第6話「歩かない夜」
成田せせらぎ緑道を流れる水の音が、まだ耳に残っていた。
歩いている間、何度も耳にした水音。特別なものではない。ただ、夜の静けさの中で聞いていると、不思議と頭から離れなかった。
次は、どこを歩こうか。
そんなことを考えながら、いつものように16時を少し過ぎた頃、目を覚ました。
窓の外は暗かった。いや、暗いというより、空全体が厚い雲に覆われ、夕方とは思えないほど薄暗くなっていた。
雨が降っている。
窓ガラスを絶え間なく叩く音が、部屋の中まで響いていた。カーテンを開けると、道路はすでに水をかぶり、街灯の光が濡れた路面にぼんやりと反射している。
天気予報を確認した。雨はしばらく続く見込みで、大雨警報も出ていた。
今日は、やめておこう。
そう決めるのに、迷いはなかった。
山に登っていた頃から、天候の判断は大切にしてきた。出発することだけが登山ではない。危険があると判断したら、引き返すことも、出発しないことも必要だった。
歩くことも同じだろう。
出発しないという判断も、山と向き合う行動の1つだった。歩くことだけが、歩き続けるために必要なことではない。
自分にそう言い聞かせる必要もなかった。外の様子を見れば、今日は家にいるのが妥当だった。
リビングでは、妻がテレビを見ていた。
「すごい雨だね」
自分が声をかけると、妻は窓の方を見た。
「本当だね。まだ降るのかな」
「予報では、しばらく続きそうだよ」
「今日は出かけなくてよかった。買い物は午前中に済ませたから」
妻はそう言って、再びテレビに目を戻した。
自分も隣に座った。窓の外では、雨が途切れることなく降り続いている。
テレビでは、仙台市内の道路が冠水している様子が映し出されていた。仙台駅前や五橋付近でも、道路に水がたまり、車が速度を落として走っている。
画面が気象情報に切り替わった。
「雨雲が同じ地域にとどまっているため、今後も局地的に雨が強まるおそれがあります。河川の増水や道路の冠水に警戒してください」
気象予報士の説明は続いていたが、自分は窓の外に目を向けた。
遠くの山や海のことと、目の前の道路に降る雨が、同じ世界の出来事としてつながった。
普段なら、ニュースの中の冠水映像を見ても、どこか遠い場所の話として受け止めていたかもしれない。けれど、今は自分の家の前にも同じ雨が降っている。道路を歩けば、靴は濡れ、場所によっては水たまりを避けることもできないだろう。
天候は、テレビの中だけにあるものではなかった。
雨の降り方が変わってきたという話も、近年はよく耳にする。気候変動との関係が指摘されているが、個々の雨をそれだけで説明できるわけではない。
それでも、以前と同じ感覚で天気を考えていてはいけないのかもしれない。
自分の身を守るには、空の様子を見て、情報を確かめ、危険を感じたら無理をしないことだ。
歩くときも、それは変わらない。
「今日は歩かないんだよね?」
妻が聞いた。
「うん。さすがに今日は無理だな」
「そうだよね。こんな日に出かけるのは大変だもの」
妻は納得したようにうなずいた。
自分は、次に歩くときのことを考えた。
この前は成田を歩いた。水の流れる緑道は印象に残っている。歩く距離も、少しずつ伸ばしていきたい。いずれは、1つのコースを何周かするだけでなく、複数のコースをつなげて歩けるようになりたい。
まずは、3コース制覇。
そう考えると、楽しみが少し先にできたような気がした。
もっとも、今の身体で無理をするつもりはない。急いで距離を伸ばして、膝を痛めてしまっては意味がない。
歩き続けるためには、休むことも必要だった。
「そろそろ床屋、予約するか」
ふと思い出して口にすると、妻がこちらを向いた。
「もうそんな時期?」
「前に行ってから、けっこう経つだろ」
「そうだね。あと1週間くらいは大丈夫そうだけど」
「じゃあ、そのあたりで予約を入れるかな。天気が落ち着いてから、空いてる日を聞いてみるよ」
「うん。それがいいんじゃない」
床屋に行くのも、いつもの生活の一部だった。
前回、店主と話したことを思い出す。何気ない会話だったはずなのに、今になって考えると、少し気になる言葉もあった。
けれど、今はまだ、それを深く考える必要はないだろう。
自分はテレビに目を戻した。
雨は相変わらず降り続いている。
ふと、歩くときの装備についても考えた。
今の靴は、雨が強ければ水が染み込むこともある。濡れた靴で長い距離を歩くのは避けたい。登山をしていた頃から、足元の状態が行動全体に影響することは知っていた。
防水性のあるトレイルランニングシューズがあれば、雨上がりの道でも歩きやすくなるかもしれない。
ただ、装備を考え始めると、あれもこれも欲しくなる。
防水性の高いウェアもある。機能性に優れた製品も多い。調べていると、使ってみたくなるものは少なくなかった。
けれど、サイズの問題があった。
自分の身体に合うものが、なかなか見つからない。
そもそも、息が上がるほど身体が重いのに、高性能な服を着たら楽になるのだろうか。
道具に助けてもらうことはできる。それでも、道具だけで身体そのものが変わるわけではない。
「……いや、まずは体だろ」
思わず、小さくつぶやいた。
妻がこちらを見た。
「何?」
「いや、何でもない」
自分は笑ってごまかした。
まずは、今あるもので歩けばいい。必要なものは、身体が変わってから考えても遅くない。
体重を落とすことが目的で始めたウォーキングだったが、少しずつ考え方が変わってきている。
歩く距離を伸ばしたい。知らない道も歩いてみたい。今まで車で通り過ぎていた場所を、自分の足で確かめてみたい。
そのためにも、焦る必要はなかった。
テレビでは、引き続き大雨に関する情報が流れていた。自分は天気予報をもう一度確認した。夜のうちに雨が弱まる可能性はあるらしい。
もし、明け方に雨が上がり、道路の状態も問題なければ、その時間に歩くこともできる。
ただし、雨が弱まったからといって、すぐに安全になるとは限らない。水がたまった場所もあるだろうし、道路の状況を見て判断する必要がある。
無理をするつもりはなかった。
「まだ降ってるねえ」
妻が窓の外を見ながら言った。
「そうだな。しばらく続きそうだ」
妻は小さく息をつき、空に向かって話しかけるように言った。
「お天気の神様、もういいでしょ」
「何だ、それ」
思わず聞き返した。
「だって、もう十分降ったでしょう?」
妻はそう言うと、何事もなかったようにテレビへ視線を戻した。
自分は少し笑った。
雨が続けば、誰だってそう言いたくなるのかもしれない。
それ以上、考えることはなかった。
窓の外では、雨音が続いていた。
その夜、自分は一度も外へ出なかった。
それでも、次に歩くために考えることは、少しずつ増えていた。




