28 恐ろしい魔獣
次の瞬間、堰を切ったように声が重なった。
「……お、おねえちゃあああん!」
か細い呼び声と一緒に、張りつめていた空気が一気にほどける。
私は視線が合ったまま、強く頷いた。
「大丈夫。ここにいるよ」
震える瞳の奥に、ようやく安堵の色が灯るのを見て、胸がきゅっと締めつけられた。
「よかった……みんな、無事で」
膝が震えそうになるのをこらえ、私は駆け寄った。
よく見ると、ひとりの子が足を押さえている。ズボンの裾が赤く滲み、指の間から血が垂れていた。
「どうしたの?」
まさか魔獣に?
声を低くして尋ねると、子どもは小さく「ころんだの」と泣きじゃくった。
私はすぐに腰を下ろし、懐からハンカチを取り出す。
「大丈夫。今、手当するからね」
私はしゃがみ込み、転んだという子の脚にそっと触れた。擦りむいた膝から血が滲んでいる。持っていた布を取り出し、きつくなりすぎないように当てて押さえる。
指先に伝わる血の温度に、呼吸が浅くなった。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「ごめんなさい……」
震える声が、足元から聞こえた。
「謝らなくていいよ。ちゃんと帰ろう。ね?」
できるだけ穏やかに言いながらも、私は視線だけで周囲を探った。
風が止んだまま、森の空気が重く沈んでいる。まだ、何かが近くにいる。
「……いたの」
別の子が、涙をこらえながら口を開く。
「おっきくて……」
「つの、あった」
「からだ、紅猪よりもおっきくて……」
言葉をつなぐたび、子どもたちの肩が小さく震えた。
「あと……しっぽが……とがってて……」
喉の奥がひりつく。
子どもたちは、きっとあの咆哮の主を見たのだ。それで慌てて逃げていて、転んでしまったのだろう。
(急いでここを離れないと)
そう思うのに、フォルはこの場にいない。
「みんな、フォルを見なかった?」
私が尋ねると、子どもたちは一瞬だけ顔を見合わせた。
それから、いちばん年上の子が、こくりと頷いて指を伸ばす。
「あっち……」
指差されたのは、ベリー畑のさらに奥。
木々が密になり、影が濃く落ちる方向だった。
「そっか。みんなは早くここから離れよう。歩ける?」
きっと、オンケルさんが救助隊をここに呼んでくれるはずだ。子ども達がいないことも、きっと町の人は分かるはず。今はそれに賭けるしかない。
こわい。
でも、ここには私よりも小さな子しかいない。
(あれから咆哮は聞こえないし、せめてベリー畑から少しでも離れることが出来たら――)
その瞬間だった。
空気が、ぴたりと張りつめる。
風の流れが断ち切られ、森のざわめきが一斉に遠のいた。代わりに、肌を刺すような圧がまとわりつく。理由の分からない、けれどはっきりとした悪意。
私は反射的に子どもたちの前に立ち、ゆっくりと振り向いた。
視線の先、ベリー畑の奥。
茂みが、不自然に盛り上がっている。
ざり、と重い音がして、下草が押し分けられた。
最初に見えたのは、地面すれすれまで身を沈めた獣の体だった。
四肢を踏ん張る姿勢は、今にも跳びかかる寸前のそれだ。獅子を思わせる胴は異様に大きく、前脚には縄のように筋肉が浮き上がっている。踏みしめるたび、土が軋む音がした。
蝙蝠のような黒い翼が左右に開かれ、動くたびに重たい風が流れ込んでくる。空気が押し潰され、耳の奥がじんと痺れた。
そして、人のような顔に、鋭く尖った針状の尾が鈍い光を反射している。
あまりにも異様な姿に、頭が追いつかない。目が合った気がして、背筋が粟立つ。
(……っ、調理しても絶対に美味しくなさそう)
そう考えるのが精一杯だ。そうでもないと、足がすくんでしまいそう。
でも私の後ろには子ども達がいて、自分だけ逃げ出すことはできない。
フォルはどうなったんだろう。無事でいるのだろうか。
逃げなければ。
そう思った矢先、魔獣が一歩、踏み出した。地面が低く鳴り、畑の支柱が震える。その動きに合わせるように、空気が押しつぶされる感覚が広がった。
「……フォル?」
畑の奥から、小さな影が飛び出してくる。見慣れた後ろ姿。迷いなく、一直線にこちらへ向かってくる。
「だめ、来ちゃ――」
言葉は途中で途切れた。
フォルは魔獣の前で立ち止まり、小さな手で自分のお腹を押さえた。その服越しに、淡い光が滲み始める。弱く、けれど確かに、脈打つように。
それを見た途端、魔獣の視線が完全に切り替わった。私でも子どもたちでもない。フォルだけを、はっきりと捉えている。
低い唸り声が響き、長い尾がゆっくりと持ち上がった。しなる動きの中で、先端の毒針が狙いを定める。
「フォル、戻って!」
私が叫んだ声は、風にかき消された。
尾が振り下ろされようとした、その刹那。
「下がれ、フォル!」
鋭い声と同時に、突風が畑を駆け抜けた。
金属がぶつかるような乾いた音が響き、毒針が弾かれる。衝撃で魔獣の巨体がわずかに揺らいだ。
そこに立っていたのは、風をまとい剣を構えたクロードさんだった。地面を抉る勢いで踏み込み、迷いのない動きでフォルと魔獣の前に割って入る。
「……っ、遅くなった」
ぱちりと、視線が重なった。
一瞬だった。それでも、確かにクロードさんの目がこちらを捉えたのが分かった。いつもと変わらない、落ち着いた色。けれどその奥には、張り詰めた集中と、わずかな焦りが滲んでいる。
その姿を見た途端、張りつめていたものが一気にほどけた。
喉の奥がきゅっと詰まり、息の仕方を忘れる。視界が滲みそうになるのを、必死でこらえた。
今は、泣いている場合じゃない。
「クロードさん……!」
声に出すと、情けないほど震えてしまう。
クロードさんは一瞬だけこちらを振り返り、はっきりと頷いた。
「ユーナ、子どもたちを頼む」
短く、それだけを告げると、すぐに剣先を魔獣へ向ける。風が彼の周囲を巡り、外套の裾を大きく揺らした。
クロードさんは間合いを保ったまま、絶えず位置を変えていた。
正面に立てば押し潰される。背を取ろうとすれば、翼と尾がそれを許さない。風魔法で踏み込みを補い、剣で牽制しながら、致命の一撃を探っているのが分かる。
魔獣は低く唸り、地面を削るように前脚を踏み鳴らした。
人の顔に似たその面が歪み、知性を宿した瞳が、こちらの動きを値踏みするように細められる。
突風が畑を薙ぎ、支柱が軋む。クロードさんは即座に身を低くし、剣を構えたまま耐える。だが、その隙に、魔獣の尾が影のように動いた。
鋭い尾が、空気を裂いて迫る。
クロードさんは刃で尾を弾き、地面を強く蹴って距離を取った。だが、魔獣の動きは止まらない。しなる尾は一度引かれただけで、すぐに次の軌道へ移り、まるでこちらの反応を測るように空を切る。
(今のうちに、少しずつ離れないと)
私たちがここにいるせいで、クロードさんは本来の動きを制限されている。剣を振るうたび、必ずこちらを気にしているのが分かった。
私は身を低くし、震えて固まっている子どもたちにそっと手を伸ばした。
「……大丈夫。ゆっくり、後ろに下がろう」
声を潜め、必死に落ち着かせようとする。
フォルはその少し手前で、お腹を押さえたままうずくまっている。
「うっ、うわああぁぁぁん!」
張り詰めていた空気を、裂くような泣き声。
耐えきれなくなったのだろう。一番小さな子が、両手で顔を覆ったまま声を上げた。その瞬間、空気が一変する。
「……!」
恐ろしい魔獣の視線が、ぴたりとこちらを捉えた。
さっきまでクロードさんだけを見据えていた人の顔に似たその表情が、煩わしそうに細められる。
低く唸り声が漏れ、尾が弾けるように動く。
しなやかだった動きが、一気に鋭さを増す。狙いはクロードさんではない。泣き声を上げた子どもたちがいるこちらの方へ、一直線に――。
私は反射的に前に出ようとして、息を呑んだ。
間に合わない。
刹那、空気が引き裂かれるような音とともに、突風が目の前を駆け抜けた。
地面が跳ね、枯葉と土が舞い上がった。
クロードさんだった。
「ぐっ……!」
鈍い衝撃音と同時に、クロードさんの身体がわずかに傾いた。外套の袖が裂け、赤がにじむ。腕から滴った血が、土の上に落ちて暗い染みを作る。
彼が纏っていた風の魔力が、乱れた。




