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30 たまごからうまれた

 マンティコアの騒動から一夜明けたミレスタは、驚くほど穏やかだった。


 壊れた柵は応急的に直され、南の森への道には立て札が増えている。それでも、行き交う人々の足取りは軽く、噂話はあっても、不安に押しつぶされるような空気はない。


 それも、その恐ろしい高位魔獣(マンティコア)がすっかり退治されたあとだとみんなが知っているからだろう。


 私たちも、いつもの家へ戻ってきていた。

 調査隊の後処理や報告で慌ただしかったから、こうしてキッチンの窓から差し込む光に癒されてしまう。


(それにしても……あんなに大きい姿になってしまったんだから、何か言われると思ったんだけど)


 私は隣にいるフォルを見つめる。あのとき、思いっきり竜の姿に戻っていた。

 不思議だったのは、町の人たちがフォルのことに、触れなかったことだ。

 昨日の出来事を見ていた人は、確かにいたはずなのに、誰も深く詮索しない。ただ、目が合えば少しだけ柔らかく笑って、「無事でよかったね」と言うだけだった。


 あの竜のフォルは、銀色で艶々で、初めて会った時とはまるで違っていた。


「ゆーな、ぼく、これわる!」

「うん。でもゆっくりね。殻が入らないように」


 踏み台に乗ったフォルが、わくわくした様子で卵を抱えている。

 そのほっぺもふくふくで、見ているだけで幸せな気持ちになれる。

 フォルは舌を少し出しながら、両手で卵を持ち、真剣な顔で縁を探している。


 力加減が分からないのか、こつん、こつんと何度も当てては、こちらをちらりと見てくる。


「こう、そっとだよ」

「うん……えい」


 今度は少し強く当てすぎたらしく、ひびが大きく入った。慌てて殻を開くと、黄身はどうにか無事で、白身だけが指を伝って落ちていく。


「できた!」

「上手だよ。ほら、殻も入ってない」


 そう言うと、フォルは誇らしげに胸を張った。

 しばらくして、ふと思い出したように、フォルが顔を上げる。


「そうだ、ユーナ」

「なあに?」

「ボクもね、たまごからうまれたんだ〜」


 あまりにもあっけらかんとした言い方に、私は一瞬、返す言葉を失った。


「あ……そ、そうだね」


 どう反応するのが正解なのか分からず、少しだけ気まずくなって、視線をフライパンに戻す。そっか、竜って卵から生まれるんだ。

 卵を割りながらする話題じゃないような気もするけど、本人は気にしていなさそうだ。


「ゆめでね。ボクのおかあさんにあったの!」

「……夢で?」

「うん。すっごくおっきくて、あおくて、きれいだった」


 そう言って、フォルはにぱっと笑った。


「それでね、『ユーナをまもってね』って、いってた」


 まっすぐすぎるその言葉に、私は手を止めてしまう。えへへ、と笑う笑顔が眩しい。

 フォルは昨日、私のことを『家族』だと言ってくれた。


「そっか」


 それ以上、うまく言葉が出てこない。

 ただ、フォルの頭にそっと手を置いて、軽く撫でる。


「じゃあ、一緒だね」

「いっしょ?」

「うん。私も、フォルを守るよ」

「ユーナも? ……そっか、いっしょ!」


 フォルは少し考えてから、満足そうに頷いた。


 そのとき、奥の部屋で布が擦れる音がした。

 洗濯を終えたクロードさんが、室内に戻ってきたのだ。腕まくりをしたシャツの袖口から、昨日負傷していたはずの右腕が見える。


 私は反射的に火を止め、気づけばそのまま彼のところへ歩み寄っていた。


「失礼します」


 返事を待たず、私はその腕を取って、角度を変えては何度も確かめる。手首、前腕、肘の内側。皮膚はなめらかで、赤みも、痣も、縫った痕すらない。


「……本当に、ない」


 自分でも呆れるほど、同じところを繰り返し見てしまう。

 クロードさんは困ったように眉を下げ、短く息を吐いた。


「昨日も確認しただろう。傷はない」

「でも……でも、あんなに血が出ていて……」


 言いかけて、言葉が詰まる。右腕からぼたぼたと滴っていた赤黒い血を思い出すだけで、喉がきゅっと締めつけられた。

 クロードさんは小さく苦笑して、腕を引っ込める。


「君が触れたあと、痛みも違和感も消えた。問題ない」


 そう言われても、私はまだ納得しきれず、じっと彼の顔を見上げてしまう。

 昨日は必死で、確かめる余裕もなかった。こうして落ち着いた場所で見ると、余計に現実味がなくて、不安だけが後から追いついてくる。


「……本当ですか? 実は痺れていたりとか。マンティコアって、毒があるんですよね?」


 後から聞いた話では、マンティコアの尾は蠍の尾と同じく猛毒を噴出する。他の魔獣が霊峰から逃げるようにしていたのは、マンティコアが霊峰に居住していたかららしい。

 その尾が、クロードさんの腕を確かに貫いていた。出血だけでなく、毒にも侵されていたのだ、あのとき。


「あのあと、調査隊の治癒術師にも確認してもらった。毒の影響もないから大丈夫だ」

「良かったです、本当に!」


 きっぱりと言い切られて、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。

 横で様子を見ていたフォルが、ひょいと顔を覗き込む。


「クロード、だいじょうぶ?」

「ああ。フォルのおかげでもある」

「えへへ」


 得意そうに笑うフォルと、それを見てわずかに表情を和らげるクロードさん。

 私はキッチンに戻って、熱したフライパンにバターを投入する。じゅう、と弾ける音とやさしい匂いが立ち上った。


 バターが溶けきったところへ溶き卵を流し込むと、ふわりと柔らかな音が立った。火を弱め、フライパンを傾けながら、卵をそっと広げていく。その動きは、何度も何度も体に染みつくまで繰り返してきたものだった。


 別の鍋で仕上げておいたチキンライスを中央に乗せ、卵で包む。最後に皿へ返すと、きれいな楕円ができあがる。仕上げに、特製のトマトソースをかける。


「オムライス、できたよ」


 お皿をテーブルに並べると、フォルの目がぱっと輝いた。


「わあ……! いただきまーす!」


 椅子に座ったフォルは、両手を揃えると大きな声でそう言って、口を思いきり開ける。

 私がいつもそうしていたら、いつの間にか真似をするようになっていた。


「いただきます」


 少し遅れて、クロードさんもそう言い、スプーンでオムライスを掬った。

 フォルは一口食べた瞬間、目を丸くする。


「……! あったかい! ふわふわ!」

「熱いから、ゆっくりね」

「うん!」


 それでも次の一口が待ちきれない様子で、もぐもぐと頬を動かしている。

 クロードさんは無言のまま、もう一口食べた。噛みしめるようにゆっくりと咀嚼してから、短く息を吐く。


「……うまい」


 それだけの言葉だったのに、不思議と満たされる。

 私は自分の皿にもスプーンを入れ、口に運んだ。

 卵のやさしい甘みと、チキンライスの香ばしさ、ケチャップの酸味が一体になって広がる。


 カウンター越しに見上げた父の背中。忙しそうに動く手。

 出来上がった皿を差し出しながら、いつも少しだけ誇らしげに笑っていた顔。

 向かいの席で、私の話を聞きながら頷いてくれていた母の横顔。いつも笑顔で、お客さんを気持ちよく出迎えていたあの光景。


(……ああ)


 ここまで来るのに、ずいぶん遠回りをした気がする。

 迷い込んだ世界で、居場所を探して、怖い思いもして、それでも。


 こうして誰かと食卓を囲み、同じ料理を「おいしい」と思える時間に、ちゃんと辿り着けている。


「ユーナ、ボク、これすき!」


 フォルがそう言って、トマトソースがついた真っ赤な口元を気にせず笑う。

 クロードさんも、もう一口スプーンを運びながら頷いた。

 窓から差し込む午後の光が、テーブルをやわらかく照らしている。


 この時間が、何よりも大切なものだと、はっきりと思えた。

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