31 治癒の力
食卓を穏やかな空気が包んでいた、そのときだった。
外の砂利を踏む、軽い足音が聞こえる。一定の調子で近づいてくるそれに、耳のいいフォルとクロードさんが同時に顔を上げ、玄関の方へ視線を向けた。
「おーい、クロードくんとユーナちゃん」
聞き覚えのある、けれど予想していなかった声。
私は椅子から腰を浮かせていた。
「え……?」
胸が小さく跳ねる。こんな時間に、こんな呼び方で来る人は限られている。
フォルもぱちぱちと目を瞬かせて、私と玄関を交互に見た。
その隣で、クロードさんが立ち上がる。
「俺が出る」
短くそう言って、クロードさんは剣から少し距離を取ったまま、落ち着いた足取りで玄関へ向かう。
「やあ。ここだって、匂いでわかったよ」
戸が開いた先に立っていたのは、金色の髪をゆるく束ねたレオンハルト殿下だった。外套はきちんと着込んでいるのに、立ち姿は気取らず、まるで本当に近所を散歩してきただけのように見える。
レオンハルト殿下はそう言って、室内に流れ込んでくる香りに気づいたように、わずかに目を細めた。
「食事中だった? ごめんね。食堂に行ったんだけど、今日はお休みだって聞いてさ。……まあ、昨日あれだけのことがあれば、そうなるよね」
軽い調子のまま、殿下は一歩、家の中へ踏み込んでくる。
クロードさんは小さく息を吐き、礼を失さない程度に肩の力を抜いた。
「殿下。事前に連絡をいただければこちらから伺いました」
「いやいや、完全に思いつきだから。邪魔だったらすぐ帰るよ」
そう言いながら、殿下は視線を巡らせ、そこでふと動きを止めた。
フォルと目が合ったのだ。
フォルは一瞬、殿下の顔を見てから、今度は腕のあたりへと視線を落とす。
前のときのようにじっと見つめ続けることはなく、首を少しかしげて、くん、と小さく鼻を動かした。
「……?」
フォルの様子に気づいた殿下は、自分の腕を見下ろす。
「どうしましたか? また何か、分かりますか」
フォルは少し考えるように黙り込み、それから私の方をちらりと見たあと、はっきりと言った。
「いやなにおい、しない!」
一瞬きょとんとしたあと、レオンハルト殿下はふっと表情を和らげる。
「なるほど。今回は大丈夫、というわけだ」
にこにことした笑顔を向けられて、フォルは少しだけ胸を張る。
前みたいに顔を背けることはなく、どこか得意そうだ。
けれど、殿下のほうは深く追及することもなく、気にしていない様子で室内を見回した。
「いやあ、それにしてもいい匂いだ。これは邪魔しに来たって言われても仕方ないね」
その様子を見て、私は少しだけ迷ってから口を開いた。
「殿下も、お食事にしますか?」
レオンハルト殿下がこちらを向く。
「その、オムライスでよければ、すぐに作れます」
自分でも意外なほど、自然に言葉が出ていた。
フォルがきっと何度もおかわりをすると分かっていたから、最初から多めに準備しておいてよかった。
殿下は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと顔を明るくする。
「いいの? ありがとう。ぜひいただくよ」
そう言って、ためらいもなく椅子を引いた。
クロードさんが何か言いたそうに一瞬だけこちらを見るけれど、結局は何も言わず、殿下の向かいに腰を下ろす。
結果として、食卓には四人分の席が埋まることになった。
(なんだか、とっても不思議な光景だなあ)
昨日はみんなで切迫した状況だったのに、今はこうしてのんびり食卓を囲んでいるなんて。
私はフライパンを温め直し、最後の仕上げに卵を広げる。ふわりと半熟にまとめて、ごはんの上へ滑らせると、きれいな黄色が皿いっぱいに広がった。
「お待たせしました、オムライスです」
差し出した皿を、殿下は嬉しそうに受け取る。
「へえ。見たことのない料理だ。オムライスというんだね」
そんなことを言いながら躊躇なくオムライスにスプーンを差し入れ、ぱくりと一口。次の瞬間、殿下の動きがぴたりと止まった。
フォルが不思議そうにその様子を見上げ、クロードさんも、ほんのわずかに眉を動かす。
「レオンハルト殿下。どうかしましたか」
殿下はゆっくりと噛みしめるように飲み込み、それから深く息を吐いた。
「……ああ」
その声は、さっきまでの軽さとは少し違っていた。
左腕を無意識に押さえ、それから確かめるように指を動かす。
「僕のここ、長いことずっと鈍く痛んでいたんだけどね」
そう前置きしてから、私を見る。
「今、また軽くなった」
冗談でも誇張でもない、断定の口調だった。
殿下はスプーンを置き、今度ははっきりと笑う。
「どうやら君の料理には、人を癒す力があるみたいだね」
「……え?」
間の抜けた声が出てしまう。
殿下は楽しそうに肩をすくめた。
「料理を通して加護を与える、か。これは前例がないな」
そう言われて、私は反射的にクロードさんのほうを見る。
特別な力がある、とは確かに言われた。けれど、加護なんて大げさな言葉で呼ばれるものだとは思っていなかった。
「……加護、ですか?」
そう口にしていた。
レオンハルト殿下は、オムライスに添えられたスプーンを指先で軽く回しながら、少しだけ声の調子を落とす。
「異界から来る者というのはね。昔から“何かをもたらす存在”だと言われているんだ」
軽い雑談の続きのようでいて、その言葉には確かな重みがあった。
「武器だったり、知識だったり……そして多くの場合、期待されるのは癒しの力だ」
「癒しの、力……」
背筋が伸びる。
殿下は一度だけ言葉を選ぶように間を置いて、それから続けた。
「その力は、人にだけ働くわけじゃない。土地や魔力、そして――竜にもね」
そこで、視線が自然とフォルへ向かう。
フォルはスプーンを置いて、じっと殿下の話を聞いていた。
「古来より、“聖竜”はそういう力を持つ者と対で現れると言われている」
殿下はそう言って、穏やかに笑った。
その笑みの底に、まだ言っていないことが沈んでいる気がした。
「竜の力は強大すぎて、世界にとっては脅威になることもある。放っておけば、周囲の魔力を歪ませ、魔獣を呼び寄せてしまうんだ」
そこでレオンハルト殿下は、ふっと視線を巡らせ、クロードさんのほうを見た。
「僕はこの目で見たよ」
声音は穏やかだったが、その言葉には揺るぎがなかった。
「君の力がクロードくんを癒し、そして聖竜の力が、あの高位魔獣を屠るところをね。君も、同じ場にいたはずだ」
問いかけるというより、確認に近い言い方だった。
クロードさんは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷く。
「はい。昨日、報告した通りです」
低く落ち着いた声で、はっきりと言い切った。
「ユーナの力は本物です。意図せず発現しながらも、確かに癒しをもたらしていました」
少し間を置き、視線をフォルへ向ける。
「そして、フォルは――ユーナに強く懐いています」
その言葉に、私は思わずフォルのほうを見た。
フォルもこちらを見上げていて、目が合う。
「えへへ〜」
褒められていると思ったらしく、フォルはあどけない笑顔を浮かべた。
その笑顔につられて、私の口元も自然と緩む。
「聖竜はいつのまにか代替わりしていたんだね。その力が完全には安定していなかったせいで、マンティコアのような高位魔獣が暴れたのだろう」
レオンハルト殿下は、フォルを見ていた。
「今回の件で、聖竜が自らの力を周囲にはっきり示した。だから、しばらくは問題ないだろう。魔力の流れも落ち着く。無闇に魔獣が集まることはなくなるはずだ」




