26 異世界のお米
調査隊が霊峰へ向かったその日、私は落ち着かない気持ちを振り払うように、朝のうちから身支度を整えて市場へ向かった。
(クロードさんが帰ってきたときのために、ごちそうを作ろう!)
そう決めてしまえば、足取りは自然と前を向く。
今日の食堂はお休み。やっぱり、討伐が緊急事態ということでいつも食べにきてくれる人たちもみんなそんな余裕がないらしい。
早く落ち着いてほしいな。そう思いながら歩いていると、私の手をきゅっと小さな手が掴んだ。
「ユーナ、きょうはどこにいくの?」
フォルは私の横をちょこちょこと歩いている。少しだけ上を見上げるその顔が、やけに楽しそうだ。
「今日はね、広場で珍しい市場が開かれるんだって。それを見に行こうと思って」
「いちばって、おいしいの?」
「そうだねえ、市場そのものは食べられないけど……」
私は少し考えてから、噛み砕くように続ける。
「お野菜とか、お肉とか、パンとか。いろんな人が集まって、美味しいものや面白いものを並べる場所かな」
「じゃあ、おいしいのがいっぱい?」
「いっぱい、かもしれないね」
「いちば、たのしみなの!」
小さく跳ねるように歩くフォルの手を握り直しながら、私は頷いた。
今回、こんなふうに広場で少し大きな市場が開かれるのは珍しい。
理由を教えてくれたのは、昨夜顔を出したオンケルさんだった。
王都から調査隊が来るにあたって、交易の商団も一緒に動いてきているらしい。
山道を越える長旅は危険が多い。だから調査隊と商団が同道することで、互いに利点があるのだという。
調査隊は商団から食料や物資を安定して確保できる。
一方で商団は、王都の騎士たちや冒険者に護衛してもらえるため、山賊や魔獣に襲われる危険がぐっと減る。
『お互い様ってやつだね』
オンケルさんはそう言って、穏やかに笑っていた。
その結果、普段はミレスタに並ばないような品も、市場に流れてくるらしい。
フォルの弾んだ足取りを感じながら、私も小さく息を吸った。
(……いい買い物、できるといいな)
そうしたら、この不安な気持ちも紛れるかもしれない。
そしてそれは、町の人も皆そうなんじゃないかなと私は思う。
広場に近づくにつれて、人の気配が一気に濃くなった。
石畳の向こうから、いつもより高く、いつもより賑やかな声が重なって聞こえてくる。布が風にはためく音、木箱を置く鈍い音、見慣れない言葉の響き。足を踏み入れた瞬間、空気そのものが少しだけよそ行きに変わった気がした。
「わあ……」
声がこぼれる。
広場いっぱいに、簡易の天幕や荷台が並んでいる。
色とりどりの布で飾られた露店、木箱をひっくり返して即席の台にした店、香草を束ねて吊るしただけの素朴な屋台。
見慣れた野菜や干し肉の間に、見たことのない形の果実や、淡く光る鉱石、瓶の中でゆらゆらと揺れる液体まで並んでいた。
「南の海沿いで採れた塩だよ!」
「東の国の香辛料! ひと振りで味が変わる!」
「魔力を帯びた糸だ、服に縫い込めば長持ちするぞ!」
呼び込みの声はどれも力強く、誇らしげだ。
フォルは私の手を引いたまま、きょろきょろと忙しなく首を動かしている。
「ユーナ、あれなに?」
「こっちは?」
「ひかってる!」
「待って待って、一個ずつ見ようね」
そう言いながら、私自身も視線が追いつかなくなっていた。
木箱いっぱいに積まれた見たことのない深紫の根菜のようなもの、表面にうっすら霜のような模様が浮かぶ果物、乾燥させた葉を束ねた香草は、触れなくても強い香りが漂ってくる。
どれもこれも、ミレスタでは滅多に見ないものばかりで、目がいくつあっても足りない。
「さあさあ、見ていってくれ! 東の彼方から来た穀物だ! 炊けば艶が出る、煮ても崩れない!」
そんな中、ひときわ通る声が耳に届いた。
(穀物……?)
その言葉に、私は思わず足を止めた。
声の主は、日に焼けた顔に大きな笑みを浮かべた商人だった。
彼の前には、いくつもの木箱が並べられている。その一つの蓋が開け放たれていて、中には見慣れない穀物がぎっしり詰まっていた。
小粒で、ころんと丸い。
淡い乳白色の表面に、光を受けるとほのかな艶が走る。
「えっ、お米!?」
「お、お嬢ちゃん、これが分かる人かい! そうそう、オコメって呼ばれてるんだよ。ザネリ米っていう東の国の主食でね、この辺りじゃ滅多に出回らない」
声に出してしまうと、商人はすぐに反応した。
「この穀物、本来はこの状態なんだけどさ。買ってくれる分だけ、その場で殻を取ってあげるよ! 時間は少しかかるが、風味は落ちないから安心してくれ」
そう言って、彼は足元に置かれた別の木箱を開けてみせる。
こちらには、薄茶色の殻をまとったままの穀物が詰まっていた。見たことがある、精米前の状態だ。
「見本用に、外に出してる分だけ殻を取ってあるんだ。保存にはこっちが適しているからね。いや〜ちょうど騎士さんたちの移動とタイミングが合って良かったよ。超貴重だよっ!」
商人はそう言って、得意げに笑った。
私はもう一度、箱の中をまじまじと見つめる。
白く、粒がそろっていて、指先でつまめばさらりと転がりそうな質感。
(やっぱり、お米だ)
どう見ても、どう考えても、それは私の知っているお米にしか見えなかった。
胸が、きゅっと締めつけられる。
懐かしい。
この世界に来てから、もう二度と出会えないと思っていたもの。
炊き上がったときの湯気や、ほのかな甘い香りまで、思い出が勝手に蘇ってくる。
(この世界にも、あったんだ……)
知らない国で、知らない名前で、けれど確かに同じ姿で。
黙り込んだ私を、フォルが不思議そうに見上げる。
ぱちぱちと瞬きをして、小さく首を傾げた。
「ユーナ、これほしいの?」
その一言で、心の奥に溜まっていた感情が、ふっとほどけた。
私は小さく笑って、フォルの頭に手を置く。
欲しいもの。そんな感覚、忘れていたような気がする。改めて純粋に尋ねられて、私は自分の感情が、大きく揺り動かされたことに気づいた。
「うん。お米があったら、オムライスが作れるんだよ」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
胸の内にじんわりと広がる温かさに、声まで少し弾んでしまう。
フォルはぱちりと目を瞬かせて、首をかしげた。
「おむらいす? まえにいってた」
「うん」
私は小さく頷いて、少しだけ視線を遠くにやる。
「前にね、大切な人たちと一緒によく食べてた料理なの」
白い湯気が立ちのぼる洋食屋の厨房を思い出す。
フライパンの上で、溶けたバターの膜に卵がふわりと広がる、じゅっと小さな音。
ケチャップの甘酸っぱい匂いに混じって、炊きたてのお米の香りがふわっと鼻をくすぐった。
魔法みたいだった。
チキンライスが卵にくるりと包まれていく様子を、私はいつもカウンター越しに息を詰めてワクワクしながら見ていたっけ。
夜の営業が始まる、ほんの少し前の時間。
店内はまだ静かで、グラスを磨く音や換気扇の低い唸りだけが響いている。
ランドセルはいつもカウンターの端に置いて、私は椅子に腰かけたまま足をぶらぶらさせる。
お母さんは向かいに座って、教科書を持つ私の声に耳を傾けてくれた。
『優菜、とっても上手ね。もうこれで宿題は終わり?』
『うん、もうお腹ぺこぺこだよ〜』
『ほら、優菜。できたぞ』
そう言って、お父さんは笑顔で皿を差し出してくれた。世界で一番おいしくてきれいなオムライスだった。
ひと口食べると、優しい卵の味と、チキンライスの香ばしさ、それからケチャップの酸味が後を引いて、私はパクパクと食べていたっけ。中学生になっても、高校生になっても、学校が終わったらお店に行くのは変わらない日常だった。
(本当に、大好きだった)
あの店が、あの時間が、私の生活のすべてだった。
帰る場所で、学ぶ場所で、守られていると実感できる場所だった。
私は息を吐いて、目の前の木箱にもう一度視線を戻す。
「……また、作りたいな」
今度は、この町で。
フォルと、帰ってくる人たちと一緒に食べるために。
「たべたい!!!」
唐突に、元気いっぱいの声が響いた。
はっとして視線を戻すと、フォルが木箱の中の白い粒を指さしながら、目をきらきらさせている。
「ユーナがすきなやつ、ボクもたべたい!」
ぎゅっと私の服の裾を掴んで、全身で主張してくる。
その様子に、気持ちがふっとほどけた。
「クロードさんが帰ってきたら、みんなで食べようか」
「やったー! おむらいす!」
まだ見ぬ料理の名前を、楽しそうに繰り返すフォルに笑いながら、私はお米を買うことに決めた。




