03 仔竜
やがて車輪の音が完全に遠ざかり、通りにいつもの静けさが戻る。
家に戻ってから、洗い物を片づけ、仕込みを済ませて、戸締まりももう一度確認する。
それからの数日は、驚くほど何事もなく過ぎた。
朝になればいつも通りに起きて、火を起こして、窓を開けて、町の空気を吸う。
昼には町の人が声をかけてくれて、夕方には戸を閉める。
危ないことなんて、何も起きない。
三日目の昼下がり。
洗濯物を取り込もうと外へ出ると、風があたたかくて、甘い香りが漂っていた。
どこか懐かしいような、やわらかな匂い。
それがベリーの実の熟れた匂いなのだと気づいた瞬間、私ははっと顔を上げた。
「あ、そうだ」
声が漏れる。
そうだ。そろそろベリーを摘まないといけない。食堂用に取っておかないといけないし、放っておくと鳥に先を越されてしまう。
洗濯籠をいったん軒下に置き、私は麻のかごを手に、町の外れの森へ向かうことにした。
ジャムをたくさん作って瓶に詰めておくと、パンや焼き菓子にも使えるから、常備しておきたい。森の入口までの道は、もう何度も通った道だった。
(……そっかあ、あの光に呑まれてからもう一年なんだ)
この世界に突然やってきた時も、森にはベリーが実っていた。
春の決まった時期にしか実をつけないそれが、今またたくさん実っている。
十八歳で突然、地面の裂け目に呑まれるようにしてこの異世界へ転がり落ちて――きっと私は、十九歳になったのだろう。
「リュシアンさんたち、無事に王都に着けるといいなあ」
王都までは普通の行き方だとかなり時間がかかるそうだ。私には見当もつかないけれど、特殊なゲートをくぐることでその距離を短縮することができるらしい。
サクサクと草を踏みしめながら、私は森の奥へと進む。
天気もいいし、いいことがありそうだ。そう思いながら、小さな鼻歌を口ずさんだ。
小道を外れてしばらく進んだところで、ふと、風にまぎれて何かの気配を感じた。木々の間を抜けてくる、妙に湿った空気。そして――低いうなり声のような、かすかな音。
足を止め、身をひそめるようにして音のする方へと歩を進めた。葉をかき分け、茂みの奥をのぞきこんだとき。
「…………っ」
息を呑んだ。そこにいたのは、岩のように大きな何かだった。
それは動かず、地面に身を伏せていた。全身を覆う灰色の鱗。太い尾。ごつごつとした肩と背に、光を受けて鈍く光る角。
大きいトカゲのように見える。いや、もしかして……竜だろうか?
物語の中でしか見たことのない、想像上の生き物が、目の前に実在している。
その姿は確かに威圧感があるはずなのに、ぐったりしていた。美しい鱗がゆっくりと上下していて、呼吸は浅く、目も半分閉じたまま。力なく横たわったまま、微かに尾を動かしている。
今すぐに襲ってくるような気配はない。むしろ、その姿は空腹に倒れた野生動物と同じで弱々しく、悲しげに見えた。
《……いい、におい!》
不意に、明るい声が空気を震わせた。
キョロキョロとあたりを見渡すけれど、他に誰もいない。そう思ってもう一度、目の前の灰色の塊――竜を見つめた。
すると、竜の深い紅の瞳が、熾火のようにきらめいて、まっすぐこちらを見返してきた。
「しゃべった!?」
思わず叫ぶと、竜の尾がぱたんと地面を打った。敵意はなさそうだけれど、びっくりしすぎて心臓が跳ねる。
《うん、しゃべったの! おなか、すいたの! そっちから、すっごく、いいにおいがするの!》
「え、えええ……!?」
私は反射的に、手に持っていた包みを見下ろした。さっき作った蒸し鶏のサンドイッチが入っている。ベリーを摘んでから食べるつもりだったのに、もしかして、この匂いが……?
「ご、はん……欲しいの?」
《ほしいの! たべたいの! くれるの!?》
竜の声は、まるで小さな子どもみたいに弾んでいた。その巨体には似合わない無邪気さに、少しだけ拍子抜けしてしまう。
でも、よく見れば、鱗の間にうっすら傷があるし、身体も痩せているような気がする。
「これで良かったらどうぞ。あっでも、トカゲって食べたらダメなものとかないのかな? マスタードとかも食べられるの……?」
わからないことだらけで、私は首を傾げる。
《ほんと!? やったー!》
でも目の前の竜の尾はぶんぶん揺れて、まるで大きな犬みたいにはしゃいでいる。
そのたびにブワッと風が吹いて地面が揺れるので、できたらやめてほしいな。
《君ごと食べちゃいそうだから、小さくなるねー!》
不穏な言葉と共に、竜の身体がかすかに揺れた。
まるで煙が立ちのぼるように、その巨体が淡く光に包まれていく。
「え……?」
目を見張る私の前で、竜のシルエットがしゅるしゅると収束していく。
鱗が、尾が、翼が消え、代わりに残ったのは――
くすんだ灰色の髪に、琥珀の瞳。膝を擦りむいていて、少し全体的に埃っぽいような……五歳くらいの小さな男の子だった。
さっきまで赤い目だった気がしたけれど、見間違いだったのかな。
「ごはん、ちょーだい!」
ニコニコと笑いながら、さっきまで竜だったその子は私に両手を伸ばした。
「もうなくなっちゃった……」
竜だった男の子はあっという間にサンドイッチをたいらげて、悲しそうな顔をしていた。大きな琥珀の瞳が心なしかウルウルしているように見える。
竜の時は大きく見えたけれど、今この状態ということは子どもの竜だったのかもしれない。
――ぐうぅうううう……
お腹から、獣のうなり声みたいな音が響いた。
男の子はびくっと肩を揺らし、慌てて両手でお腹を押さえる。大きな瞳が揺れて、さっきまでの元気がすっと引いていった。
「もしかして、まだお腹空いてるの?」
「うん……すごく、おいしくて……でも、すぐなくなっちゃった……」
恥ずかしそうに視線をそらし、服の裾を指先でもぞもぞと弄る。
笑おうとしているのに、その口元はうまく形にならない。
近くで見れば、頬は少し痩せていて、腕も細かった。
あんなに大きい竜だったはずなのに、今は軽すぎるくらい小さくて、頼りない。
(こんなに、ほっそりしてたんだ)
私は息を呑んだ。
あのサンドイッチひとつで足りるはずがない。
「いつも……ごはんはどうしていたの?」
問いかけると、男の子は少し考えるように眉を寄せた。
それから、ぽつりと答える。
「……わかんない。おぼえてない」
「え?」
「おなかすくの、ずっとだった。いっぱいねむってたから……起きたら、ひとりだった」
「そうなんだ」
こんなに小さい子が、ひとり。いや、さっき見た時はものすごく大きかったから、竜の世界では違うのかもしれないけれど。
私はその子の頭にそっと手を置く。髪はさらさらしているように見えたけれど、土埃が付着している。
「お父さんとか、お母さんはどこかにいるのかなあ?」
恐る恐る聞くと、男の子は綺麗な目をパシパシと何度も瞬かせた。
答えを探すみたいに口を開き、閉じて、最後に小さく首を振る。
「……わかんない。いたのかも、しれない。でも……いまは、いない」
それだけ言って、唇をきゅっと噛みしめる。泣くのを我慢するみたいに、目を伏せて、肩をすくめる。
私は、その仕草を見て決めた。考えるのはあとでいい。
「そっか。だったら、うちにおいで!」
声が少し急いてしまった。
早く温かいものを食べさせたい。お腹いっぱいにして、安心して眠らせてあげたいという気持ちでいっぱいになる。
「町の外れに家があるの。森の入り口から近いから、すぐ着くよ。ごはんも作れるし、お風呂もあるし、ふかふかの布団もある」
「いく!」
男の子の表情がぱっと明るくなる。声がかぶるくらいの即答で、私は笑いながら手を差し出した。
「じゃあ、手をつなごう。森の道は転びやすいからね」
「うん!」
小さな手が、ぎゅっと握り返してくる。細いのに、力はぐっと強い。
「急ごっか。帰ったらすぐ、ごはんにしようね」
「ごはん!」
弾んだ声に、私の足取りも自然と早くなる。
うれしそうにぴょんぴょんと跳ねる男の子を見ていたら、お腹いっぱいにしてあげたくてたまらない。
「あ、そうだ。あの、竜ちゃん」
「え? ボクのこと〜?」
「お名前を教えてもらってもいいかなあ? 私はユーナっていうの」
名前が分からないとなにかと不便だ。そう思った私はその子に名前を尋ねた。
すると、その子はぴん、と背筋を伸ばして、誇らしげに言った。
「ボクのなまえは、フォルグナ=エルド=リヴァルティア=ザイ=オルデュナ=カロス=ヴェル=グラ=アインフェルンだよ!」
「……長いね!?」
素っ頓狂な声が出てしまった。
なんだっけ、昔習った寿限無なんとかみたいにすごく名前が長い……!
とてもではないけど、一回では覚えきれない。
「みんなはフォルってよぶんだよ!」
「そうなんだ。じゃあ、私もフォルって呼ぶね」
「うんっ。ユーナは、ユーナだね!」
にこにことした笑顔は、太陽のように眩しい。
「フォル。町では竜の姿に戻っちゃだめだよ。みんなびっくりしちゃうから」
「ハーイ!」
フォルの返事は明るくて、まっすぐだ。
私はその手を包み込むように握り直し、歩き出す。
(リュシアンさんたちに報告しないとだけれど……でも、心配かけちゃうかなあ)
まだリュシアンさんたちは出発したばかりだ。もし手紙が行き違いになってしまったら困るし、帰らせてしまったら気の毒すぎる。
報告は、もう少し後にしよう。ベリー摘みも明日でいい。
この子の空腹は、今しか埋められないもの。
ベリーの匂いを背にして、私は仔竜のフォルの手を引いて家へ向かった。




