すぐには戻らない。冷たい空気を吸い込むと、喉の奥が少し痛んだ。

汗ばんだ額に、夜風が触れた。

「冷たっ……」

前を見る。

男性は、ずっと先にいた。

いや、先にいるというより、もうかなり遠くなっていた。

街灯の下に、姿が見える。

その次の暗がりへ入る。

自分は呼吸を整えながら、歩いて追いかけた。

けれど、次の街灯の下に、その姿はなかった。

「あれ?」

道は続いている。

左右には住宅があり、歩道も途切れていない。曲がり角も、少し先にあるだけだった。

男性がどこかへ曲がったのかもしれない。家の敷地へ入ったのかもしれない。

そう考えることはできた。

ただ、いつ、どこで姿を見失ったのか、はっきりと思い出せなかった。

走っていたときは、ずっと背中を見ていたつもりだった。

息が苦しくなり、足元を見た瞬間があった。呼吸を整えようとして、視線を落としたこともあった。

「……そのときかな」

つぶやいて、もう一度、道の先を見た。

誰もいなかった。

風が吹き、植え込みの葉がかすかに擦れ合った。

遠くで車が走る音がした。

それ以外には、何も聞こえなかった。

しばらくして、歩き始めた。

胸の鼓動は、少しずつ落ち着いてきた。脚には、走ったぶんだけ疲れが残っていた。

年配のランナーに追いつけなかった。

それだけのことだ。

「悔しいな」

けれど、悔しさよりも先に、別の気持ちが浮かんでいた。

「自分も、あんなふうに走れるようになりたい」

速くなくてもいい。長い距離でなくてもいい。

息が上がって、すぐに歩き出してしまうのではなく、自分のペースで走り続けられる体になりたい。

そう思った。

歩くことを始めたときには、そんなことを考えるとは思っていなかった。

最初は、体重を落とすためだった。膝への負担を減らし、少しでも体を動かせるようになりたかった。

それが、いつの間にか歩く距離が延び、夜道の景色を見るようになり、地図を眺め、装備を考えるようになった。

今度は、走ることまで考え始めている。

「人間って、変わるもんだな」

あるいは、もともと自分の中にあったものに、少しずつ気づいているだけなのかもしれない。

歩きながら、そんなことを考えた。

夜の富谷は静かだった。

住宅地の明かりは、ところどころで途切れている。道路の向こうには林があり、その先にも別の道が続いている。

自分はライトを持ち直し、いつもの道を歩き続けた。

冷たい風が、頬を撫でていった。


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