02 一年後、春
朝のキッチンは、まだひんやりと冷たい。窓の外が少しずつ白んでいくのに合わせて、部屋の隅の影もゆっくり薄くなっていく。
私は袖をまくり、昨日のうちにまとめておいた道具を、音を立てないように並べた。
鍋に火を入れると、すぐに湯気がほうっと立ちのぼる。湯気が広がっていくたび、眠っていた空気ごと起きていくみたいで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
木の床は、歩くたびにきしりと鳴る。その小さな音が、今日のはじまりを教えてくれる。
「おはよう、ユーナちゃん。今朝も早いわねえ」
声に顔を上げると、マティルダさんが戸口に立っていた。肩に掛けたストールを整えながら、少し眠たげな目を細めて微笑んでいる。その後ろから、リュシアンさんもゆっくりと台所に入ってきた。
「おはようございます。スープ、もうすぐ温まりますよ」
「いい匂いね。ユーナちゃんの作るスープは本当に美味しいもの。それにしても、もう少しゆっくり寝ていてもいいのよ?」
マティルダさんはそう言って、鍋を覗き込みながら穏やかに笑った。
リュシアンさんも食器を抱え、同意するように小さくうなずく。
「マティルダの言う通りだ。たまには朝寝坊をしてもいいんだよ」
二人は、出会ったときからずっと優しい。
ここはフィルデンリア王国という、緑豊かな土地と穏やかな気候に恵まれた、平和な国だそうだ。森や湖が点在し、魔法が当たり前のように暮らしの中に根づいていて、人々は自然と共に静かに暮らしている。
私が暮らしているのは、その西の端にあるミレスタという町。
森に面した、小さくて素朴な町だ。人の数は多くないけれど、みんな親切で温かくて、季節ごとの果物や野菜が並ぶ市場もある。顔立ちはみんな西洋風なのに、なぜだか私の言葉は通じて、あちらの言葉も理解できる。
朝は水車の音で目が覚めて、夜にはフクロウの声が遠くに聞こえる。そんなのどかな場所だ。
最初の数日は混乱の連続だったけれど、幸運にも私はこの世界の人に助けられた。
森の近くの町で暮らす老夫婦――元騎士のリュシアンさんと、薬師だったマティルダさん。異世界からきた私を疑うことなく受け入れてくれて、温かい食事と眠る場所を与えてくれた。
両親を失って、知らない世界に来たことが受け入れられない日々がしばらく続いた。
もしかしたら私も死んでしまったのかもしれない。部屋から出られずにベッドに座り込んでいたとき、マティルダさんが特製のポタージュを持ってきてくれた。
その香りがあまりにも優しくて、お父さんの作ってくれたものが懐かしくて。夢中になって食べ終わったとき、こちらを嬉しそうに見ている二人に気が付いた。
ずっと食事を摂らない私のことを、心から案じてくれていたらしい。涙が溢れて、しょっぱかった。それと同時に、ポタージュを食べ終わったらお腹が空く感覚がわかった。
私はまだ生きたいんだと気づいて、また涙が溢れた。
いまだに信じられないことばかりだけど、それでも、私のできることをがんばろうと少しずつ思えるようになった。
食材は自分で森に採りに行き、水は井戸から汲み、燃料は薪。便利とは言いがたい生活だけど、火加減と塩加減に気をつければ、美味しいごはんはちゃんとできる。
この世界でも、私には料理がある。それが私の拠りどころだった。
「大丈夫です。お料理は好きですし、私がおふたりにできることって、これくらいなので」
咄嗟にそう言うと、マティルダさんとリュシアンさんは、ほんの少しだけ困ったような顔をした。
マティルダさんは一度、私の手元を見てから、息をつく。
「ユーナちゃんはね、もう十分頑張っているわ」
そう言われて、胸の奥が少しだけざわついた。
十分、と言われるほどのことをしているだろうか。住む場所をもらって、食事を分けてもらっている。
元騎士だったというリュシアンさんは、今も毎日、森や町の見回りをしている。剣を振るうことはなくなったそうだけれど、町の人たちは皆、自然と彼を頼りにしているのが分かる。
マティルダさんは元宮廷薬師で、今も診療所に通い、後進の指導にあたっている。
そんな二人のおかげで私も町の人と仲良くなることができたし、恩返しができている気がまるでしない。
「ありがとうございます、マティルダさん! パンも焼けたので、朝食にしてもいいでしょうか?」
そう声をかけると、マティルダさんはにっこり笑った。
「ええ。だったら私はお礼に特製の薬草ジュースを作ろうかしら」
「やめておきなさい、マティルダ。人が飲めたものではないよ」
リュシアンさんが真剣な顔で首を横に振る。
マティルダさんは頬に手を当て、大げさにため息をついた。
「あら、ひどいわ。日々改良しているのに」
「その改良が問題なんだ」
淡々と返すリュシアンさんに、マティルダさんは肩をすくめて笑う。
二人のやりとりは、長年連れ添った夫婦そのもので、見ているだけで空気が和らぐ。
みんなで席につき、食事を始める。
「今日も美味しいわ。ユーナちゃん」
マティルダさんがそう言って、ほっとしたように微笑む。
「うん、元気が出る味だね」
リュシアンさんも短く答える。
その言葉を聞いて、私は少しだけ肩の力を抜いた。おいしくなるように、とは思っているけれど、やはりこうやって直接言葉をもらえると嬉しくなる。
「そういえば、お二人は今日のお昼に出発するんでしたよね」
「ええ、昼の鐘が鳴る少し前に出る予定よ」
マティルダさんがそう答えて、カップを両手で包んだ。
王都にいる孫夫婦にひ孫が生まれたという連絡が来たのは一週間ほど前のことだ。
洗礼の儀式のために、ぜひ二人も王都に来て欲しいと添えられていたそうだ。
「赤ちゃん、きっととってもかわいいでしょうね」
「ええ、それはもう可愛いに違いないわ。珍しく孫の手紙の文字も浮かれていてね。……私にとってはあの子もまだ赤ちゃんのようなものだったのに、大きくなったのねえ」
マティルダさんは嬉しそうに言ってから、ふと視線を落とす。
「でも、ユーナちゃんをひとりにするのが心配だわ……やっぱりどちらか残ろうかしら? ねえリュシアン、そうしませんか?」
「そうだねえ。この町は安全とはいえ、やはりなあ」
「診療所の子たちには目を光らせるように言ってはいるけれど、絶対はないでしょうし」
「私も町長やギルド長にも声をかけているが、それでも万が一ということがあってはな」
「ローレンツには悪いけど、やっぱり欠席しようかしら」
「そうだね」
「ち、ちょっと待ってください!」
なんだか雲行きが怪しい。そう思ったら声が出て、二人の視線がこちらに向いた。
「せっかくなんですから、お二人で行ってください。短い期間ですし、ちゃんとお留守番できます!」
二人が王都に滞在するのは一週間と聞いている。そのくらいなら、きっと大丈夫なはず。
家族の時間は私にはもう戻らないものだけれど、だからこそ、目の前にあるそれを大切にしてほしかった。
「本当に大丈夫です。おふたりが心配するようなこと、何もありませんから」
「でも……」
「食堂も昼だけですし、町の人たちも顔見知りですし。何かあったら、ちゃんと頼れます」
言いながら、自分でも少し早口だとわかっていた。
それでも止まらない。
「せっかくのお祝いなんですから、二人そろって行ってください。赤ちゃんに会える機会なんて、そう何度もあるわけじゃないですし」
不自然なくらいの熱量で言い切ると、マティルダさんとリュシアンさんは、ふたりで顔を見合わせて少し驚いたように目を瞬かせていた。
「では、ユーナちゃん。行ってくるよ」
リュシアンさんはそう言って、穏やかに頷いた。馬車の前に立つ姿は背筋がシャンと伸びていて、落ち着きや気品が感じられた。
「ユーナちゃん、お土産たくさん買ってくるからね!」
マティルダさんの明るい声も重なり、朝の空気がふっとやわらぐ。
私はその言葉をしっかり受け取って、笑顔で頷いた。
「はい、楽しみにしています。王都のお話も、いっぱい聞かせてくださいね」
「いい? 戸締まりは必ず確認すること。夜は出歩かないで。薪は切らしてないわね? 体調が悪くなったらすぐ休むのよ。あとはそうね、戸棚にあるハーブや薬草はどれも使っていいし、特製ジュースのレシピも書いておいたわ」
次から次へと並ぶ言葉に、私はとうとう噴き出した。
「ふふ、わかりました」
特製薬草ジュース、という言葉に、頭の片隅で一度だけの記憶がよみがえった。
色はきれいだったけれど、ひと口で顔が引きつるほど苦くて、飲み干すのにずいぶん時間がかかったのだ。
その様子を思い出したのか、リュシアンさんが小さく息をつき、やれやれといった表情を浮かべる。
「あれは、無理に飲まなくていいからね」
「まあ、リュシアン。体にいいのよ?」
軽く言い合う二人を見て、朝の空気がまた少し和む。
そのあとで、リュシアンさんは外套の内側から一枚の紙を取り出した。
「何かあったら、ここに連絡するように。私たちの滞在先だよ」
そう言って差し出された紙を、私は両手で受け取った。レーヴェ家という名前が書いてある。
「ありがとうございます。ちゃんと大事にしますね」
そう答えると、リュシアンさんは静かに頷いた。
「困ったときは、我慢しなくていい」
「はい。でも――きっと大丈夫です」
そう答えると、リュシアンさんは少し難しい顔をしながらも小さく頷いた。
馬車が動き出す。
「行ってらっしゃい!」
手を振ると、マティルダさんも身を乗り出して手を振り返してくれた。
馬車が角を曲がり、姿が見えなくなっても、私はしばらくその場に立っていた。




