29 特別な力
「クロードさん……!」
叫んだ声は震えていた。剣を握る指が強張り、呼吸が荒れているのが分かる。
「大丈夫だ、ユーナ」
私を安心させようとするその声はいつも通りだ。だが、剣を握っていたはずの手はだらりと下ろされ、血が流れ続けている。
(どうしよう、このままじゃ……!)
胸の奥に、冷たい感覚が広がる。私とフォルと子どもたちを背中に守ったままでは、クロードさんは圧倒的に不利だ。
泣きそうになりながら前を見ると、地面には私がクロードさんに渡した携行食が落ちていた。尾がぶつかった衝撃で、散乱してしまったのだろう。
『ユーナちゃんのごはんを食べると、なんだか元気になる』
『ユーナちゃんの飯を食ったら二日で治るさ!』
『君の料理には、おそらく加護に近い力が宿っている』
ふいに、これまでもらったいろいろな言葉が頭をよぎった。
そんな力があるなんて、これっぽっちも信じられない。
私は料理が好きな普通の高校生で、ただこの世界に迷い込んでしまっただけだ。
でも。
もし本当に、私にそんな力があるのなら。
(私に特別な力があるのなら。こういうときに、誰かを守れる力が欲しい……!)
心の底から湧き上がった感情が、身体を満たしていく。
そのとき、視界が白く弾けた。
「……え?」
自分の声が、やけに遠く聞こえる。光が外へ外へと噴き出すように私の身体から広がっていた。腕も、指先も、輪郭がぼやけるほどの眩しさに包まれる。
「ユーナ……!?」
クロードさんの声が聞こえた。彼は完全に目を見開いていた。剣を構えたまま、その動きが止まっている。
私は自分の両手を見下ろす。
(さっきの願いが、叶ったのかな……?)
どうしたらいいかなんてわからない。
ただ、そうなればいいなと願いながら、私は震える手を伸ばし、クロードさんの負傷した腕にそっと触れた。
触れた瞬間、熱とも冷たさともつかない感触が、掌から一気に広がる。
「……っ」
知らない感覚に、息を呑む。
クロードさんの患部が、まぶしさに目を細めるほどの白く澄んだ光に包み込まれる。
傷口から滴っていたであろう赤黒い血は、もうなくなっていた。
青白かったクロードさんの顔色もよく、呼吸も整っていく。
「血が止まった……?」
目の前の出来事が信じられずに、私は何度も瞬きをした。
クロードさんも同じように、自分の腕を見下ろしている。剣を握る指を動かし、確かめるように手首を返した。
「傷がなくなっている」
困惑と驚きが、その低い声に滲んでいた。
「わ、私……なにをしたんでしょう?」
混乱で言葉が追いつかない。治そうとしたわけでも、方法を知っていたわけでもない。ただ、助かってほしいと強く思っただけだった。
それなのに、光は確かに応えた。
クロードさんは、ゆっくりと私を見た。その瞳は驚愕に見開かれている。
「……ユーナ。今のは……」
言葉を探すように、彼は一度息を吸った。
だが、背後で空気がきしむような音が鳴る。
光に反応した魔獣が、こちらを向いているのが分かる。重たい視線が、私に突き刺さる。
そうだ。まだ、終わっていない。
私はごくりと喉を鳴らし、無意識に一歩下がった。
「下がっていろ、ユーナ」
「は、はい」
クロードさんは、はっと我に返ったように前へ出た。さっきまでの負傷が嘘のように、踏み込みは力強い。それでも、私たちを背にかばう位置に立とうとする動きは変わらない。
発光が収まらない私は、子ども達のところに後退りをする。
「あれ、フォル……?」
周囲を確認すると、さっきまで地面にうずくまっていたフォルが立ち上がっていた。
フォルはゆっくりこちらを振り向いた。その赤い瞳は、まっすぐに澄んでいる。
私と同じ光が、フォルの身体を淡く包んでいた。
「グオオオオオオン!!」
それを見た瞬間、魔獣が低く唸った。警戒でも威嚇でもない。どこか怯えたような、そんな人間味のある顔をしていた。
フォルはゆっくりと足元の土を踏みしめながら、魔獣の方へと進んでいく。
止めないといけない。頭ではそう思うのに。何か神々しいものを見ているようで、声にならない。
風が、逆向きに流れ始める。
草がざわめき、空気が震え、さっきまで私を包んでいた光とは質の違う、もっと鋭く、もっと圧のある気配が広がっていく。
小さな背中が、ひどく大きく感じられた。
「ボクのかぞくに、てをだすな」
フォルの声は幼いままなのに、空気を切り裂くような強さを帯びていた。
次の瞬間、彼の身体を中心に、まばゆい光が爆発するように広がる。白銀の輝きが森を満たし、思わず目を伏せたくなるほどの光量が、影という影を押し流していった。
「っ!」
風が渦を巻き、土と葉が舞い上がる。目を開けていられなくて、私は咄嗟に腕で目を覆う。
なんとか薄目を開けたその光の中で、フォルの小さな輪郭がほどけるように変わっていく。
幼子の姿は次第に引き延ばされ、やがて、硬質な輝きを帯びた銀の鱗が一枚、また一枚と連なって現れた。
そこに立っていたのは、銀色の竜だった。
月光を凝縮したかのような銀の鱗に覆われた巨大な身体。天を衝くように広がる翼が、ひと振りされるだけで森の空気を震わせる。咆哮が放たれると、それは音というより衝撃となって胸に叩きつけられ、遠くの木々が一斉にざわめいた。
竜の尾が大きくしなり、次の瞬間、聖なる炎がほとばしる。熱はあるはずなのに、不思議と焦げた匂いはしない。ただ、圧倒的な浄化の気配だけが満ちていた。
炎は一直線に魔獣を包み込み、逃げ場を与えない。
「ギィ――……」
それは悲鳴というより、喉の奥から漏れ落ちた音のようだった。
獣のものとも、人のものともつかない、不自然な響きだけを残して、声は途中で途切れる。黒い身体は光の中で輪郭を失い、抵抗する間もなく崩れ落ちていく。やがてそれは灰となり、風にさらわれるように静かに消えていった。
(終わった、のかな?)
森に残ったのは、熱を帯びた風と、ゆっくりと沈んでいく光だけだった。
眩しさが和らぎ、視界が戻ると、そこにはもう竜の姿はない。
代わりに、力を使い果たしたように、小さな身体がふらりと揺れる。
「フォル!」
駆け寄った私の胸に、フォルはそのまま倒れ込んできた。体温を確かめるように抱きしめると、いつもの軽さと、いつものぬくもりが確かにそこにある。
「ゆーな、だっこ〜……」
力の抜けた声を聞いた途端、張り詰めていたものが一気にほどけた。私はそのまま彼を抱きしめ、堪えきれずに涙をこぼす。怖かったことも、不安だったことも、全部まとめて溢れてしまった。
少し離れた場所で、クロードさんがゆっくりと立ち上がる。剣を下ろし、深く息を吐いてから、空を見上げていた。
横顔には、まだ戦いの緊張が残っている。それでも、その視線の先には、確かな安堵が滲んでいるように見えた。
しばらくして、控えめな声が背後から聞こえてくる。
「……あれ、りゅう、だったよな」
「でっか……」
「ユーナねえちゃん、ひかってた……」
振り返ると、子どもたちが木のそばに寄り添うように立っていた。泣き腫らした目のまま、呆然と森の奥を見つめている。
誰も、大きな声は出さなかった。ただ、現実を確かめるように、ぽつりぽつりと呟くだけだ。
そのとき、森の外から慌ただしい足音が重なって聞こえてきた。
枝を払い、草を踏みしめる音が近づいてくる。
「ユーナちゃん!」
「おーい、クロードくん。無事かい?」
先に姿を見せたのはオンケルさんだった。険しい顔で辺りを見回し、私と子どもたち、そしてクロードさんの姿を認めると、息を詰めていたのを吐き出す。
その後ろから、騎士たちに囲まれてレオンハルト殿下の姿も現れた。
「……間に合わないかと思ったが」
殿下はそう呟き、辺りを見渡して言葉を切った。
森の一角には、黒く焼けた土と、炭のように崩れた木の根が残っている。強い熱が通り抜けた痕跡だけが、ここで起きた出来事を無言のまま語っていた。
そして、その視線は、私の腕の中で眠るように力を失ったフォルへと移る。
小さく、息を呑む音。
誰もが、何が起きたのかを完全には理解できていない。
けれど、この場に漂う空気だけは、はっきりと告げていた。
――確かに、ここで“何か”が起きたのだと。
「この地点で高位魔獣のマンティコアを確認しました」
静寂を破ったのは、クロードさんだった。
剣を収め、淡々と一歩前に出る。
「危険と判断したため、退治しました。以上です」
「いやいやいやいや。それで済ませようとするのは無理があるだろう?」
間髪入れず、レオンハルト殿下が笑顔のまま突っ込んだ。
肩をすくめつつ、焼け跡と子どもたち、そして私たちを順に見回す。
「……あとでちゃんと話を聞くからね?」
クロードさんは一瞬だけ視線を逸らし、短く息を吐いた。
「……承知しました」
そのやり取りを聞きながら、私はフォルを抱いたまま、子どもたちに声をかける。
「もう大丈夫だよ。おうちに帰ろう」
泣き腫らした顔で、子どもたちはこくこくと頷いた。
「ユーナちゃんも、子どもたちと一緒に診療所へ行こう。フォル坊も」
オンケルさんが、優しくそう言ってくれる。
「はい、わかりました」
私はその言葉に甘えて、フォルを抱き直した。
クロードさんは調査隊の方へ向かい、殿下や騎士たちと共に状況確認に加わるらしい。
(あ……)
別れ際、クロードさんと一瞬だけ視線が合った。
お互いに何も言わなかったけれど、ぺこりと会釈しただけで十分だった。
森を離れる頃には、張りつめていた空気も少しずつほどけていく。
まだ不安は残っている。それでも、こうして歩いて帰れることが、何より嬉しい。
「さあ、町に帰ろう」
私は子どもたちとフォルを連れて、静かになりつつある道を家へと戻ったのだった。




