32 それぞれの選択
レオンハルト殿下の言葉を聞きながら、私は無意識のうちに自分の手のひらを見つめていた。
昨日、あの場で溢れ出した光。怖くて、何が起きているのか分からなくて、それでも誰かを助けたいと願った、あの感情。
料理が好きで、誰かに食べてもらえるのが嬉しくて、ただそれだけでここまでやってきた。最初の頃は、手を動かしていないとどうにかなりそうで必死だった。
でも、少しずつ楽しくなって……フォルと出会ってからは、その気持ちはずっと強くなったように思う。
その延長に、癒しの力があったのだと言われても、正直なところ、まだ実感は湧かない。
けれど、クロードさんの腕の傷が消えたことも、殿下の言う左腕の違和感が和らいだという話も、全部が嘘ではないのだと思うと、心の奥が温かくなる。
私の作った料理が、誰かの力になる。そんなに嬉しいことはない。
私はゆっくりと顔を上げた。
そのタイミングを見計らったかのように、レオンハルト殿下がにこりと笑う。
「だからさ」
軽い調子で、けれどどこか楽しげな声音で、殿下は続けた。
「ユーナちゃん、王都に来ない? 城なら、もっと贅沢な暮らしができるよ。ついでに、僕のお嫁さんなんてどう?」
「えっ」
声が喉に引っかかる。ぱちり、と瞬きをしてから、もう一度殿下の顔を見た。
言葉の意味を理解するより先に、頭の中に浮かんだのは別のことだった。
(王都の食材かあ……!)
このザネリ米みたいに、どこか懐かしくて、でも知らなかった穀物。
見たこともない野菜や、香りの強い香辛料。王宮なら、保存庫だって桁違いだろうし、季節外れの食材だって手に入るのかもしれない。
そんな想像が、するすると膨らんでいく。お嫁さんとかいうのは、きっと聞き間違いなのだろう。
横を見ると、フォルが小さな手で私のエプロンの端を掴んでいた。その向こうで、クロードさんがこちらを見ている。
私は小さく息を吸い、頭の中で広がりかけていた王都の台所を閉じた。
フォルの手の温もりを確かめるように一度だけ視線を落としてから、殿下を見返した。
「申し訳ありません」
声は、思っていたよりも落ち着いていた。
「私、この町が好きなんです。ここで食堂をしている毎日が、楽しくて」
言葉にしながら、自分の中で何かがはっきりと形を持っていくのが分かる。
危ない目にも遭ったし、不安がなかったわけじゃない。
それでも、この場所で過ごした時間は、確かに私の居場所をつくってくれていた。
「だから……ここで暮らしていきたいと思っています」
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
フォルの指が、きゅっとエプロンを掴む力を強める。その気配に、胸の内がじんわりと温かくなる。
「なるほどねぇ」
レオンハルト殿下は楽しげに笑い、椅子の背にもたれかかった。断られたことを残念がる様子はなく、むしろ面白いものを見つけたような顔だ。
「無理に連れて行っても、ユーナちゃんは幸せにならなさそうだ」
その言葉に、クロードさんが口を開いた。
「……ユーナは、王都に行かなくてもいいのですか?」
私が言い出すよりも先に投げられた問いに、殿下は一瞬だけ目を瞬かせる。
それから、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「いい質問だね、クロードくん」
肘掛けに腕を預けたまま、気負いのない調子で続ける。
「そもそも、特別な力を持つ者が必ず王都にいなければならない、なんて決まりはないはずなんだよね」
軽い口調だったが、その言葉ははっきりしていた。
「王都に集められることが多いだけ。管理しやすいし、象徴として都合がいいからさ。でも本来は、その力をどこで使うかは本人の意思が尊重されるべきだと思う」
殿下は肩をすくめる。
「……まあ、教会は今回の件で多少騒ぐかもしれないけど」
そこで一拍置き、口元に小さな笑みを浮かべた。
「でも、悪いのは彼らだ。最初に異界の者を見誤った。それに、彼らのやり方には僕は不信感をもっているからね」
「そう、なんですね……?」
どうやら強制的に王都に連れて行かれることはなさそうで、私はほっと胸を撫で下ろした。
教会とか加護とか、わからないことばかりだ。それでも、レオンハルト殿下の口ぶりからは、私の意見を尊重してくれることが伝わってくる。
「それにさ〜」
殿下は、今度はフォルを見て続けた。
「聖竜様もユーナちゃんのそばにいないと、大変なことになりそうだ。その姿が随分とお気に入りのようだし」
冗談めかした口調で、肩をすくめる。
「聖竜様。わざと幼い姿のままでいるのではないですか? ユーナちゃんのそばを離れたくないから」
「フォル、そうなのか?」
「……わかんな〜〜〜い」
殿下の言葉を受けたクロードさんが視線を向けると、フォルは一瞬きょとんとしてから、ぷいっと顔を背けた。それからクロードさんにぺたりとくっついて、抱っこをせがんでいる。
「はは、かわいらしいものだ」
その反応に、殿下は声を立てて笑う。
「レオンハルト殿下。祖父たちはどうなりますか」
フォルを抱き上げたクロードさんは、神妙な顔で問いかけた。
そうだ、リュシアンさんたち。いつになったら戻ってこられるんだろう。
「結果的にユーナちゃんに力があったわけだから、話は少しややこしくなるだろうね」
殿下は顎に手を当て、考えるように言う。
「でも、最初に診断を下したのは教会だ。落ち度がある以上、リュシアンたちを強く責め立てることはできないだろうさ。それとは別に――」
殿下は、今度はクロードさんをまっすぐに見た。
「クロード・レーヴェ侯爵子息。君自身の去就も聞かれるだろうけど……どうするつもりだい?」
部屋に沈黙が落ちる。
(侯爵って、確か前に教えてもらった、貴族の種類……?)
この国の身分制度では、王族の下に公爵、侯爵、伯爵と続くと聞いた。
侯爵は、その中でも広い領地を預かり、国境や要衝を任されることの多い家柄だという。
軍事や治安、領内の統治に深く関わる立場で――そんな説明を、以前リュシアンさんが淡々と話してくれたことがあった。
つまり。クロードさんは、その家の人で。だったら、リュシアンさんたちもそうで。
このミレスタでは、貴族だとか平民だとか、そういう区別を意識する場面がほとんどない。強いか、頼れるか。一緒に背中を預けられるか。
それが何より大事らしく、肩書きなんて、誰も気にしていなかった。
「俺は、ここに残ります。ミレスタで、やるべきことを見つけました」
私の戸惑いをよそに、クロードさんは迷う素振りもなく答えた。
その返答を聞いて、殿下は満足そうに目を細めた。




