27 咆哮
「ユーナ、たくさんおかいものしたの!」
「うん、とっても楽しかった」
それからもフォルと一緒に広場を巡った私は、カゴいっぱいになった食材を前にほくほくとした気持ちでいた。
帰ったら色々とメニューを考えてみよう。そう思って広場を抜けようとしたとき、子どもたちの笑い声が前を横切った。
「まってー!」
「こっちこっち!」
数人の子どもが、石畳の上を勢いよく駆け回っている。
その無邪気な様子に、私は足を止めた。
「あっ、ユーナだ!」
ひとりがこちらに気づいて、手を振ってくる。
「きょう、しょくどうおやすみ?」
「うん。今日はお休みだよ」
「じゃあさ、あとでフォルとあそんでもいい?」
「うーん、今日は難しいかな。みんなも早くおうちに帰るんだよ?」
広場は賑やかでも、やはりピリピリとした空気が流れている。
私がそう言うと、子どもたちは顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「だいじょうぶだよ!」
「ちょっとそこまでだから!」
「夕方までには帰るし!」
「じゃあね〜〜!」
軽口を叩き合いながら、また駆け出していく背中を見送りながら、私は小さく眉をひそめた。
けれど、もう一度注意する間もなく、子どもたちは人混みの向こうへと消えてしまった。
少し気がかりは残ったけれど、立ち止まってばかりもいられない。私はフォルの手を引いて、家への道を歩き出した。
「おや、ユーナちゃん」
家の前まで来たところで、聞き慣れた声がして、顔を上げる。
ちょうど通りを歩いていたオンケルさんが、こちらに気づいて足を止めていた。
「昨日はありがとうねえ。調査隊の人たちも、町の連中も、腹いっぱい食べられたって喜んでたよ」
「いえ……! なにか問題はありませんでしたか……?」
「いやいや。あのスペアリブは見事だった。王都の人たちまで、皿を舐める勢いだったからねえ」
くすっと笑ってしまう。
確かに、おかわりをたくさんする人もいたし、ソースを綺麗にパンで拭き取っていた人もいた。王子様もちゃんと食べていたし、きっと問題は無かったと思いたい。
あの慌ただしさを思い出すと、よく乗り切ったものだと思う。
「今日はゆっくりするんだよ。ユーナちゃんを働かせすぎたら、リュシアンに怒られてしまう」
そう言って、オンケルさんがからからと笑った、その瞬間だった。
「コケェッ――! ココココッ!」
切迫した鳴き声が庭に響き渡る。
直後、鶏小屋の中から羽音が一斉に立ち上がり、ばさばさと落ち着きなく暴れる音が続いた。木枠に体当たりするような鈍い音まで混じり、明らかにいつもと様子が違う。
私もオンケルさんも、思わず顔を見合わせた。
「鶏小屋に、何かあったのかねえ」
「私、見てきます!」
「ああ、ユーナちゃん。私も行こう」
急いで家の裏へ回ると、鶏たちは小屋の中を行き場なく動き回り、羽を逆立ててばさばさと暴れていた。落ち着きなく鳴き交わし、奥へ奥へと押し合うように固まっている。
扉を開けても、いつもなら真っ先に外へ出るはずの鶏が一羽も動かない。
地面には羽毛が散らばり、ただ事ではない騒ぎだったことがはっきりと伝わってきた。
「ユーナ……」
小さな声に、はっとして振り向く。
フォルが、少しだけ眉を寄せて立っていた。
いつもより動きが鈍く、小さな手がお腹のあたりに添えられている。
「どうしたの?」
「おなか、あつい」
フォルの瞳が、ゆっくりと色を変える。
燃えるような赤い色。光を含んだように、静かに揺れている。
同時に、庭の空気がざわりと波打った。
不意に、空気が重くなる。
肌に触れる感触が、さっきまでと違う。
風は吹いていないのに、耳の奥がじん、と鳴るような圧を感じた。
空気が薄くなったみたいに、うまく呼吸ができない。
(何? どうしたんだろう)
思わず耳を押さえたそのとき。
――グオオォォォン!
低く、腹の底を打つような音が、遠くから届いた。
雷でも、崩落でもない。
大地そのものが唸ったような、重たい咆哮。
音は森の奥から広がり、山を越え、遅れて地面が微かに震える。
鶏小屋の中で、鶏たちが一斉に鳴き立てた。ばさばさと羽音が重なり、恐怖を押し隠せない騒ぎ方だ。
私は反射的にフォルを抱き寄せた。
小さな身体が、ほんの少し強張っている。
今の音は――どこから?
はっとして、声のした方角を見る。
森だ。
家々の向こう、緩やかな斜面の先に広がる、あの南の森。
(あの辺りって、いつもベリーを採っていたところだ)
思考が追いつくより先に、嫌な想像が浮かび上がる。前にピクニックに行った時、雷嘴鳥と遭遇したこともある。
まさか、また魔獣が出たのだろうか。
隣で、オンケルさんの表情が強張っているのが視界の端に映った。
「南の森の方だね」
低く呟いてから、すぐに周囲を見回す。
「今日は町の外には出ないよう、皆に言ってはいるが……」
その言葉に、私の背筋がひやりと冷えた。
さっきまで賑やかだった広場の光景が、脳裏に蘇る。
石畳の上を駆け回っていた子どもたちの背中。笑い声を弾ませながら、追いかけっこをしていたあの様子。
その進行方向を思い返した瞬間、心臓の奥がひやりと冷えた。
(……あの子たちが走って行ったの、森の方じゃなかった?)
はっきりとした確信はない。けれど、考えないようにしていた違和感が、今になって輪郭を持って迫ってくる。
腕の中で、フォルの体も強張っていた。
まるで見えない糸に引かれるように、視線だけが森の方角へと固定されている。
「フォル……?」
呼びかけても反応はない。その様子に、胸の奥がざわりと波立った。
以前にも、こんなことがあった。
そのとき、ベリー畑のある方角から再び低い振動が伝わってきた。地面を通して足元に届くその気配は、先ほどよりも明らかに近い。
「ボク、いかなきゃ」
フォルが、私の腕の中からするりと抜け出した。
「っ、フォル!?」
呼び止める声より先に、小さな背中が庭を駆け抜ける。
迷いのない一直線の動きだった。まるで行き先が最初から決まっているみたいに、森の方角へ向かっていく。
「待って、フォル!」
私は咄嗟に追いかけた。
砂利を踏み、息が喉に引っかかる。それでも足を止めるという選択肢はなかった。
「危険だ、ユーナちゃん!」
背後からオンケルさんの声が飛ぶ。制止の言葉だと分かっている。それでも、私は一瞬だけ振り返り、声を張り上げた。
「子どもたちが……ベリー畑に入ったかもしれません!」
それだけ叫ぶと、もう前を向いた。
言葉を交わしている余裕はない。フォルは、もうずいぶん先を走っている。
小さな体が地面を蹴るたび、空気がわずかに揺れる。草を踏み越え、畦道を跳び、ためらいなく進んでいく。
とてもじゃないけれど、私にはできない動きで。気づけば小さな背中も見えなくなっていた。
「はあ、はあ」
必死に後を追ううち、視界がふっと開けた。木立が途切れ、低い柵と支柱が並ぶ一角が現れる。甘酸っぱい匂いが、土と混じって鼻先をかすめた。
(――ベリー畑に着いたんだ。フォルはどこ?)
荒い息を整えながら、慎重に足を踏み入れる。胸の内がざわめいて落ち着かない。さっき聞こえた咆哮のことも、フォルの姿が見えないことも、そして――子どもたちのことも。どれも頭から離れず、不安が絡みついてくる。
そのとき、木陰の奥で小さな気配が動いた。
ベリーの低木の脇、大きな木の根元に、子どもたちが身を寄せ合うようにして固まっている。土に汚れた服、震える肩。涙で濡れた顔が、恐る恐るこちらを見上げていた。
「……ユーナだ」
誰かが、確かめるように呟く。




