第9話 歩く人間
キキッ――。
タイヤが路面を擦る音がした。
まぶしい。
左後ろから、車が近づいてきた。
自分は横断歩道の上にいた。
歩行者用信号は青だった。
車が交差点を右折し、横断歩道へ進入してくる。
思っていたよりも速い。
気づいていないのか。
そう考えたときには、もう近かった。
下がるか。
前へ進むか。
一瞬の判断だった。
ボンネットの先端が、すぐそこにあった。
*
夜中の富谷を歩いていた。
時刻は午前3時前後。
店の明かりが消えた駐車場には、人の姿がない。遠くを走る車のヘッドライトが建物の壁を白く照らし、車が通り過ぎると、そこには再び暗闇が戻ってくる。
街は静かだった。
自分は、いつものように足を前へ運んでいた。
一歩。
もう一歩。
足を上げる。
登山をしていたときのことを思い出した。
登り坂では、足を上げることを意識していた。疲れてくると、次の一歩が重くなる。それでも、一歩ずつ進めば、少しずつ先へ進んでいく。
歩いていると、そんな感覚が戻ってくることがあった。
今度は、トレイルランニングの大会を想像していた。
実際に参加したことはない。
それでも、頭の中ではコースを走っていた。
前を行く選手を追いかけ、坂を上る。息が苦しくなっても、足を止めずに進む。自分の限界はどこにあるのか。どこまでなら頑張れるのか。
そんなことを考えていた。
もちろん、現実の自分は走っていない。
夜の道路を、いつものペースで歩いているだけだった。
当時、体重は105kgあった。
健康のために歩き始め、最初は5キロ歩くだけでも十分だった。膝の具合を気にしながら、少しずつ距離を伸ばしてきた。今は、当時より体重も少し落ちている。
けれど、歩きながら考えることは、身体のことばかりではなかった。
いつの間にか、頭の中は別の話題に移っていた。
昼間に見たニュースを思い出す。
そういえば、あの話はどうなったのだろう。
一つの疑問から、別の疑問が浮かぶ。
仕事のこと。世の中のこと。最近気になっていたこと。
意識して考えているつもりでも、気がつけば別のことを考えている。
足は、いつもどおり前へ進んでいた。
歩いていると、そんなことがある。
*
その夜も、交差点の横断歩道を渡ろうとしていた。
歩行者用信号は青。
自分はライトを持っていた。
横断歩道へ足を踏み出した。
左後方から来た車が、交差点を右折してきた。
速い。
自分の持っているライトの光は、車の運転手から見えづらい位置にあったのかもしれない。
運転手は、自分に気づいていないのだろうか。
夜中のこの時間に、歩行者がいるとは思っていなかったのかもしれない。
確かめる余裕はなかった。
車は近づいてくる。
自分は前へ進むことを選んだ。
もちろん、それがいつでも正しいとは限らない。その場で見えた車の動きと距離を考え、そう判断した。
次の瞬間、車が急ブレーキをかけた。
タイヤが路面を擦る音が響く。
車は止まった。
自分のすぐ目の前だった。
あと少し近ければ、どうなっていたかわからない。
心臓が強く打っていた。
それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
自分は横断歩道を渡りきった。
そのとき、車の運転手が見えた。
運転手は驚いた様子で、両手を合わせ、頭を下げていた。
謝っている。
自分が渡り終えても、車はすぐには動かなかった。
しばらく止まったままだった。
やがて車は走り去っていった。
自分はその場を離れ、再び歩き始めた。
歩行者用信号は青だった。
ライトも持っていた。
それでも、車は目の前まで迫ってきた。
夜中に歩く人間がいる。
夜中に車を運転する人間もいる。
それぞれが、自分の見ている景色の中で行動している。
けれど、同じ場所にいても、同じものが見えているとは限らない。




