23 大紅猪のスペアリブ
お昼の開店に向けて、食堂の中にはゆったりとした仕込みの時間が流れている。
窓からの日差しが木の調理台を明るく照らし、磨いたばかりの鍋や皿がやわらかく光を返している。
「よし、やるぞ〜!」
今日のメニューは大紅猪のスペアリブ。
気合いを入れた私は、大きな骨付き肉をまずは大きめの鍋に並べた。
香りづけのための根菜と、叩いた香草、それからお水をたっぷり注いで火にかける。野菜の皮や切り落とす端材も使うことで、食材を余すことなく使うことができる。
やがて鍋肌が小さく震え、白い泡がふつふつと浮かび上がってきた。
ことことと穏やかな音が、台所に満ちていく。
強すぎない火でゆっくりと脂と余分な匂いを抜いていくと、肉の旨みだけが中に残るのだと、お父さんがよく言っていた。
灰汁を丁寧にすくいながら、私は次の準備に取りかかった。
香辛料や葡萄酒、トマトペーストを混ぜ合わせて、甘辛い特製ソースを作っていく。
(……お母さんの作るバーベキューソース、すごく美味しかったもんなあ)
手を動かしながら、自然と記憶がよみがえる。
メインの調理はいつもお父さんだったけれど、このソースだけはお母さんの担当だった。
甘めで、少し果物の風味が強くて。最初は『子ども向けすぎる』とお父さんが笑っていたのに、私が好きだと言ったら、いつの間にか店の定番メニューになっていた。
『優菜のおかげね』とお母さんは笑っていたっけ。
最後にベリーのジャムを隠し味に落とすと、懐かしい甘い香りがふわりと広がった。
あの頃の厨房の空気が、一瞬だけここに重なる。
頃合いを見て鍋の火を止め、水気を切りながら骨付き肉を引き上げる。余分な脂が落ち、臭みも抜けている。これなら焼き時間も短くて済む。
この下ごしらえのおかげで、注文が立て込んでいてもスペアリブをすぐ出せた。忙しい時間でも慌てないように――そうやってお父さんたちが工夫していた日々を、思い出す。
「……っ」
思い出してしまうと、止まらなかった。胸の奥が、締め付けられるみたいにぎゅうと痛む。
下を向けば、何かがこぼれてしまいそうで、私は一度大きく息を吸った。
「ユーナ! これ、ぴかぴかになった!」
弾んだ声が飛んできて、はっと顔を上げる。
フォルが得意げに布巾を掲げていた。机の一角だけが、やたらと念入りに磨かれている。
「見て見て、クロード、ここ!」
「ああ、よくできてる」
クロードさんが短く答えると、フォルはさらに嬉しそうに胸を張った。
その様子があんまり真っ直ぐで、あったかくて。胸の奥にたまっていたものが、すうっとほどけていく。
「ありがとう、フォル。すごく助かるよ」
「えへへ!」
くしゃっと笑う顔に、自然と私も笑っていた。
――今は、おいしいごはんを作ることに集中しよう。
私は袖口でそっと目元をぬぐい、調理台に向き直る。
スペアリブにソースをもみ込んで、あとは開店の少し前にオーブンで焼くだけ。
開店時間まで、あと半刻。
私は先ほどの下茹での茹で汁をこして、小鍋に移していた。大紅猪の旨みと香草の香りが溶け込んだ出汁は、それだけで立派なスープになる。
刻んだ根菜を加え、弱火でゆっくり温め直す。
表面に小さな泡が浮かび、ほっとする匂いが立ちのぼった。
(よし、あとは塩で整えれば――)
味見をしようと木匙を伸ばした、そのときだった。
「ユーナ」
足元のほうから、ぽつりと声がする。
振り向くと、フォルが椅子から降りて、入口のほうをじっと見ていた。
「なんか、きた」
「え?」
次の瞬間。
ばたん、と勢いよく扉が開いた。
「ユーナおねーちゃん!」
「きょうのごはんなあに!?」
「いいにおいする!」
近所の子どもたちだ。わあっと雪崩れ込んできて、食堂は一気ににぎやかになる。
「まだ開店前だから、ごはんは出来てないよ?」
笑いながら言うと、子どもたちはカウンターの前に並んで背伸びをする。
「おにく?」
「うん。今日はね、大紅猪のスペアリブだよ」
「やったー!」
「オレしってる、でっけー猪なんだぞ。父ちゃんが言ってた!」
「あたしもしってる! 畑をあらすから、ゆるさないって」
大紅猪は最近、森の少し手前でも見かけるようになったらしい。
本来はもっと奥地にいるはずなのに、ここ数か月で生息域が変わってきていると町の人たちは話していた。
おかげでこれまで被害のなかった畑も荒らされたりするので、冒険者たちも総出で対応に当たっているそうだ。
今日持ち込まれたこの大紅猪もそうした経緯で討伐されたもので、私の役目としてはこれを美味しく調理することだと思って張り切っている。
(やっぱり、霊峰のことでいろいろと変わってきているのかな)
この町に一年あまりしか暮らしていない私と違って、町の人たちにとってこの変化はやはり気がかりなものらしい。
冒険者たちも日に何度も見回りをして、町の人たちも声を掛け合っている。
「オレこの前さ、南の森の近くで足あと見たんだぜ〜!」
「お、おれもみたことある! おっきかったよな!」
「うそつけ!」
すぐに別の男の子が声を上げる。
「そんなとこに大紅猪の足あとなんかねえよ! 父ちゃんが言ってたもん、もっと奥だって!」
「ほんとだって! オレ見たし!」
「ぜったい嘘だろ!」
「嘘じゃないってば!」
ぐいぐいと顔を寄せ合って、互いの肩を押し合いながら言い張る。
どちらも一歩も引かない様子に、まるで自分の方が森を知っていると競っているみたいで、声だけがどんどん大きくなる。
「じゃあ見にいこうぜ! ショーコを見せてやる!」
「ああ! ゼッタイうそじゃないからな!」
「こらこら、森は遊び場じゃないよ」
私は手を止めて、少しだけ声を張った。
「大紅猪とかこわい魔獣が出るって話をみんなも聞いてるでしょ? 子どもだけで近づいたら危ないよ」
何人かは気まずそうに目をそらしたけれど、言い合いの勢いは止まらない。
「でも、すぐそこだし! 足あと見るだけだし!」
「こいつがウソついてるか確かめるだけだって!」
「だからウソじゃないって言ってんだろ!」
肩を押し合いながら、どちらも引く気配がない。
私は思わず一歩前に出る。
「だめだよ、本当に危な――」
「――やめないか」
低い声が、すぐ後ろから落ちた。
ぴたりと空気が止まる。
振り返らなくても分かった。クロードさんだ。
腕を組み、子どもたちをまっすぐ見下ろしている。
「森は今、安全ではない。魔獣の出没が増えていると、大人たちから聞いているだろう」
落ち着いた声なのに、逆らえない重さがあった。
「足あとを見に行くだけでも危険だ。好奇心で近づいていい場所ではない」
子どもたちは一気に押し黙る。
「……は、はい」
「ご、ごめんなさい」
「もう行かない!」
誰かが小さく「こわ……」と漏らしたのを合図にしたみたいに、
「に、にげろー!」
と叫び声が上がり、騒いでいた子どもたちは一斉に駆け出していった。
ばたばたと足音を響かせて、あっという間に外へ消えてしまう。
そして、食堂には静けさが戻る。
「効き目、抜群でしたね」
私が苦笑しながら振り返ると、クロードさんは視線を少し落とす。
「……森は危険だからな」
いつもと同じ調子なのに、気まずそうに見えた。
私は木べらを持ったまま小さく笑う。
「ちゃんと伝えるのは大切ですもんね。今はベリーを採りに行くのも危ないですし……クロードさんが本気で心配してるって分かります」
「……そうか」
小さな返事が返ってくる。
その横顔が、少しだけやわらいだ気がした。




