閑話 聖竜の祠①
◆クロード視点
霊峰に足を踏み入れた瞬間、空気がざわりと変わったのが分かった。
冷たい、というだけではない。肺の奥に入り込むそれは研ぎ澄まされた刃のようで、ひと息ごとに身体の内側まで緊張を強いてくる。
「ここまでとは……」
「そうだなあ。クロード、気ぃ引き締めようぜ」
思わず呟くと、隣にいたバルガスさんから低い同意が返ってきた。
振り返れば、斜面の下に調査隊の列が長く伸びている。先頭を進むのは、俺たちミレスタの冒険者部隊だった。
土地勘のない王都の騎士たちを導く役目を任されている。
季節は春だが、霊峰にはまだ雪が残る。
足慣れた冒険者たちのその後方に、王都から派遣された騎士団が続いていた。
統一された銀の鎧が白い景色の中で鈍く光り、規律正しく歩を揃えている。
そのさらに中央、護衛に囲まれる形で歩いているのがレオンハルト殿下だった。
外套の裾を雪に揺らしながらも足取りは軽く、まるで散策でもしているかのような余裕すら感じさせる。
だが視線だけは絶えず周囲を測り、術士が差し出す簡易測定具にちらりと目を落としては、小さく何事かを指示している。
王子自らが率いる調査隊――その重みを、背中越しにも感じる。軽口を叩くことはあっても、誰一人として気を抜いてはいない。
鎧の擦れる音すら控えめで、雪を踏む規則的な足音だけが静かな山に吸い込まれていく。
「前方、斜度が上がる。足場に気をつけるように殿下の騎士たちに伝えてくれ」
「はい!」
俺が声をかけると、後方から短い返答が連なった。すぐに伝令が走り、殿下のもとへ合図が送られる。隊列がわずかに間隔を広げた。
同じ王都の騎士だ。見知った顔もいた気がする。
しばらく進むと、レオンハルト殿下がこちらへ歩み寄ってきた。
「さすがだね、副団長殿。それに辺境の冒険者は頼りになる」
気楽な調子でそう言いながら、俺の肩越しに山の奥を見やる。
「先導、助かってるよ。このまま祠まで案内してくれるかな」
「承知しました」
短く答え、再び前を向く。視界の先、白一色の稜線の向こうに石造りの影がかすかに見え始めていた。霊峰の祠だ。
雪を踏みしめる音がやけに大きく響き、静まり返った山に吸い込まれていく。風はほとんどない。にもかかわらず、頬に触れる空気は容赦なく熱を奪い、外套の内側まで冷えを送り込んでくる。
吐いた息が白く広がり、すぐに形を失った。
空は抜けるように高く、雲ひとつない。山行としては理想的な天候のはずだが、この異様な静寂の中では、かえって不吉さを際立たせるだけだった。
鳥の声がしない。獣の気配もない。
霊峰は本来、聖なる力に満ちた土地だ。生き物はその流れに惹かれ、遠巻きにでも生息する。これほど完全な沈黙が支配することなど、記録でも読んだ覚えがない。
俺は歩調をわずかに落とし、周囲へ意識を巡らせた。
斜面の先、山の中腹に穿たれた洞穴の入口が見える。
雪はそこだけを避けるように薄い。洞の口から、石を積み上げた古い参道が内へと延びている。人の手で整えられたはずの道は、長い歳月に磨かれ、角が丸くなっていた。
「ここですよね? バルガスさん」
「ああ、そうだ。しかしなんとまあ、嫌な空気だ」
「はい」
バルガスさんにそう答えながら、俺も眉を寄せた。
聖竜が永く祀られていた場所。ミレスタの町でずっと見守っていた場所。
だがこの場所は、もはや聖気を感じられない。
聖竜の祠がどうなっているのか――最悪の状況しか想定できず、先遣隊の冒険者たちは皆口数が少なくなった。背後で騎士たちが距離を保ち、術士が小声で結界の反応を測っている。俺も剣帯の位置を直し、柄に指をかけた。
一歩、内へ。
瞬間、臭気が鼻を刺した。鉄と獣脂が混じった、重く甘い匂いだ。呼吸が詰まり、思わず顔をしかめる。洞内は外よりも暖かい。だがそれは、安心できる温もりではない。腐敗と魔力が滞留した、よどんだ熱だった。
参道の石の隙間に、黒ずんだ染みが点々と続いている。足跡に重なり、引きずられた跡が内へ向かって伸びている。
少し進んだところで、それは姿を現した。
「これは……森狼か?」
そこには魔獣の骸が転がっていた。これまで討伐してきた森狼のどれよりも大きく、感じられる魔力の密度も段違いだ。群れの長――いや、縄張り全体を支配していた可能性すらある。
まず目に飛び込んできたのは、激しい傷痕だ。肩や腹部には噛みつきや引っ掻きによる裂傷が散らばっており、まるで群れ同士の争いの末路を思わせる。
(なんだ? この穴は)
骸の肋骨付近に、牙や爪ではあり得ないほど細く真っ直ぐな刺突痕が連続して穿たれている。
先端が深く貫通したその痕は規則正しく並び、俺の視線を不意に強く引きつけた。
(発生時期は、そう古くない)
周囲の魔力反応はまだ生々しく、骸にも長期放置の兆候はない。
祖父のリュシアンが巡回していた地点は、この近辺だと聞いている。
彼がこの異常を見逃すとは考えにくい。
つまり、祠がこの状態になったのは最近――そう結論づけられる。
緊張感の漂う中、隊は祠の奥へと歩を進めた。冷たい空気が洞穴の内部へと流れ込み、雪に覆われた外界とは異なる湿った匂いを運んでくる。狭い通路の壁には古い結界刻印が刻まれ、魔力の波紋がかすかに脈打っていた。
「ここだ」
古い紋章が刻まれた石扉があり、ここには魔獣の骸はない。魔獣たちもここまでは侵入できなかったのだろう。騎士たちの手によって、扉が開かれる。この先に、聖竜が眠っている。そう思うと、やはり緊張が高まる。
「じゃあ、僕がいこうかな」
レオンハルト殿下が、その先に足を踏み入れた。
その後に続いたが、視界に飛び込んできたのは何もない空間だった。
「……いない、のかな?」
息を吐くように呟いたのはレオンハルト殿下だ。いつもの飄々とした空気は消え、瞳の奥には静かな驚愕が光っていた。
「記録では、ここに安置されているはずだったんだろう?」
俺は頷いた。
「はい。以前、祖父がここを確認したときは、変わりはなかったと報告を受けています」
本来ならば結界の核として祠の中心で眠っているはずの存在が忽然と消えている。
調査隊の術士が結界反応を測りながら低く言った。
「結界はかろうじて維持されているようですが……核心部に聖力の痕跡がありません。この状態では結界もいつまでもつか……」
その言葉が部屋全体に重々しく響いた。
気まずい静寂が漂い、その場にいた誰もがその事実を受け止めきれず、視線を落としていた。
(聖竜の祠に聖竜の姿がないだと)
胸の奥で、重たい感覚が広がっていく。
結界は辛うじて残っているが、核を失った状態だ。この異変が、霊峰一帯に及ぼす影響を考えずにはいられなかった。
(魔力の流れが乱れ、生態系そのものが歪んだ……?)
これまで霊峰の頂に君臨していた存在が消えたことで、抑えられていた力の均衡が崩れたのだとすれば、説明はつく。高位魔獣の出現が増えたのも、その結果だろう。




